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2007年09月30日

盆踊り

実は盆踊りの踊り手はその祖先の霊だ。踊り手の笠や手ぬぐいは異界の者であることを示す衣装である。

 坪内稔典氏「踊り」『季語集』p188
 以前、「誰かとどこかで」で聞いたような気がする話。
 暗がり、笠や手ぬぐいで顔はかくされる。
 スピリチュアルなシンクロとともにDNA的なシンクロもあるように思われる。

未開と文明

これらの調査を比べてみて、二つの結論を導くことができる。白人は社会科学に頼っているが、インディオはむしろ自然科学を当てにしている。第二に、白人がインディアンは獣だと宣言しているのに対し、インディオは、白人が神かどうかを疑ってみることで満足している。どちらも同じように無知に基づいているが、後者の遣り方のほうが、明らかに、より人間に値するものであった。

『悲しき熱帯I』中公クラシックス p116
 以前、読んで気にかかっていた一文。備忘録。

権者と実者

中世には多彩な神観念が生まれ、成熟していったが、その中に「権者(ごんしゃ)」「実者(じっしゃ)」という類別があった。権者の神が仏菩薩の垂迹であるのに対し、実者の神は本地物を持たず、垂迹形(すいじゃくぎょう)のみで、しかもその姿はしばしば龍蛇形で示された(本書III−2−[2])。権者にくらべて明らかに低劣な位置にある実者なのだが、中世ではむしろ、実者の神こそが神祇信仰のダイナミズムを担い、先導していった感がある。なぜなら、衆生を済度するために穢悪(えお)の塵にまじわるという〝和光同塵〟なる神の使命は、衆生の劣機を表象する実者においてこそもっともよくそのリアリティが発揮されるはずだから。蛇形。それは三毒((とん)(じん)(ち))の体現である愚癡なる衆生の似姿なのだ。

『変成譜』p123
 中世の神観念、「権者と実者」についての説明。少し長いが引用。

2007年09月29日

秋雨に

秋雨に かすむ彼方の 伊吹山

2007年09月26日

青春の1ページ

070926.gif

 武田保雄氏他訳『ウエスト固体化学入門』p64

 引いたり、引かれたり、落ちたり、落としたり、
 一瞬の安らかな幸せのために、重くつらい時間が続いたり、、、

 落ちつける間合い(re)を見つけるのは難しい。
(ポエム掲示板風)
 惚れるなよ。後が辛くなるから。

いきなり俳句

東に 今、満ちてゆく 名月か
十五夜の 水面に泳ぐ 玉杓子(カエルの子)

 いかん、腕が落ちとる。

風涼し 真紅の日輪 落ちてゆけ!

2007年09月24日

弥生式ドリ、再び

 えっと、、、弥生式ドリーミングとは、平たく言うと五段活用の神話。
 日本語の基底のところで五段活用のように、50音表の縦列で意味のつながりあいを持っている。
 例えば、マ(真)ミ(実)ミ(身)は相似みたいに、、、
(詳しくは『地域思想史のレビュー』p13参照)
 このマ(真)ミ(実)ミ(身)は相似であるとともに相反。
「なにか核になる部分」という意味では、それぞれに共通して言えることなのだろう。これが相似ということ。
 では、逆に「意味としての核」「樹木の核(タネ)」「身体の核」のように細分していけば、おのおの意味が微妙に異なる。
 つまり、何らかの対立軸が想定できて相反(あいはん)する。

 相似と相反はある意味同義(相似)であるという説明でした。

2007年09月23日

エロ小説

 彼は私の肩に手をまわした。
 私は、それを振りほどこうとした。
 その瞬間、私の唇は彼にふさがれ、私は一瞬、意識を失いそうになる。
「オレが明日、存在することだって確かな事じゃない。オマエだっておんなじ。明日はわからないはずだろ」
 彼は私の瞳を見つめ続けた。
「だから、いいだろ?」
 彼に唇を奪われた時から、もう彼には逆らえなかった。
 私は彼に身を任せた。

 結局、彼が果てるまで、私は天井を見ていた。
 時々、意識が遠のき宙に浮くように感じた。

教化

曽川の林蔵院守屋家に伝わる「神送生霊死霊祭文」(仮題)がそれである。病人祈禱の「悪霊加持」に用いられたと思われる本祭文には、長大な悪霊「教化(きょうけ)」の文言が記されている。

『変成譜』p124
 悪霊を説得して病気を治そうという興味深い事例。

若子の注連

「若子の注連」という、大神楽の由来を語る祭文がそれである。

『変成譜』p116
 以下に、「若子の注連」の荒筋が示されいる。
 世界観が好き。

ココに注目!

