古墳と律令をつなぐ
初期尾張国衙と尾張住多治比真人の可能性


律令時代の幕開け
律令という時代

 ある時代を画するということ。
 ……つまり、古墳時代と律令時代(古代律令期)の区分を考えてみたい。
 時に、土器のカタチや、律令(近江令・飛鳥浄御原令)の発布の年代などで画されるのであろう。
 しかし、私はそうは思わない。土器のカタチや発布・流布される法律などは人智の表層にしかすぎない。それらの事柄に内在する思想にこそ、その画期を求めたい。
 では、思想的にどこに画期を求めるのか?
 やはり、そこには思想の表層からたどり着くしかあるまい。
 私は今、その答えに明確に答えるすべを知らない。
 稲澤の律令時代はいつから始まるのであろうか?
 


水守の話

 大宝2年(702)11月13日

 持統太上天皇一行が「尾張国に至った。尾張連若子麻呂・牛麻呂に宿祢性を賜った。国守従五位下、多治比真人水守に封一十戸」

『続日本紀』『愛知県史 古代1』(一一九 p62 県史史料番号 頁数 以下同じ)


 はたして、国司が太上天皇にお目にかかるのはいかなる場所であろうか?
 まずは、国衙が考えられよう。しかし、尾張氏もその場所にいる。
 尾張氏が国衙におもむいたのであろうか?
 そのようなことを考える前に、すこしこの国司の周辺を探ってみたい。


文献にみえる尾張国司〜多治比真人を中心に

 多治比真人水守は大宝3年(703)7月5日に尾張守に再任される。(一二三 p64)
 その後、和銅2年(709)9月26日には「近江守従四位下」(一三〇 p66)としてみえる。
 また、水守と同じ多治比姓を冠する尾張国司が何人かいるので、ここで列挙したい。

多治比姓尾張国司(守) 一覧
(1)a 大宝2年(702) 
 11月13日
多治比真人水守賜封戸 『続日本紀』(一一九 p62)
(1)b 大宝3年(703)
 7月5日
多治比真人水守『続日本紀』(一二三 p64)
(2) 天平6年(734)
 12月24日
多治比真人倓世(多夫勢)正税帳正倉院文書(一六八 p97)
参考天平6年(734)
 12月24日
丹比新家連石万侶 史生正倉院文書(一六八 p97)
(3) 天平勝宝6年
(754)4月5日
多治比真人土作『続日本紀』(二五三 p136)

※『愛知県史 古代1』「国司・郡司一覧表」より作成

 三河国司にも「多治比長野(三二八・三二九)」「多治比豊浜(三七五)」の名がみえる。
 この数が、多いのか少ないのか? ……その議論はさておき、三人の多治比真人姓の尾張国司(守)がみえることを確認していただきたい。


多治比真人と初期尾張国衙

多治比真人の出自

 はたして、多治比真人は尾張国と全く関係のない氏族であったのだろうか? 
 もし、関係があるとすれば尾張国衙の位相に多治比真人の位相と共振する可能性もでてこよう。
『日本書紀』によると、多治比真人は上殖葉皇子(かみつうゑはのみこ)の子孫であるとされる。(『日本書紀 三』岩波文庫 p228)
 上殖葉皇子は宣化天皇の皇子で、宣化天皇は継体天皇の第二子とされ、安閑天皇の同母弟、母は目子媛である。
 目子媛は尾張連草香の娘である。
 この系譜はどれほど信用のおけるものなのであろうか?
 しかし、宣化天皇の次は欽明天皇であり欽明天皇は、安閑・宣化天皇とは異母兄弟とされる。
 系譜の信憑性がもし低くとも、宣化天皇の血を受けつぐという思想性は宣化天皇の生母から連なる尾張への浅からぬ関係を意識させる。
 そもそも、「多治比」という表記もいささか気になる。尾張は「小治」ともかく。
 「大(多)治」に「小治」。まるで、兄弟のような名前のように感じてしまう。
「多治比」は漢字2字で表現するという考え方にもとづいて、「丹比」と表記を変えていく。
 次は、丹比と呼ばれる土地の話にうつりたい。


多治比真人の故郷 〜 河内

名古屋市博版『和名類聚抄』によると

  丹比− 依羅 黒山 野中 丹上 三宅 八下 田邑 菅生 丹下 土師 狭山

(巻第六 國郡部第十一 27オ)
 河内国丹比郡内の郷名の一覧である。現在の大阪府羽曳野市・美原町を中心とする地域であろう。
 ここで注目されるのは、野中寺のある野中が丹比郡の範囲内であるということであろうか? 
 尾張には野中寺と同範の瓦を有する寺院、尾張願興寺が存在する。
 また、河内国内には「尾張郷」という地名が存在したことも『和名類聚抄』(26オ)にみえる。


ただならぬ尾張と多治比真人との関係

 以上のような事柄は、単なる偶然なのかもしれない。あるいは恣意的に、尾張と多治比真人結びつけるための寄せ集めなのかもしれない。
 ただ、多治比真人水守の「水守」という名前は、河内の丹比という地域に関わりのある名前のように思える。
 それは、現在でも丹比にはため池が多く水を管理する(守る)ことは生活・生命上大切なことの第一番であり、権力の象徴もやはり、そのようなものであったのかもしれない。
 このことは、水守自身、あるいは彼の名付け親は河内に存在していたことを示す。
 そして、河内と尾張連(あるいは尾張宿禰)の関係を考えたとき、仮に、多治比真人が尾張国に住するとすれば、尾張願興寺の周辺に邸宅を考えることは、さほど困難ではないのではないだろうか?


国司なき国衙、東畑

 もし仮に、尾張・多治比邸が尾張願興寺の周辺に存在していたとして、さらに、天平勝宝の多治比真人土作の代まで使用されていたとしたら、はたして、国の長官である多治比真人土作は、その当時の尾張国衙の有力候補である「東畑廃寺のごく近く」まで、毎日通っていたのであろうか?
 もし、多治比真人土作が東畑へ通うことなく尾張・多治比邸で政務を行っていたとすれば、尾張国衙の付属寺院である東畑廃寺には、法体の長官・国師のみが存在しており、しかも国司と国師の権力の二重構造のような状態も考えられないわけではない。
 残念ながら現在の所、当時の尾張国師の名前、出自など私は知らないので、権力の二重構造の明確な関係は知るすべもない。
 ただ、多治比真人には尾張宿禰が後ろ盾として存在していたように思われる。


古墳と律令をつなぐ……




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