〈中世日本紀〉の輪郭 '24 〜「今は昔」の「別の説」〜

 子供むけの〈中世日本紀〉入門

目次

竹取物語
第六天魔王譚
熊野・白山
大日孁
春日大社
牛頭天王
熱田宮
蟻通縁起


竹取物語

 雄略天皇の時代に駿河国の富士郡に、管竹のおきなというおじいさんと、加竹のおうなというおばあさんがいました。おじいさんと、おばあさんには、一人も子供がいなかったので、あけてもくれても、そのことを嘆いていると竹やぶの中に5〜6才の美しい女の子がいました。その女の子の美しさは辺り一面を照らしているようでした。その女の子を赫野姫(カクヤヒメ)となづけました。赫野姫は大きくなると、さらに美しくなったので、国司が赫野姫のことを好きになったので、夫婦になりました。
 そうやって何年かがすぎると、おじいさんと、おばあさんは死んでしまいました。赫野姫は国司に、
「私は富士山の仙女です。おじいさんと、おばあさんは信心があつかったので、私も子供となりましたが、おじいさんと、おばあさんが死んでしまったので、あなたとも一緒にいる理由がなくなったので、仙宮に帰ります」
と言うと、国司は悲しみました。
「私は富士山の山頂にいます。こいしいときには来てみて下さい。また、この箱を見て下さい」
と、赫野姫はいい国司に箱をわたし赫野姫は、かき消すようにいなくなりました。
 国司は赫野姫をこいしく思うときは箱を見ていましたが、たえられなくなって、富士山頂にいきました。山頂には池があって煙(ケムリ)のなかから赫野姫があらわれました。それをみて国司はその池に身を投げてしまいました。
 この赫野姫と国司が神となって、富士浅間大菩薩になったそうです。男体・女体があります。詳細は『日本記』に載っています。『富士縁起』のも『日本記』の大意をとって書いたものです。

「富士浅間大菩薩の事」『神道集』より 
『神道集』では『竹取物語』のような内容の物語に「日本記に書かれている」というような註釈をくわえて書かれています。現代のように日本神話は『古事記』・『日本書紀』に代表される物語のアウトラインがあるのではなく、中世には、さまざまなバリエーションの物語が日本史や日本神話の重要な部分だと考えられていました。中世を中心に広がった記紀神話(『古事記』・『日本書紀』で語られる神話群)とは異なるような内容を含む説話を〈中世日本紀〉といいます。
 今回は、いくつかの現代語訳を使って〈中世日本紀〉の世界に足を踏み入れてみたいと思います。
『竹取物語』と『神道集』の物語で大きく違うのは『神道集』では天皇ではなく国司がカクヤヒメの相手になっていることでしょう。
 この時代国司は貴族と呼べるか呼べないか分からないような、下級の役人が勤める役職なのですが、各国から考えると天皇の代理となるのが国司の役割で、国司には天皇の代理としての〈王〉としてのふるまいが求められました。この時代の国司というと都での冷遇と任国での富の蓄積がメインに語られますが、個人的には国司の〈王〉としてのふるまいについても、もっと言及されてもいいように思います。

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第六天魔王譚

 昔、この国が無いときに大海の底に大日如来の印文(いんもん)があったので、大神宮が御鉾(みほこ)をさしいれてお探りになった。その鉾の滴りが露のようになったのを第六天魔王(だいろくてんのまおう)がはるかに見て、この滴りが国となって仏法が流布して人が成仏する相があるとして、人を成仏させないように下りてきた。大神宮は魔王の所に行き向かい合って「私は三宝(仏・法・僧)の名前なんていわない。私の身近にも近づけない。さあ、さあ、帰って下さい」と言って、帰してしまった。その約束を違えないように、坊さんは御殿の近くまで行かない。
 社壇にはお経本なんかおおっぴらに持たない。三宝の名前も正しく言わないで、“仏”をば“立ちずくみ”、“経”をば“染紙”、“僧”をば“髪長”。“堂”をば“こりたき”なんて言って、外では仏法をうざいものとして、内では三宝を守っているので、我が国の仏法は、ひとえに大神宮の御守護によるものである。当社は本朝の諸神の父母である。
 ということで、大海の底の大日如来の印文より事がおこったので、内宮・外宮は両部(りょうぶ=胎蔵・金剛界)の大日如来だといい伝えられている。
 天岩戸とは都率天(とそつてん)である。高天原(たかまのはら)ともいう。日域(じちいき)にあとを垂れられたので、内宮は胎蔵の大日如来。四重曼荼羅をかたどって、玉垣(たまがき)、瑞垣(みずがき)、荒垣(あらがき)などが重々めぐっている。鰹木(かつおぎ)も9つある。胎蔵の九尊(くそん)をかたどっている。外宮は金剛界の大日如来、あるいは阿弥陀如来ともいわれている。

