尾張国衙論序説
〜松下地区、下津地区を中心に〜


ヲハリとは何か? 〜小墾田宮 = 大福説をめぐって

 小墾田宮 = 大福説というのがある。
 梅原猛著「第五章 小墾田遷都と政治の革新」『聖徳太子2』 集英社文庫
 梅原猛著「飛鳥とは何か」『飛鳥とは何か』 集英社文庫
 大福は耳成山の東、同名の近鉄の駅がある。
 ああなるほど、アスカのヲハリの土地が天香久山を中心に豊浦から大福の辺りまで広がっているのだなぁと思ったら、そうではないらしい。豊浦やアスカの辺りをヲハリと呼ぶのは間違いで大福こそヲハリ(小墾田宮の所在地)とするものである。
 今回、この説を云々することはしないが、地域思想史的にこの周辺を少し探ってみたい。
 まず、第一に天香久山の存在である。「天火明命の児、天香山は、これ尾張連らが遠祖なり」(『日本書紀』岩波文庫p152)とあるように天香久山と尾張氏との関係の可能性を示している。偶然の一致かもしれないが奈良・天香久山周辺の地を尾張(氏あるいは国)と関わりのある地として考えてみる必要はあろう。ちなみに愛知県にも香久山(日進市)が地名として存在する。
 また、大福の地(『聖徳太子2』p251)を見てみよう西之宮の北側の字名にカグヤマが存在する。ひょっとすると、小墾田宮のカグヤマに対応するように天香久山を南山にすえるような小墾田“京”が存在するのかもしれない。このような想定が可能であれば逆にアスカや豊浦を含めるかたちでヲハリを考えられるのかもしれない。
 余談だが、小墾田氏には2系統あるらしい。石上氏(物部氏)と同系の小墾田宿禰(大連)と蘇我氏系の小墾田朝臣(臣)である。(『飛鳥とは何か』p69)物部氏と尾張氏はともに天火明命を先祖とするし、蘇我氏の活躍する時代に尾張皇子がいることは、まかりまちがうと継体、安閑、宣化から、欽明への政権交代の有り様が復元できる可能性があるのではないだろうか?


東山道、東海道と尾張国衙

 尾張国衙と全く別の話から語りはじめたが尾張国衙へ話をうつそう。
 尾張国衙が松下地区に推定されることから尾張国は以前は東山道の国ではなかったかとの説がある。(木下良監修『完全踏査 古代の道』 p51、p109 吉川弘文館)はたして、そのようなことが言えるのだろうか?
 逆に尾張国が東山道の国であるなら、国衙は犬山に在った方が都合が良くはないか? 東海道の国でも名古屋に国衙が在った方が都合がよい。尾張国衙が松下地区あるいは東畑廃寺のごく近くに存在したということはそのこと自体で尾張国の独自性を示すのかもしれない。
 尾張国の独自性云々はおくとして、少しマジカルなかたちで松下地区を考えてみたい。

風水相応

「風水相応」・・・尾張国衙が風水によって作られたとすると広大だ。
風水思想図
 さらに北、白山から中国大陸の龍脈(荒俣宏著「第15回 名古屋」『風水先生』 p287 集英社文庫)が流れ込んでくる。白山の神様が百済(はくさい)の王(『熱田の深秘』)というのもこんな思想に裏打ちされているのかもしれない。
 そして、木曽三川という3本の龍。これを松下地区から操作していたとすれば、安倍晴明も真っ青のオカルティズムだろう。

小釈迦世界(コスモス)

 こんなたとえ話を引かなくてもいいが、東大寺の大仏の蓮華の花びらに大仏の曼荼羅が描かれてる。その中に大きな釈迦の世界と小さな釈迦の世界というのがある。
 尾張国衙についても濃尾平野をかこむように山々が3方つらなっている大きな世界と、それとは別に小さな世界があるように思われる。
 青龍が青木川・五条川。朱雀が千町田地。(奥田・千代田)白虎が垂井古道(美濃路。この辺は可能性だが)意外に玄武が見つからなかったりする。
 稲島か於保に白山の龍脈を受けるものがあるとうれしいのだが・・・


