レクイエムが聴こえる・・・秘匿された国衙「東畑廃寺のごく近くに初期の尾張国衙が」・・・このような着想がどこからやってくるのか?ある寺の東側に官衙的な建物群や建ち並ぶ倉、一方、西には水の祭りのようすが、、、 このような類例の中で、東畑廃寺をとらえた時、東畑廃寺西遺跡には国衙が、東畑廃寺東遺跡には死と再生にまつわる水の儀礼の場が考えられるのかもしれない。 (原三宅川や大江川の流れを考えるとこうなるか?) 〈尾張願興寺の北側、伊勢国分寺の南側など、寺院域と官衙的な区域の配置には規則性があるとは言い難い。 そのような中で東畑廃寺の北側に現在用水が流れているのは区域を画する溝のようであり興味深い。 先日の用水の改修でその部分が滅失してしまったことは非常に悔やまれる。 遺跡分布図を見るかぎり、確かにその部分は遺跡ではない。つまり、行政に非はないのである。 もし、この拙文によりその地域が既知であると認められ破壊されたのであるとすれば、その責任はすべて僕にあることになる。 軽率であったことを悔やまずにはいられないが、僕が憤りをおぼえたところで滅失したものはもどってこない。 今後はこのようなことがないように細心の注意をはらうとともに、もっとスピードをあげ稲澤の地域思想「稲澤学」を証明していければと、いまのところは考えている〉 しかし、この地域はこの着想に対して雄弁ではない。 国衙は松下にあった。このイメーヂは小字名のみに頼らなくても幾重にも重ねられている。 国衙社、砂原社、学校院址。そして、鎌倉時代の留守所、府中府宮。 敏広も宮へしりぞき、江戸時代には国衙をなのるのは国府宮のみになる。 イメーヂが西から東へと時代ともに移動してゆく。 王朝(律令時代後半)的な松下と、それ以後の様相の色濃い国府宮。 この二つの地域に、尾張国衙のイメーヂは収れんしている。 これはあくまでイメーヂである。江戸時代に描かれた名所(などころ)としての国衙が松下である。 これはイメーヂでしかない。さりとて、イメーヂのない国衙とは何か? 国衙に対するイメーヂの増幅が抑制された場所。稲島。 (「稲島」という地名も不思議だ。「稲葉」と「島」の中間領域という意味でよいだろうか?) 秘匿された国衙の意味を問うために、僕は一人の男を取り上げたい。 史書に最初に顕れる尾張国国司。 レクイエムが聴こえる彼の男が「山にかくれて自ら死」んだ(「天武紀」元年8月25日条)妻子はいたのだろうか? 妻は、彼の屍をゆすりながら 「おきて、おきて、冗談はよして…」 何度もくり返している。 彼の男の息子は、父親のいつもの冗談ではないだろうかと思おうとしていた。 しかし、彼の息子の身体は振るえていた。肩にのしかかる重圧は容易には想像できない。 年老いた彼の男の母親は、じっとこの光景を眺め(見つめるほどの冷静さはなく、目の裏に焼き付く映像を留めるのに精一杯ではなかったろうか?)彼の男の屍に彼の男の生きざまを映した。 想像がたくましすぎるであろうか? 人間の死に感情の動きのないのは淋しすぎる。 一般的な慟哭であると解していただきたい。 そのような慟哭のさなか大君はおっしゃったのだ。 「罪無くして、いかにぞ自らしなむ。それ隠せる謀ありしか」 『日本書紀』はこれらの事実が、壬申の乱における賞罰を決定する前に起こったことだとしている。 しかし、大君のこの言葉をどう解そう? まず第一、なぜ、大君が発言する必要があるのだろうか? 『日本書紀』の編さん者が心の中で思えばよいことではないだろうか? それを大君が声高に発言する。(きっと聞こえなければ意味のない言葉なのだ) 大君の良心の呵責ようなものではなかろうか? 答えを早急に求めることはよそう。 そして、大君のもう一つの良心の呵責に話をうつす。 熱田社の祟り「天皇の病をうらなふに、草薙剣に祟れり。即日に尾張国の熱田社に送りおく」(「天武紀」朱鳥元年6月10日条)この記事が尾張氏による天武政権への祟りであることはすでに『新修稲沢市史 本文編上』で指摘されていることである。 祟りは祟られる側の良心の呵責であると考えるのは、現代的な考え方であり、必ずしも正しくない。 また、草薙剣は熱田社、つまり尾張氏の象徴であり、尾張国司とは直接的な関係性を見いだすことはできない。 しかし、天武天皇の病の原因として尾張国が思い浮かんだということは、比較的多くの人に天武天皇と尾張国にただならぬ関係があったことが知られていたということなのかもしれない。 オオアマという名前自体、養育者の氏族名と解釈されてもよかろう。 アマは尾張氏の傍流であり、海部郡のアマとも通じよう。 はたして、オオは? 壬申の乱のおり多臣品治なる人物が美濃にいたことがうかがえ、一宮市には於保という地名ものこる。 