「大神宮の御事」『沙石集』より
 愛知県名古屋市の長母寺で住職を務めた無住の著(あらわ)した『沙石集』で語られる内容です。今では〈中世日本紀〉や中世の神仏の関係を語るのに、1番の基本資料のように語られる内容ですが、改めてあげておきます。
『古事記』では、イザナギ・イザナミが国生みの最初に海底に逆鉾をさしてオノゴロ島をつくりますが、大神宮と呼ばれるアマテラスは大日如来という仏様のシルシを探します。
 第六天魔王は仏教で、この世のあり方を説明する時に登場するのですが、この世の主(あるじ)として人びとが仏教を信じて、この世から極楽へ行ってしまうのではないかと気になって大神宮に声をかけます。
 このタイプの物語は大神宮と呼ばれる伊勢神宮のいわれや、宮中にある三種の神器の1つである神璽(しんじ)のいわれとして語られます。
 この物語で注目されるのは無住が伊勢神宮を訪れた時に神官から、この物語を聞いたということです。神道書や注釈書のような研究者というか専門に学ぶ人だけではなく多くの人に語られ共有された物語だということです。
 この物語には韓国に類話があります。(任東権著・熊谷治訳「37海と陸地の由来」『韓国の民話』雄山閣 p57)この時に1つ注意しないといけないのは、日本と韓国は、あまり遠くない時期に1つの国として存在したという考え方もあることです。日本の昔ばなしのようにイソップ物語が語られるように、日本の神話と韓国の昔話が混淆(こんこう)してしまっている可能性も否定できません。逆に、これが比較的古い時代になされていたとすると文化交流のように、注目すべき事象になるようで、つきつめて考えると複雑な感覚になります。

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熊野・白山

 熊野権現(くまののごんげん)というのは、伊弉諾(いざなぎ)でいらっしゃいます。白山権現(はくさんごんげん)というのは、伊弉冊(いざなみ)でいらっしゃいます。そうであることによって、日本国を、お作りになって、天照大神(てんしょうだいじん)に、お譲(ゆず)りにおなりになって、(伊弉諾が)摩訶陀国(まがだこく)で大王(だいおう)に、おなりになったのが、王家が滅んだので我が国で(迹を垂れたの)です。その理由は、末代(まつだい) 仏法(ぶっぽう) 成就(じょうじゅ)の地(ち)であるべきとして、また日本国へ、飛んでお帰りになられて、紀伊国(きのくに)の音無川(おとなしがわ)のそばに熊野権現(くまののごんげん)として、おあらわれになって、擁護(おうご)、塵(ちり)に交(まじ)りて、衆(しゅ)生(じょう)を済度(さいど)なさります。
(伊弉冊(いざなみ)は山野(さんや)を三輪(みわ)明神(みょうじん)に、おゆずりになって)百済国(はくさいこく)の大王(だいおう)として、おあらわれになったのが、王家(おうけ)が滅(ほろ)んだので、日本国に飛んでお帰りになって、北陸道(ほくりくどう)の中の白山権現(はくさんごんげん)としてあらわれ、衆生を済度なさります。

『熱田の深秘』より
 中世には『熊野の本地』という御伽草子で熊野本宮のことはよく知られていました。イザナミが白山神社の祭神だということは現代でも白山神社の中にはイザナミを祭神にしている神社もありますし、多くの白山神社が祭神としているククリヒメもナギナミの黄泉の国の神話に登場する神で、白山とイザナミの関係は古代から一定の近さがあったのでしょう。
 熊野本宮はイザナギ、白山神社はイザナミで、ナギナミが日本を作られ、アマテラスに日本を、ゆずられた後にイザナギはインドの摩訶陀国の大王になったといいます。大王になった後に、日本が、ずっと仏法が成就する国なので熊野本宮として再び日本の人びとを救われるようになったといいます。
 イザナミは山野を大神神社にゆずられた後に韓国の百済(くだら)の大王になって、百済がなくなったので日本にお帰りになって白山神社の祭神になって人びとを救われるようになったといいます。
 韓国からは韓国の国内事情も影響して多くの技術者集団や移民・難民が古代・中世の日本にもやってきました。多くの韓国人が日本を目指したのではなく、結果的に日本に定住するようになったと考えられているので渡来人と呼(よ)ばれます。韓国からの影響のつよさ、技術の高さは、瓦の模様や仏像、高麗鐘(日本の梵鐘とは違う韓国式の、つり鐘。朝鮮鐘ともよぶ)などが日本に数多く残っていることからも、よく分かります。各地に韓国(からくに)神社とよばれる神社があることも渡来人の多さを感じさせる事がらです。