松下地区移転、地区内移転

松下地区への移転の契機

757 橘奈良麻呂の乱
769 鵜沼川の洪水(あるいは尾張国衙移転の勧進帳)
784 長岡京に遷都
794 平安京に遷都
806 菅原清公が尾張の介に

 なにげに50年もある。おそらく、奈良麻呂の乱以前は東畑廃寺のごく近くに、そして、清公の使用した国衙が松下地区。修理若御子社(近世の墨染天神、「天神」つまり菅原道真をまつるとも)の南側の公園を菅原公園とするものがある。いつ頃からか未調査。
 尾張国衙の松下地区移転は垂井古道の再整備からはじまる、大規模なものであったろうから、(いったい何を根拠に・・・)どのくらいの時間がかかったのであろうか? 
 垂井古道が再整備される因子としては、
・遷都による都への道のりの変化
(浜松・伊場遺跡木簡などは平城京時代にも不破関から東海道を行った記録であるとされる。だが、この場合、垂井古道より鵜沼から犬山へぬける方が有利であろう)
・海上交通併用の交通手段から陸上交通主体の交通への変化
・尾張国衙の「東畑廃寺のごく近く」から「松下地区」への移転による国衙関連道路の変化
・尾張氏の対畿内政策の変化
 などが考えられるのかもしれない。いずれにしても尾張国衙(松下地区)と垂井古道は不可分のものとして考えている。中世の鎌倉街道は下津から一宮を経て墨俣へぬける。この路の発達は、尾張国衙の衰退如何よりも、真清田神社の一宮としての発達、妙興寺の発達が因子となるのではないだろうか?

松下城の地図

松下城の地図

 尾張国衙址、こんな感じはどうであろう?
 修理若御子社から尾張学校院址まで、順に雰囲気が新しくなっていく。
 尾張国衙址の石碑から南へ、三宅川の橋を渡って垂井古道へとつながる。こんなイメーヂ。論拠なしなのだが・・・
 近世『尾張名所図会』には「万(ママ)徳寺・国衙廰館跡・同学校址・修理若御子(すりわかみこの)社」(カッコの使い方が不統一でスミマセン)と題される図会が1枚。(『新修稲沢市史 地誌下』p附82・附83)この中では、萬徳寺境内を大きく描き、背景にイナバ宿から国府宮までの名所が表されている。
その辺からできたのが、「松下城の地図」である。
 収まりのいい図のように思われるが、『尾張名所図会』の思想性によるところが大きい。(近世を鵜呑みにしているという批判は否めない)

尾張国府非都市論

 尾張国衙を松下地区を中心に見てきたが、国府の問題も考えなければならないのかもしれない。ここでいう国府とは、政庁などの政治的な建物群である国衙と区別される周辺都市としての部分を意味する。
 尾張では松下地区を中心に尾張国分寺(矢合)、尾張法華寺(尾張国分尼寺、法花寺)、川港の色彩の濃い下津などを含める、近世「国府庄」と呼ばれる地域を作業仮説として尾張国府と呼びたい。
 専業だったとは言えないが、ほとんど全ての人が農民(水田稲作を生業としていた)だった。国司の妻まで稲作に関与する形跡を残す。(『赤染衛門集』180番歌 『和歌文学大系20』 p102 明治書院)
 現在のイメーヂに引っ張られてるかもしれないが、熱田・金山地区にも中心性があり、そちらの方が強いて言えば優位であった。
 金属器などの工業生産の拠点は国府の中心にはなくドーナツ状に国府をとりまいている。(工房は国衙内にも存在したろうが、工人名在銘資料を見るかぎり)
 都市の定義が「中心機能・集住・商工業発達・外部依存」の4つにあるとすると、尾張国府はどうもハズレくさい。農村的要素がつよい。カエルの鳴く街(もちろん誉め言葉)という言葉がよく似合う。
 結局、都市を形成することがはたして住みやすいということに直結するのかどうか? みたいな問なのだろうか。現在の東京・名古屋・岐阜駅のあたりをみて、はたして住みやすいところなのだろうか? という疑問。そして、「都市」という言葉で遊んでいるのではないだろうか? 「みんなでいろいろなものを持ち合って楽しくやっる場所」くらいの意味を「都市」と呼ぶことは不可能なんだろうか? (なんか、論旨がはっきりと見えてこない・・・)


中世の国衙 〜国府宮から下津へ

 中世の尾張国衙とはどんなものだったのだろうか? 松下地区では、修理若御子社から尾張学校院址へと西から東へとイメーヂが時代をおって移動して行く。国府宮神社には尾張国衙関係の「尾張国司庁宣案」「尾張国留守所下文」などの文書が宝物として伝存し「夜儺追神事、梅酒盛神事を執行する処を庁舎(ちょうしゃ)といい、昔は政所と呼んだ」(田島仲康著「尾張大国霊神社記」『新修稲沢市史 研究編五 社会生活上』p454)ということから、国衙機能が形骸化し〈聖なる〉空間への変貌をとげるのではないだろうか? つまり、尾張国衙は国府宮神社の庁舎として現在も存在しているのではないだろうかと考える。
 また、七ツ寺・長福寺や中之庄・無量光院に尾張国司やそれに準ずるとされる人の縁が在るのも注目されよう。また、松下地区や国府宮からみると七ツ寺、中之庄は南方に位置しており京都における宇治を彷彿とさせる。

