京都・大将軍八神社の神像について枕京都国立博物館で開催された特別陳列「大将軍八神社の神像」の展示を回想した概観です。あくまで展示会の現場での感想ですので、これまでの研究成果とそぐわない所もあるでしょうから、深く知りたい場合は適切な参考文献を参照して正確な所をご確認ください。 社史・沿革大将軍八神社は京都・北野天神の南、住宅地の中にあります。神像は年に五日間程度、神社の宝物館で公開されており、今回の京博での展示は、宝物館の改修工事のためのものということです。社史は宮司・生島寛義氏により「大将軍八神社略史」(『大将軍神像と社史』所収)として研究されていますが「王城鎮護の目的を以って、桓武天皇平安遷都に際し大和国春日山麓より、平安京に勧請された」と伝えられる以上には縁起・古社記などにはふれられていません。縁起・古社記の調査により神像のより詳しい位相がつかめるのではないでしょうか? また、「大将軍」の名が示すように暦や陰陽道とも縁が深く神社には渋川春海作の天球儀や暦なども宝物として納められています。 大将軍とは大将軍とは金星のことを指し、金星は約三年周期で再び同じ位置に戻るため、三年ごとに大将軍の方位を定め、子(北)、卯(東)、午(南)、酉(西)と大将軍の方位はうつり十二年で一周するようです。大将軍の方位に事を起こせば、三年の間に死滅すると伝えられ、人間の実生活に影響を与えているとされます。 神像の分類神像は79体が重要文化財に指定されており美術院による修復が昭和47年から8年間にわたり行われたそうです。また、その他に破損した神像の部材が存在するそうで、今後、神像が新たに発見される可能性もあるのかもしれません。甲冑姿の武神像と衣冠束帯姿でまれに笏を手にする男神像、彼らの付き人と考えられる童子像(童子像は一体のみが現存)という三つが大きな分類ですが武神像・男神像ともにいくつかに細かく別れそうで、その小さい分類の中でカタチの移りかわりをたどることによって前後関係、意識の移りかわりも読み取れるのかもしれません。 男神像の細かい分類まず、男神像については、笏を執るもの執らないもの(ほぞを開け別材を差し込むもの、一木から彫りだすもの、また、双方に欠失したものがあり、彩色により表現することも可能であったろうから詳細に検討を加えなければならりません)笏の表現も、そうですが神像についてよく言われるのは神木を利用した為に一木から彫りだすものが多いとされ、別の木をつなぐ場合にも特殊なつなぎかたをするとされます。しかし、時代によっては、材のつなぎかたも、必ずしも定まっていないので、大きな木を中心にして不足部分を別の木で補うこともあるのだと思います。明らかに神木からと思われる神像もありますし、かといって、特殊な材のつなぎかただけから神木と判断してしまうと少し問題がでてくるように思います。 また、男神像は胸元で手を重ねるのですが、その重ね方が右手を上にして重ねるもの、つまり、右袖の裾を左袖の上に表現するものと、左手を上に重ねるもの、その区別がはっきりしないもの(彩色などで表現したことも考えられますし、真ん中でピタリとあわせてしたのかもしれません)があります。 袖裾の左右の区別は二尊で一対をなすのか、左右の違いで男神の種類・職能の違い、ひいては尊名の違いにつながる可能性もあるのではないでしょうか? 特殊な例として、52号神像は袖を二の腕あたりで縛っています。大将軍八神社の男神像の中では唯一で、あたかも甲冑を脱いだ武神が冠と笏を執るようにも見えます。 男神像の多くが座像で表現されていますが、78号神像は立像で表現されています。 武神像の細かい分類武神像には、立像、坐った像にあぐら(明らかに趺坐でないものもあります)をかくものと片足を地面に着ける半跏像(?)があります。立像は武神に似合わず(?)杖と巻物を手にするものがあり、持物については後に補ったことも考えなければなりませんが、立像のすべてが同じような左右の手のカタチをしていますので持物は同じ物かもしれません。 坐像、半跏像の区別は膝部分の欠失しているものが多く、判然しないものが多くあります。 同様に、手首、肘、肩部のほぞの弱さなのか、持物、手印のはっきりしたものは少ないですが、半跏像については右手に太刀、左手は刀印(ピースサイン?)とするものが見うけられます。(坐像についても、その組み合わせの可能性を持つものもあります) 将軍像の太刀武神像、とくに半跏像において指摘することができる、右手に太刀、左手は刀印という組み合わせは、どのような系譜から生まれてくるのでしょう? 系譜をたどることで、神像の位相、尊像しての役割も次第に明らかになるのではないでしょうか?やはり、太刀については、すぐに不動明王を想起せざるを得ないでしょう。時代的にかけ離れると思われますが、秋葉権現のモチーフも不動明王から得るものは大きかったでしょうし、逆に仏尊としての不動明王の位相としても、他の持明使者(明王)が多面多臂で表現されるのと比べると特異に思われます。 将軍像の手刀印は古くは奈良・法隆寺、金堂、釈迦三尊像の釈迦如来の与願印(左手)がそうですし、善光寺式阿弥陀如来と呼ばれる信州・善光寺の本尊をもととされる仏像群の与願印(左手)も刀印であることが指摘できます。また、忿怒相の尊像で刀印をとるものの代表として、役行者が感得したとされる蔵王権現があります。 大将軍神社の武神像では、人差し指、中指を上方へ向けるものと、腰のベルトに添えるものの、大きく二種類があります。さらに、明らかに刀印をとらぬ尊像も含まれています。 このような大将軍神社の武神像のバリエーションは、これらの尊像が造られたとされる時代の蔵王権現の印相の定形化とよく似ています。 例えば、奈良国立博物館 蔵王権現鏡像(金峰山山頂出土 平安時代後期)のように手のひらで腰をおさえるもの、また、刀印を大きく頭上にかかげる京都・広隆寺 蔵王権現立像(平安時代後期)のようなものもあります。それが、奈良・如意輪寺 蔵王権現立像(嘉禄2年1226)のように刀印を腰に当て金剛杵をとる典型的な蔵王権現になります。 このようにいろいろな位相の尊像と共鳴しながら大将軍八神社の神像が成立していることが考えられます。 しかし、武神像の典型、群像としての配置がはっきりしない中で、これ以上の追求を進めていくことは危険にも思われます。 群像論として今回、京都国立博物館、特別陳列「大将軍八神社の神像」の展示に対する概観を行ってみました。今後は武神像の坐像、半跏像の印相の典型の追求、群像として配置なども考えてゆきたいと思います。最後に、今回まとめてみた、大将軍神像の分類をまとめてみると、 表1 群像論として〜神像の分類案〜
おおよそ九つに分けてみました。ここで、注意しなければならないのは、大将軍八神社の神像が時間的に幅を持って制作されたことです。 300〜400年の時間差があるので、基本的にはそれらの全てを同一の群像として考えることは不適切なように思います。(もし同一の群像ととらえられるのであれば、隠匿されたとしても、もっと明らかな彼らに対するイメーヂが存在するのではないでしょうか?) 時期のそろった、比較的、制作の精度のそろった一群を群像ととられられるのではないでしょうか?
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