反戦の起請文


今回は資料紹介にとどめて・・・

『古事記』曰く、

(前略)タギシミミ(人名)を殺そうとなさった時に、カミヌナカワミミ命、その兄カミヤイミミ命にいいなさいますには「では汝がミコト、兵器を持って入ってタギシミミを殺しなさいませ」といいなさいました。
 そして兵器を持って入って殺そうとする時に、手足がわなないてしまって殺すことができなかった。
 ここにその弟のカミヌナカワミミ命、その兄の持っている兵器をこい持って入って、タギシミミを殺させなさった。また御名をたたえて、タケヌナカワミミ命という。
 ここにカミヤイミミ命、弟タケヌナカワミミ命に譲っていいなさいますには、
「吾は仇を殺すことができなかった。汝がミコトはすでに仇を殺してしまわれた。
 吾は兄ではあるが上にあるべきでない。
 ここをもって汝がミコト、上となって天の下治められよ。
 僕は汝がミコトをたすけて、忌人(いわひびと)となりてつかえまつろう」
 と、いいなさいました。

「神武記」 P86 角川文庫より現代語訳 


 カミヤイミミ命(神八井耳命)とカミヌナカワミミ命(神沼河耳命)は神武の息子で兄弟である。
 タギシミミ(当芸志美美)も神武の息子ではあるが兄弟とは母が異なり、二人を殺してしまうことを計画したという。
 その企てを伝え漏れ聞いた兄弟はタギシミミを先に殺そうとする。
 いざ、殺す段階になって兄のカミヤイミミ命は手足がすくんでしまって、殺すことができない。
 そこで、弟のカミヌナカワミミ命が代わってタギシミミを殺してしまう。
 その勇敢さによってカミヌナカワミミ命はタケヌナカワミミ命(建沼河耳命)と名前を変えたという。
 さらに、カミヤイミミ命は勇敢な弟に自らがなるはずであった天皇の地位をゆずり、自分は忌人(いわひびと)となり弟に使えるという。


反戦の起請文?

 その後の『古事記』には、
 弟のタケヌナカワミミ命は、茨田(まむた)連、手島連の祖であるとし、
 兄のカミヤイミミ命は、意富(おほ)臣、小子部連、阪合部連、火君、大分(おほきた)君、阿蘇君、筑紫の三家(みやけ)連、雀部(さざきべ)臣、雀部造、小長谷(をはつせ)造、都祁(つけ)直、伊余国造、科野国造、道奥(みちのく)の岩城国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣らの祖であるとする。
 弟の子孫に比べ兄の子孫の氏族の多いこと。
 物語的にも潔くも無様でさえある兄に惹かれるとはどういうことなのだろうか?
 オホ臣、小子部連を筆頭にした「天皇(すめらみこと)には逆らいません」という起請文のようにもみえる。
 ちなみにオホ臣は太安万侶や多臣品治(おおのおみほむじ)の一族の家系だと考えられている。


いにしえ人の戦争観

「それ兵をおこす元の意は、百姓を殺すことではない。これは元凶のためである。故に、妄(みだり)に殺すことなかれ」

「天武紀」元年7月4日条 P100 岩波文庫より現代語訳 


 戦争は百姓(おおみたから)を殺すためのものではなく、戦争になった原因(元凶)があったからである。
 壬申の乱の折、将軍、大伴連吹負(ふけひ)の言葉である。
 この言葉だけから、この時代の戦争観はこのようであったとはいいきれないであろう。
 しかし、戦争の「元の意」は「元凶のため」という言葉は、将軍、吹負の叫びのように、僕の耳から離れることはない。


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