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大日孁

 震旦(したん)国の陳(ちん)の大王のお姫様に、大比留女御子(おおひるめのみこ)と言う人がいました。大比留女は7才のときに男の子をうみました。それを、みんな不思議がりました。大比留女が侍女に、
「私にも、理由がよく分からないのだけれども……止めることのできない人が来て、おなかの中に入っていく夢を夢をみました。夢から覚めると、日の光りがいつになく、やさしく私を照らしていました。この事以外に、私が子供をうんだことにたいしてのくわしいことはわかりません」
と言ったそうです。
 それから3〜4年して、大比留女のした事は人のすることではないし、大比留女のうんだ子供は化け物かもしれないので、皇太子にすることはできないということで、大比留女と、その子供を船にのせて「この船のついたところを治めなさい」といって、海にほうりなげました。この船の事を八幡御前といったので、その船のついたところを八幡崎というそうです。大比留女の子供は、そこにいた海女に、
「私は、もとこの国の主である応神天皇(品陀和気命)のうまれかわりである」
といったそうです。
 この大比留女の子供が神となって、正八幡宮に、まつられるようになったそうです。

「正八幡宮の事」『神道集』より 
 これは大好きな話。応神天皇の母親が中国にいたアマテラスで、しかもアマテラスは男性との関係もなく出産します。子供の出生に不審を感じた側近が八幡御前と呼ばれる船にアマテラスと子供を乗せて放出してしまいます。八幡崎についた子供は自分が応神天皇の生まれ変わりだと宣言します。
 正八幡宮は一般に現在の鹿児島神宮に比定される神社で、このような物語は正八幡宮に限定して語られるのではなく、さまざまな神社の縁起として流用されているのだと思います。
 貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)と呼ばれる他所(よそ)からやってきた貴人が試練を経(へ)ることで英雄や神になるという物語の類型があるのですが、九州という土地柄、海外からの漂着民も多いでしょうし、そのような特異な人びとに貴種流離譚的な物語が付加されることが、少なからずあったのでしょう。
 オホヒルメは天照大神の異称で『日本書紀』では天照大神と語られるより、日神とか大日孁・大日孁貴(オホヒルメムチ)と表記されることの方が多いです。
 現代のナショナリズムのような考え方では中国出身のアマテラスというのは不思議な感じがしますが、中世では海外から、やってきたという異能性のようなモノが正八幡宮の祭神の性能として機能しています。
 八幡神は託宣(たくせん)とよばれる神様からの、お告げをすることで知られています。正八幡宮の海女に語った内容も託宣で祭神が自分の出自を自身から発言することは重要なことだと考えられていました。

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春日大社

 春日大社の神様が常陸国から三笠山(みかさやま)に住む所をかえたとき、神様は鹿に乗り、柿の枝をムチにして出発した。
 神護景雲元年(767年)6月21日に伊賀国名張郡夏身郷(なつみのさと)についた。一ノ瀬(いちのせ)という川で水浴びをしている間に、ムチが川岸で大きな木になった。
 また、同じ国のある山で数ヶ月いたとき、神様は時風(人名)と秀行(人名)たちに焼き栗を一つづつあたえ「あなたたちが、子孫にいたるまで絶えることなく私につかえるのなら、その栗は芽を出すだろう」と言った。時風と秀行たちは、栗を植えた。そのことにより、中臣殖栗連(なかとみのえぐりのむらじ)という一族がうまれた。
 12月7日、大和国城上郡阿部山にうつった。神護景雲2年(768年)正月9日、同じ国の添上郡三笠山にうつられた。アメノコヤネ命とイワイヌシ命が春日大社の神様をおまつりした。春日大社の神様は「日本の国の中で三笠山より有名な霊地はない。だから、ここに住むことにする。天皇と他の氏族を守る。また、法相宗もお守りする」といった。