城跡と県庁から中世国衙を考える

 高松にはお城があり、県庁所在地だ。名古屋もお城でもっていて、県庁所在地である。津、福井なんかもそうである。再開発の影響でかなり違うところもあるのかもしれませんが、お城の中に県庁そのものが存在する所も少なくない。そこから廃藩置県の深みを考えられるのかもしれない。
 こと稲沢だけの事かもしれないが、守護所について「国衙」と呼ぶものがあると聞く。(『稲沢の街道I−鎌倉街道と岐阜街道−』p32)文献的には下津がたどれる最初の守護所であろうが、織田敏広が国府宮へしりぞくというような伝説(「宮」というだけで場所は不明。熱田神宮とする説もある『稲沢の街道I』p35)もある。
 直接、律令国衙 = 守護所という訳にはいかないが余所の廃藩置県の様子をみると、いろいろ考えさせられる。
 国府宮から下津へ政治の中心は移る。松下地区移転から数百年、下津へ移ることにより尾張の政治の中心は流転の歴史をたどる。

小京都

 七ツ寺、中之庄を宇治と例えたが、稲沢で京都との相似を一番、的確に伝えるのは下津、五条川、青木川なのかもしれない。稲沢を小京都と呼ぼうという気はさらさらないが、下鴨のあたりを五日市場、上賀茂のあたりをあづら・馬見塚のあたりと考えてみると、五条川や青木川の関係として興味深いのかもしれない。
 そして、街並みが東山よりに移る。松下から下津への関係とオーバーラップさせると・・・
 下鴨神社を歩きながら考えていた。

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下鴨神社 舞殿


下津国衙論 〜動き出す国衙

下津郷周辺の図
下津国衙 下津
水色の線:河川 緑色の線:道 赤い楕円:近代の集落
紺、水色、赤の字:社寺、寺跡、遺跡など

 黄色星印が下津城推定本丸。きよす道道標は西大門遺跡出土(『一宮市埋蔵文化財調査報告III』)正眼寺の前を西に折れ、五日市場の印の所を南へ行人橋を渡って鎌倉街道か岐阜街道へぬけるのであろう。また、近代の集落が、下津と五日市場、九日市場などでカタチが異なる。南北朝時代から下津の集落は長細く上、中、下に分れていたという(『稲沢の街道I』p28)現在の様子が過去を饒舌に伝えていると言えよう。
 行人橋や頓乗寺、正眼寺(最古級の誕生仏を有するので伝法寺廃寺との関係が興味深い)のような伝説的な場所を地名から復元すると、意外にいわくありげな位置へ来るので不思議である。

下津3期

 なるほど、稲沢の地図というのはどうしてグルグル回さないといけないのだろうか? 20度ほど時計回りに回してふと気付く。。。九日市場辺りの地割が対岸の蛇池(じゃいけ)あたりの地割の方向とかさなる。敏広の真骨頂をそこに求めることは可能だろうか?
 もう一つ、地籍図の塗絵を見て思うこと・・・本丸の築造を太田清蔵の時代まで下げることはできないだろうか? 推定二の丸、推定三の丸は九日市場辺りの地割りとほぼそうのではないだろうか?
 そしてもう一つ、南側の南北を基準にする地割。推定二の丸、推定三の丸の地割りとの矛盾を相殺するように異様な方向に住吉神社が存在する。
 つまり、南北を基準にする旧来の地割(I期)。あるいは、下津北山遺跡に代表されるような中世の前半の風景と考えてもいいのかもしれない。ただ、義満の滞在した頓乗寺を前後どちらにとらえるのかは大変な問題として残るのかもしれない。頓乗寺の北と南で地割りが大きく異なっている。
 つぎに、敏広の時代(II期)。国府内ではあるが国府宮から国衙を移したのは特筆すべき画期であったろう。信長が小牧でいだいた思いを、(過大評価しすぎだろうが・・・)あるいは敏広も下津、九日市場に思い描いたのかもしれない。旧来の地割りを意識して相反する地割を引いたのかもしれない。
 最後に、太田清蔵の城館(III期)。ひょっとすると、I期の地割を再び意識していたのかもしれない。