あるいは、中島(オオ)と海部(アマ)の期待を受けた新たな氏族が、大海人皇子の養育にあたっていたとすれば、彼と草薙剣の間接的な関係もかいま見えるのかもしれない。 そして、彼の姓「小子部」は死後もなお活躍する家系であることが想像される記事がある。 スガルの霊異今回、「雄略紀」や『日本霊異記』に見られる小子部スガルなる人物を、彼にオーバーラップして考えてみたい。スガルは雄略天皇の時代の人物とされるのであるから、直接的かどうかはともかくとして、彼の先祖と考えてよかろう。 子孫が先祖の業績と似たようなことを行うということは、現代の考え方からは不可思議なこととおもわれるであろう。 だが、『日本霊異記』に語られる因果応報という仏教思想に彩られた論理の中では、子孫が先祖と同じような力を有するということが「霊異」として語られる。 さらに、「雄略紀」や『日本霊異記』の誕生は彼の死後であることを忘れてはならない。 つまり、彼以上に強烈な印象をあたえる小子部氏がいないのであるとすれば、彼の業績として直接的に言うにはばかられるような事柄が彼の先祖の話として語り伝えられたことは十分に考えられるのではなかろうか? そう考えた場合、「雷を捉る縁」という『日本霊異記』の物語は大変な示唆を与えてくれる。 (1) 天皇と后の婚合のおりにスガルは知らずに大安殿に入ってしまう。 (2) 天皇はスガルに雷をとらえることを命ずる。 (3) 豊浦寺と飯岡との間に雷が落ち、スガルはそれをとらえる。 (4) 天皇はスガルの死後、雷の落ちた場所に碑文を建てさせた。 (5) 碑文に雷が落ち再び、雷がつかまる。 (6) スガルは、生きても死にても雷を捕った。 (7) このことは、現在の雷丘(いかづちのおか 奈良県明日香村)の名前のいわれである。 これが荒筋である。 天皇の隠されるべき事実を知っているスガルは生きているときだけでなく死んでからも雷を捉えた。 そして、雷丘がスガルの墓であり、スガルを象徴する場所といえよう。 また、「雄略紀」では三諸神(みもろのかみ)の化身である大蛇をスガルが捉え丘に放したとあり、雷が三諸の神であり、スガルの死後、再び捉えられたという話もない。 レクイエムが聴こえる?再び、秘匿された国衙の周辺へもどろう。よもや、この周辺で彼の為のレクイエムが奏でられたのではあるまいか? 東畑廃寺と彼をつなぐ為の明確なイメーヂは、今のところ存在しない。 しかし、東畑廃寺に限定されるわけではないが、彼の魂を慰める為の施設が尾張にあったと想定することはさほど困難なことではないようにおもわれる。 なぜなら、草薙剣は尾張に還されたのだし、彼と尾張国に何らかの関係がない限り壬申の乱のあった、この時期に国司という重役は務まらなかったのではないか? このことは、尾張の人々が彼の死に対して、何らかの思いを抱いていたことを考えさせる。 そして、大君自身のうしろめたさのようなものも相まってくる。 ただ、それらの事柄は、直接的に東畑廃寺を導く為のものではない。 因に、東畑廃寺からは奥山久米寺と同じ模様の瓦が出土する。 (その瓦のイメーヂは尾張国分寺にも受けつがれている) 奥山久米寺は、天香具山の南麓、雷丘の東に位置し、明日香における「オワリ」のイメーヂの強い場所とも言えるのかもしれない。 東畑廃寺が壬申の乱以前から存在するのであれば、彼と尾張を結ぶ為の氏族の氏寺(あるいは彼自身の氏寺か?)として、高句麗的な瓦当を中心に築かれたのではないだろうか? 奥山久米寺の瓦当、橘寺の塼仏の流入によって東畑廃寺が尾張国の寺となりうる存在となったのは、まぎれもない事実であろう。 大君は神にしませば「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほ(廬)らせるかも」(『萬葉集』235番歌)天皇が雷丘へいでますおり、柿本朝臣人麻呂の作った歌とされる。 天皇には諸説あるようだが、大君は天武天皇として解してもよかろう。 雷丘の上にだけ、ぽっかりと雲が浮かんでいる。 どことなく天空に浮かぶ小さな宮殿のようにみえる。 柿本朝臣人麻呂は、その雲を指さし、 「天武天皇が私たちをご覧になっているようですね」 とでも申し上げたようだ。 天武は死の直前、神岡(雷丘の別名とされる)のもみぢを気にしていた形跡がある。(『萬葉集』159番歌) 雷丘は彼の象徴であろうか? また、藤原宮には彼の姓を冠たし門がある。 その門は東南に位置し藤原京の東南に雷丘や奥山久米寺があることと対応している。 この門の名は、平城宮には受けつがれるが平安京までは受けつがれない。 ミヤコでは「小子部」「雷丘」が、増幅されている。 そして、増幅の終焉こそが彼自身の存在の位相を明らかにしているように思えてならない。 創庫へ |