『春日大社古社記』より
 春日大社は伊勢神宮、八幡宮と3柱で特別な神社とされます。春日大社は藤原氏の氏神とされ、奈良の春日に鎮座しますが、もとは常陸の鹿島神宮・香取神宮からやってきたとされます。
 一般に栗の実は焼いたり煮たりすると発芽する力を失うとされますが、難業を成し遂げる結果として、あり得ないことが、おきたという象徴として、しばしば焼き栗・煮栗が発芽するという例え話がなされます。『宇治拾遺物語』でも天武天皇の壬申の乱の折、栗が発芽して今でもみることができるとされます。

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牛頭天王

 昔、むかし、九相天に、東王父と西王母がいました。二人のあいだには、牛頭天王(ごずてんのう)という子供がいました。
 牛頭天王は人々を助けるために、九相天より帝利迦国(ていりきゃこく)の北海のあたりにやってきました。吉祥園というところで、40年間一人でいて「武とは芸、塔とは弁、天とは強、神とは力、王とは通」という5徳を体得して、武塔天神(むとうてんじん)となのりました。
 ある日、牛頭天王の所へハトがやってきて、
「南海の沙竭羅龍王(さかつらりゅうおう)の第3の娘の薩加陀女(さかたにょ)という美しい女がいますよ」
と鳴いて、南の方へ飛んで行きました。牛頭天王はハトのあとをおって、南海にむかいました。
 薩加陀女のいる龍宮までは4万里。牛頭天王は3万7千9百里来たところでつかれてしまい、日も暮れてきたので、この先を進むことができません。そこで、道のすぐそばに巨丹将来(こたんしょうらい)の家があったので、牛頭天王は巨丹に一晩とめてもらうことをたのみますが、ことわられ、その先の蘇民将来(そみんしょうらい)の家にとめてもらうことになりました。
 そうして、牛頭天王は龍宮につき薩加陀女と夫婦になり8年間をすごし8人の子供をつくりました。
 それから8年ののち、牛頭天王は8人の王子をつれ、南海の龍宮をあとにし吉祥園に帰ることになりました。
 その途中で牛頭天王は蘇民将来の家によって、巨丹がいじわるをしたのでうらんでいるということを蘇民に言うと、蘇民は、
「巨丹の家には私の娘が嫁にいってます。どうにか助ける方法はありませんか」
と、牛頭天王にいうと、
「札と茅輪(ちのわ)をつくって左右の脇につけておけば大丈夫だ」
と、牛頭天王は言いました。
 その夜、巨丹の家の者、6百人あまりが死にましたが、蘇民の娘は助かりました。それ以来、蘇民の家にはたたりがないそうです。

「津島神社・牛頭天王縁起」『津島神社史料』より
 牛頭天王は武塔天神ともよばれます。龍宮に美しい女がいると聞いて旅にでますが日が暮れてしまいます。巨丹将来に宿を求めますが断られ蘇民将来の家に泊めてもらいます。牛頭天王が龍宮から帰る時に蘇民の家によって札と茅輪を脇につけておくようにいいます。
 このような物語を蘇民将来譚と呼ぶのですが、このような類話で1番有名なのは『釈日本紀』という『日本書紀』の注釈書に引用された「備後風土記」逸文です。今回の物語と風土記逸文を比較すると、牛頭天王や龍王など仏教色や中国の文献の影響の強い言葉が今回の物語には頻出していることが注目されます。個人的に「備後風土記」が仏教色をくわえるカタチで今回の物語のようになったと、単純に前後関係を考えるのは少し危険なような気がしていて、もっと仏教色の強い蘇民将来譚が風土記逸文という立前として仏教色のない文献にマッシュアップされるような可能性も考えないと、大きく見誤る危険性もあるように感じます。
 韓国の『三国遺事』という本に蘇民将来譚によく似た物語が語られているといいます。(小倉紀蔵氏『朝鮮思想全史』ちくま新書 p103)またアイヌ語ではコタンというのは集落を意味する単語だといわれます。日本で内向きに、このような物語ができたのではなくて、少し地域的に広くみないと本来のあり方を、み誤る可能性も感じます。