 古い話になってしまうが、この地域には興味深い言及がある。
「八幡は源氏の象徴としてよい。また、住吉は平家の象徴であろう。源平相そろうのが下津らしい景観だ!」
いまだに、これに答える言及はできない。

川俣の港・こうわの港

 あくまで、推定というか想定。。。作業仮説。
川俣  川曲
水色が川。緑が道。赤が近代の集落。

 たとえば、川俣(川の合流地点)では中州のようになる所が比較的水量が緩やかではないだろうか? そこから荷を上げる。道もある。
 たとえば、こうわ(川曲。川の曲がったところ)。川俣と変わりないように見えるが流量に主従の関係がある。あるいは細い方はその時代には流れていなかったのかも。
「く」字状の右側。(わかります?)流れが岸にぶつかって比較的流れが緩やかなのでは? ここから荷を上げる。道もある。
 下津は『沙石集』の書かれた頃まで「折戸(おりと)」とも呼ばれていた。「と」も津と同じく港を意味しているのであろう。そのような港を意味する地名の場所で川港が復元できるのは意義深いことであろう。

共通の死後

丹羽・下津の三昧
三昧

 五日市場・九日市場・伝法寺の三昧。集落に生きたのだから集落の土となる。ひょっとするとすごく当たり前な世界。畑作のウネようなマウンド・・・僕の極近所で現在も存在していたとは。。。
 現代社会が過去の村々と大きく異なるところ、それは死後の世界を信じないことではないか。日本の中世思想史や日本的オカルトチックな物事への関心を研究分野とするのであれば、死後の世界を信じること無しに、その正確な帰属を求めることはできないのではないだろうか?
「死というのは常に生者にとって受け止めなくてはいけないもの」というのは、死者は自分の葬式を直接に指図できないと言うことからすれば正しいのであろう。しかし、それは極近代的なことであり、また、生者は時にその葬るべき死者に自分を重ねあわせ、そして自分自身の中に死者との共通性を考えているのであ る。
 現在の有様を留保してしまえば、いづれの時代も宗旨を問うことなく同じ死後のイメーヂを持っていたのではないだろうか? 住んでいた(活躍した)ところに葬られるのか、産まれたところに葬られるのか? という問題もあるのかもしれないが。


律令期の下津へ

 稲沢市下津の新しくできた公民館から少し西へ行くと水田が南北へ広がっている。
片町東運河  過去の航空写真からも同じ風景が見えるので昔の川であろうとされている。
 有名な学説としては五条川が稲沢市と春日町の市町境の辺りを通っていて、北市場・立部神社のこがし祭という祭が現在の津島の天王まつりのようなもの(山車ではなく舟を使った祭)ではなかったかと推定するものがある。(直接は関係ない話だが)
 たしかに、旧河道と呼ばれる水田の両脇は自然堤防と呼ばれる風景なのだろう。しかし、この自然堤防の作られる時期が問題となってくる。
 ラッキーだったのは、新公民館の場所の発掘調査を知ってる。あの地点がかさ高くなるのは実は律令時代である。律令時代に運河が引かれる、水が流れる洪水の時には大量の土砂が・・・
 室町時代になったら運河だろうが川だろうが関係のない風景になっていたのでしょう。

下津遺跡群 新公民館地点

 S字甕の量もさることながら(こっちをメインにしないのは、おかしいのかもしれないが・・・)律令時代の須恵器の多さ。そして、製塩土器の脚。
 周りが明るくなると手元がよく見えるというか、その当時は何のこっちゃよく分からんかったような記憶があります。
 遺跡の西側を青木川と大助川? をつなぐ運河が流れています。どっかに港があって、知多から製塩土器が運ばれてくる。ひょっとすると塩の再精製の場所なのかもしれない。
 国府には国衙のような政庁を中心とするところとともに、生産遺跡のようなものがくっついてくるとすれば・・・?
 松下地区や東畑廃寺のごく近くを国府と言わず「国衙」と呼ぶのはその辺にある。(あくまで地域的な地名の検討であるが)近世の国府庄の範囲。中島郡の役割をどの程度に見積もるのかという問題はあるものの、国府関連の遺跡として下津遺跡を考えたい。


むすび

 雑多ではあるが、現時点で知る範囲の尾張国衙をまとめてみた。律令時代の国衙(松下地区)と守護所(下津)をない交ぜに語ることには抵抗のあることも多いだろう。しかし、国衙というキーワードで一度、一直線に並べてみたかった。


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