石 の 想 い
〜尾張地域の巨石に関する一視点〜


 京都にはいわく・伝説つきの巨石が多くあるようである。たとえば、田中貴子「長い長いエピローグ−石の語る物語」『あやかし考 −不思議の中世へ』 平凡社 2004年では、京都には巨石が多くある自然史的環境を説明した後に、巨石に対するいわく・伝説がどのように誕生したのかを、その石自身が語るというカタチで考察・解説している。
 逆に濃尾平野を考えた場合、巨石の存在は直接的にいつの頃かわからないものの人為的な石の移動を想定してもさしつかえないのかもしれない。
(下呂石が葉栗郡玉ノ井までたどりつく『愛知県史 旧石器・縄文』という話もあるので、どの程度の石までが不自然なのかは詳細な検討が必要である)
 今回は、尾張地域に存在する人為的に持ち込まれたかもしれない巨石について、礎石建物の礎石、古墳の石室としての使用の可能性を想定してみることにより、未発見資料の発掘やより詳細な同定の手順をみつけるための糸口として考えてみたい。


他所から

奈良・橘寺
奈良・橘寺
大阪・野中寺
大阪・野中寺
 ご存じの方には当たり前の話でしょうが、大阪・野中寺の塔心礎は奈良・橘寺の心礎とよく似ています。

 類似点としては
(1) 心礎がくぼんでおり、添木を当てるための穴が3ヶ所ある。
(2) 他のカタチの塔心礎と比べ巨石である。

 相違点としては
(a) 心柱と添木の大きさの比率が異なる。
(b) 心礎のくぼみに深浅がある。

等があげられようか。また、野中寺の塔心礎については礎石の隅に目口が表現されており、あたかも亀のようである。
 亀形石といえば近年、明日香の万葉美術館の近所で発見されたものが注目されるが、表現の写実性、稚拙生の差はあるものの類例として、考察の余地のあるものなのかもしれない。
(塔心礎に亀を表現しても塔を建てることによって隠れててしまうということは、その造形の重要性が視覚的な意味よりも、思想的に重要であったことが考えられる)
 また、『飛鳥資料館 案内』(常設展示図録)1994年によると、奈良・橘寺塔心礎は奈良・法隆寺若草伽藍の心礎に似ているとある。
 たまたま、手元にあった橿考研附属博物館の『聖徳太子の遺跡−斑鳩宮造営千四百年−』(春季特別展図録)2001年には若草伽藍の心礎の写真がのせられてい。
 若草伽藍の心礎は4ヶ所に出っ張りがあり、深さが1寸余とあり、比較的浅く、橘寺と同様、巨石を区画分けして心礎のくぼみの部分を表現している。

 このように、心礎がくぼみ添木を当てるための穴が何カ所かあるものがいくつかあることがわかり、一つの類例として考えられるのかもしれない。
 そして、この類例の塔心礎は巨石である場合があり、時に亀のような表現もなされる。くぼみが比較的浅いものがあることも特筆に値しよう。


名城の石垣

 名古屋城の石垣はさまざまな場所から運ばれたようである。現在の真宗大谷派名古屋別院(東別院)は古渡城廃城の後、名古屋城の石垣の石加工場であったと考えられているようである。(森勇一編 『フィールドサイエンス 地球のふしぎ探検 [東海版]』1999年 p27)
 東別院の境内には「古渡城趾」の石碑がたち多くの石が置かれている。
 その中には石加工の担当者を示す刻印があるものもある。

古渡にて
名古屋東別院 境内にて

 なかでも興味引かれたのは、この石である。浅いながら、不正形なくぼみがある。
 あるいは1/4程度かより細かく砕かれた塔心礎ではないだろうか?
 石材は花崗岩系のようであり、尾張地方での石材の代表として指摘される河戸石(こうづいし)でないことは躊躇させる。
 だか、刻印のあるような石には比較的平らな面でもノミでひっかいたようなキズの残るものがあるが、花崗岩系の石の中には、それとは別の方法で平滑にされたと思われる石もあり(石の硬度などによる加工方法の違いなのかもしれない)花崗岩系の石が他の遺跡から持ち込まれた転用石であることを考えさせられる。
 そして、東別院から南へ1km程の所に尾張願興寺跡があり興味をそそられるのは、僕の無知というものだろうか?


剣研石

戸塚石
一宮市戸塚・剣研石
 一宮市戸塚の民家の中にある。その北側に火の見櫓。すこし北にヤマトタケルの笠懸の松とよばれる松がある。横穴式石室の残闕といわれる。
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馬場・八幡社
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長束・白山社
 真ん中のへこんだ石。稲澤の街中を歩くと、その場所に昔からあったので使っているような石に出会うことがある。
 しかも、一つだけではなかったりする。いったい、いつ頃からあるのだろう? 想像力をかき立てる石たちである。
 この真ん中のへこんだ石は、あるいは砥石状に見えないだろうか?
 剣研石の中に、真ん中のへこんだ石があれば、横穴式石室の作成や構造に置いて、このような石が必要なんだと言えるかもしれないと思ったが、かんばしい結果は得られなかった。
 このような石を古墳用の石材と考えた場合、長束・白山社の周辺は興味深い景観と言えるのかもしれない。
 白山社の本殿が高まり上にあり(ただ、現在の石垣に覆われているので直接に古墳の可能性のある高まりとはいいにくい)神社の裏手(西側)には沼状の空き地がある。
 逆に、馬場・八幡社、法円寺周辺は複雑である。稲沢市馬場の北東が法花寺と呼ばれる地区である。法花寺は、もちろん尾張国分尼寺(尾張法華寺)をさし現在も法華寺が存在している。
 律令時代の尾張法華寺の礎石については、この周辺の民家にある砂岩の庭石が指摘されている。(筆者、未見・未調査)
 法花寺地区から少し広げて馬場地区もふくめてみた場合、馬場の南端に三昧(さんまい、共同墓地)が存在し、少し北に東西に水田が広がる場所や東西に流れる用水があり、ひょっとするとこの少し低地の場所が尾張国分寺の鏡池、用水に対応する尾張法華寺の南側の水をたたえる施設に比定できるのかもしれない。
(余談だが、尾張法華寺についても尾張国分寺と同様、現在の南北のラインを何らかの意味合いから無視して伽藍配置が東西にふることを一度考えてみなくてはいけないようである)
 そのように法花寺・馬場地区をひとまとまりとして、尾張法華寺の伽藍の想定を行おうとする場合、馬場・八幡社や法円寺周辺に存在する巨石群は古墳の石室のみではなく礎石としての使用、ともすれば転用をも視野に入れなければならないのかもしれない。


むすび

 今回、尾張地区に転がっていたいくつかの石(石群)に注目して、もし人為的に運ばれたとすればナゼ? というようなことに想いをめぐらせてみた。
 ほとんど「想像力と数百円」的な現代物語を作り上げてしまったといっても過言ではないし、僕の力不足もあり、石、本人に「あなたはナゼそこにいるのですか?」とインタビューすることもままならなかった。
 しかし、このような可能性の抽出作業をとおして、新たな巨石の発見や作業仮説の提示が行われるとうれしい。
 それ以上に他意はありませんので、怒ったり嘆いたりは極力なさらないでください。
(なんかヘンテコな結びぢゃ)


投稿者 kagachi : 040711 00:34

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