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より深く学ぶために

熱田宮

 熱田大明神と言うのは、熱田八剣(あつたはっけん)である。二つの説がある。
 一説には、熱田の本地は大日如来であり、この仏は、三世常住(さんせじょうじゅう)の教主で、十方遍満(じっぽうへんまん)の如来である。その名前は密教から出て、その利益は、顕教(けんぎょう)より明らかである。ただ、仏と仏の境界にいて、等覚菩薩(とうかくぼさつ)などもおさめている。すなはち、あらゆる人を唯識論(ゆいしきろん)を使って教化(きょうか)してしまう。その体性は、法界衆生(ほっかいしゅじょう)はすべて大日如来である。
 神宮寺は薬師である。八剣(はっけん)は太郎・次郎の御神であり、本地は毘沙門天・不動明王である。日別・火神の御神は、三郎・四郎の御神であり、本地は地蔵菩薩・阿弥陀如来である。大福殿の本地は虚空蔵菩薩である。後見源太夫殿は雑事を進められた人である。
 また一説に、熱田の五本地は五智如来と伝えている。ゆえに大宮は五智如来であると分かる。尾張国の一宮は真清田大明神(ますみだだいみょうじん)であり、本地は地蔵菩薩である。二宮は太覚光明神であり、本地は千手観音である。三宮は熱田大明神である。また、ある人が言うには、熱田大明神は我が朝尾張国でも三宮であり、総じては、閻浮提(えんぶだい)の内の第三宮である。ある人が言うには、賀茂大明神も、同じ立場だと言う。

「熱田大明神事」『神道集』より
 そもそも八頭(やつがしら)の大蛇(だいじゃ)というのは、熊野権現(くまののごんげん)の化身(けしん)です。八尾(び)、八識(しき)、十六の目(め)は、十六(じゅうろく)大菩薩(だいぼさつ)の知恵(ちえ)の眼(まなこ)です。
 8尾(び)*とは、8人の童子(どうじ)(です)。大宮(おおみや)の御本地(ほんち)は五智如来(ごちのにょらい)、八剣宮(はちけんぐう)は不動(ふどう)、高蔵(たかくら)は毘沙門(びしゃもん)天王(てんのう)、日破(ひはり)は地蔵(じぞう)、氷上(ひかみ)は聖観音(しょうかんのん)。大宮は4面(めん)8手(しゅ)といって、お顔(かお)が四方(しほう)にあって、お手(て)が8つあるのです。

『熱田の深秘』より
 東方(とうほう)は大円鏡智(だいえんきょうち)、南方(なんぽう)は平等性智(びょうどうせいち )、西方(さいほう)は妙観察智(みょうかんさつち )、北方(ほっぽう)は成所作智(じょうしょさち )、中央(ちゅうおう)は法界体性智(ほうかいたいしょうち)であります。そうはいっても、衆生(しゅじょう)を化度(けど)するために、日本(国)・尾張国(をはりのくに)・愛智郡(あいちのこおり)に迹(あと)を、お垂(た)れになりました。
(東方(とうほう)に阿閦(あしゅく)仏(ぶつ)の因位(いんい)は素盞烏尊(そさのをのみこと)です)南方(なんぽう)・宝生仏(ほうしょうぶつ)というのはミヤズ姫(ひめ)です。今の氷上宮(ひかみのみや)はこれです。聖観音(しょうかんのん)の化身(けしん)です。西方(さいほう)の阿弥陀(あみだ)と、おっしゃるのは、伊弉冊尊(いざなみのみこと)です。北方(ほっぽう)の釈迦如来(しゃかにょらい)は稲田姫(いなだひめ)、中央(ちゅうおう)の大日如来(だいにちにょらい)は天照大神(てんしょうだいじん)の御ことです。
 今、お現(あらわ)れなっている、村雲剣(むらくものけん)は、天照大神の変化(へんげ)ともいうのです(また、熊野権現(くまののごんげん)と化現(けげん)なさりました)草薙剣(くさなぎのけん)とも名付(なづ)けられています。そうなので、熊野権現(くまののごんげん)、天照大神、熱田(あつた)大明神(だいみょうじん)は一体(いったい)の分身(ぶんしん)でいらっしゃいます。

『熱田の深秘』より
 中央の大日如来1尊に東西南北の4尊をくわえた5尊を五智如来と認識することは密教では一般になされていることです。不動明王と毘沙門天の2尊を一対にして中尊の脇侍(きょうじ)にすることも、ままあることです。これらの物語の中では神様と仏様が複雑に絡まっているように感じますが、実際には3つの物語の中で対応関係は一対一になっているのかもしれません。
 同じような物語がいろいろな所で説明されるということは、少なくない人が、このような物語に親しんでいて、理解まではいかなくても、よくある話として向き合っていたのでしょう。

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蟻通縁起

 蟻通し明神の話をしよう。
 欽明(きんめい)天皇の時、唐から神璽(しんじ)という玉が大般若経(だいはんにゃきょう)について日本に渡ってきた。この玉はもと、天照大神が天から地上に下られる時、第六天の魔王にたのんでもらいうけて国を治めるのに使った宝物である。人皇の時代になってからも代々の天皇はお守りにしていたが、孝昭天皇の時、天(あめ)の朔女(さくめ)が計略を用いて、この玉を盗んで天に昇り、姿を隠してしまった。
 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は大般若経を中国へ持ってくるために仏の誕生地インドへ渡った。大般若経を守護する十六善神の一人、秦奢(じんじゃ・深沙)大王の手から彼はこの経を頂いて、崇神天皇の時に持ってきたが、まだ世に公表しなかった。大般若経を持ち帰って後、玄奘三蔵が書いた文章(『西域記』)によって、はじめて世に知られるようになったのである。そのことをくわしく話そう。
 玄奘三蔵が仏の生国(しょうごく)インドへ渡られた時、流沙(るしゃ)という川の岸に姿のやさしい一人の美女がいた。この女が三蔵に向かって問うた。
「坊さま、あなたはどういう宿願があって、これほど難所の多い道中をやってこられたのですか」
「わたしは大般若経を東方の国へもってゆきたいという望みをもっています」
 三蔵はそう答えた。すると、この女はいった。
「この道はなかなか人が通過できるようななまやさしい道ではありません。早々に帰りなさい」
 三蔵は重ねていった。
「わたしは母の胎内を出てから、禁じられた戒めをまだ破ったことはない。大般若経の中でも特にわたしが熱望するのは般若心経です。そのためには、わたしは死骸を流沙にさらしてもいいのです」
といって嘆いた。その時、この女は八坂(やさか)の玉をとり出して、いった。 「和僧(あなた)はこの玉の緒(お)を貫(ぬ)き通してごらん。もし通せたら、わたしのはからいで、あなたを仏の国インドまで送ってあげましょう」
 三蔵はその玉を受けとって見ると、形は蚕(かいこ)の繭(まゆ)のようで、色は黄色である。玉の中の穴は曲がって七曲りしている。これに緒を貫き通そうにも通しようがない。しばらく考えこんでいると、折から傍(そば)の木の枝に機織(はたお)り虫がいて、「蟻腰着糸向玉孔」と鳴く。三蔵は悉曇学(サンスクリット)の専門家だから、それを聞いてハッとさとった。蟻はアリ、腰はコシ、着はツケル、糸はイト、向はムカウ、玉はタマ、孔はアナである。すると「蟻の腰に糸をつけて玉の穴の口に向けよ」といって鳴いているのだ、と気がついて、傍らを見ると、一本の草の葉に大きな蟻が遊んでいる。三蔵は大喜びでこの蟻をとって、白い糸を腰につけ、玉の穴の口に押し入れると、まもなく蟻は一方の口へ通りぬけた。
 その時、この女はニヤリと笑ったかと思うと、見るも恐ろしい鬼女の姿になった。
「わしは大般若経を守護する十六善神の一人、秦奢(じんじゃ)大王である。汝はこの世のただ一世だけでなく、過去七生にわたって、この般若心経を渡そうとしたが、この経はわしがとても愛惜し大事にしている経だから、わしは汝の命を七回もとり上げた。汝、このわしの首を見てみよ」
と正面を向いて、七つの髑髏(されこうべ)がつらぬかれて首にかかっているのを三蔵に見せた。
「汝、それほど深く思い込んだ望みなら、この上はわしが守護して送ってやる」
 そういって、大王は三蔵を肩に引っかついで、仏の国インドまで渡らせ、大般若経と般若心経を三蔵に与えた上、そのまままた東方の国へ送ってくれた。
 秦奢大王は三蔵に語った。
「この玉はお前に与えよう。仏法は原則として東へ東へと移ってゆく。だから最後には、大般若経も心経も日本へ渡るであろう。この玉は、もとをただせば日本の宝物である。孝昭天皇の時に天(あめ)の朔女(さくめ)が盗んで天上界へ持ってきた玉だから、もとの日本へ返そうと思う。般若心経に添えていっしょに日本へ渡すであろう。般若心経を守護する十六人の善神うちでも、このわたしが持っている玉であるから、わたしがまず先に立って日本へ渡った上、神となって現われ般若経の守護神となろうと思う」
と誓いをなされた。その約束のことばをやぶるまいと、欽明天皇の時、般若経といっしょにこの玉も渡されたのである。
 この玉は、代々の天皇ご誕生の時、胞衣(えな)にお添えする、神代伝来の三種の重宝の一つ、八坂の玉と同じ種類のものである。
 宇佐八幡宮に、鈴の御前といって常に鈴が鳴る御殿がある。それが日本の神人(じんにん)たちの間にひろまって、みな鈴を持つ。国々を流れ歩く漂泊の神人たちが持つ鈴の御前もこの玉と同種類のものである。
 さて約束通り秦奢大王は一足先に日本へ渡られ、神となって現われた。後に紀州田辺の地に蟻通しの明神といって鎮座されるのがこれである。
(中略)  こんなわけで、わが国の神々が宮中の内侍所(ないしどころ)(八咫の鏡)を守護する時、蟻通し明神は、かの玉を預かって守護なさる。だから秦奢大王にお祈りするには、赤繭(あかまゆ)の糸を数珠(じゅず)の緒にして祈ればきっと願いがかなうであろうといわれる。赤繭は形があの神璽(しんじ)に似ているからである。

貴志正造訳「巻七の三十八」『神道集』東洋文庫p108
 おとぎ話「姥捨て山」の殿様からの難題の1つに巻き貝にヒモを通すと言うことが語られますが、蟻通縁起の援用でだろうと思います。中世の前半では神璽の由来は第六天魔王譚で説明されていますが、中世後半になって蟻通縁起が登場します。個人的な意見ですが思うに、中世後半になって神璽が「八尺瓊勾玉」であることが浸透して、勾玉という語から特殊な穴の開いた玉なのだという理解が産まれ、第六天魔王譚では語られない玉としての形状の説明を必要としたのではないかと思います。
 三種の神器のように、日本のトラディショナルな部分と思われがちな言説も、現代の感覚で言うと非常に短期間で言説が変形して、その時の要請に応えているように感じます。
 慈円の見聞きした三種の神器と、北畠親房の語る三種の神器は別物でしょうし、神璽に対する解釈である第六天魔王譚と蟻通縁起も、まったく別の説話文学です。本来、神璽の「璽」には玉の意味はなくハンコあるいはハンコの跡を示しています。剣璽という時点で璽には勾玉の意味はなく、後付けの附合と璽というあまり使わない漢字であることから、無批判に璽は八尺瓊勾玉であろうと思っているにすぎません。
 ここまでの議論を不敬な解釈だと思われるかもしれませんが、中世をブラックボックスにして古代と近代の相似と差分だけで「三種の神器は日本の伝統」と言い切ることの方が個人的には、歴史をないがしろにする行為だと思います。

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現代語訳で読める〈中世日本紀〉
今谷明氏訳『現代語訳 神皇正統記』KADOKAWA・新人物文庫
今谷明氏訳『北畠親房『神皇正統記』現代語訳・総解説』戎光祥出版
 明らかな誤訳もありますが文脈から判断できるものも多いです。南朝に〈正統〉があった頃の著作なので「地・人」巻は教養としては不要なのかもしれません。個人的に天巻を熟読するのをオススメします。

貴志正造訳『神道集』平凡社・東洋文庫
 抄訳(全話が現代語訳されていない)なので全体像を知るためには『神道大系』などへあたる必要があります。古文が読めれば『神道大系』にはジャンル別・地域別の神道説(〈中世日本紀〉も含まれる)が読めます。『神道大系』のそろっている図書館を見つけるのがオススメです。漢文や英文法の知識もあると、より深く〈中世日本紀〉の世界へ入り込めると思います。


〈中世日本紀〉のアンソロジー
中世神道論』岩波・日本思想大系
寺社縁起』岩波・日本思想大系
 送料込みで千数百円なら手元に置いておきたいかもしれません。注意しないといけないのは値段の順と状態の順が必ずしも一致しません。説明文で判断できるものでもないので注意が必要です。