陰は女、陽は男である故に、胎には八葉にかたどって、八人女(やをとめ)として八人ある。(こん)には五智、男につかさどって、五人の神楽人(かぐらうど)といえるののはこの故である。

「大神宮の御事」『沙石集』『変成譜』p115

「陰は女、陽は男」というカテゴライズは金剛、胎蔵という両部の曼荼羅にもあてはまる。
 胎蔵界は女、金剛界は男というカテゴライズから、神楽の「八人女」「神楽人」の説明に発展する。

「陰は女、陽は男」というのは「陰」がネガティブイメーヂであることによる嫌悪や、このようなカテゴライズ自体を否定するような論調もあるだろう。
 しかし、東洋的な思想として陰陽和合してはじめて秩序がうまれるという考え方がある。
 つまり、、、アレ? 型ハメになるな、、、以下、保留。

2007年09月21日

『橋本治という行き方』

真の自由とは、「正解がひとつではない」ということ―――

『橋本治という行き方』朝日文庫 帯

「完璧な人生」と聞いて、極端な選択性のなさを感じた。
 それはそれで仕方のない事なのだろうが、、、

2007年09月17日

肉の性差、媒体の性差

 媒体の性差、あるいは、媒体としての性差というのは難しいのかな?
 ようは、享受する側にあるものなのかもしれないけど、、、
 媒体の性差は、肉と内面の両方からつくられるものだよね。
(なんか変な文体だな!)
 つまり、私は、媒体の性差というものがあって、ある意味で肉の性差以上に重要な意味を持っているような気がするの。
 それは、ある性(「男」でも「女」でも、それ以外でもいいのだけれども、、、)であることを人文学・社会学的なものにしてくれるんだと思う。
(接続詞が多いのは内容がない証拠よね)
 肉の性差と同じように媒体の性差も多様性を保証するカタチで、多様に存在してもいいのではないだろうか?

2007年09月16日

『三位一体モデル』

キリスト教は、(略)とにかくこの三つの原理を「聖霊 = 増殖力」「子 = 幻想力」「父 = 社会的な法」と言いかえて、「三位一体」という教義(ドグマ)をつくりあげたわけですから、キリスト教には良い悪いを超えた強さがあります。

『三位一体モデル』p102
 ようは職人的というかトリッキーな「聖霊」とよばれる部分が増殖をするというようなお話。
「父」にあたる「社会的な法」の欠如みたいなことが後半の座談会で指摘されているが、著者は日本社会における「父」の存在価値の違いによるものと指摘している。
 そもそも、「聖霊」に人間が介在していると言うことにそもそも問題があるのでは? というのは「聖霊」という言葉に引っ張られすぎているのかな?

真床乎衾

大嘗祭のときにも、まずおふろで着替えを行う。それから天子さまは、真床乎衾(まどこのおふすま)というふとんに入られる。そこへ、前の天皇のからだを離れた天皇霊が、ふとんで覆われた密封空間に入ってくる。この空間は子宮をあらわしていて、胎児の状態の天子さまに天皇霊が籠もるのだそうです。

 中沢新一氏 『三位一体モデル TRINITY』 東京糸井重里事務所 p57

町石卒塔婆

『中右記』が滝尻の裏山で「三百町ノ蘇屠婆ヲ見ユ」と町石卒塔婆の存在を書き留めている。

 山本ひろ子氏 『変成譜−中世神仏習合の世界』 春秋社 p57

 比叡山東塔の講堂から根本中堂に向かう途中に紀貫之の墓所までの町数が記された石も存在した。備忘録。

2007年09月10日

『変成譜』

阿部泰郎氏「神々の図像学ノート   諸社の絵解き」『国文学 解釈と鑑賞』1987年9月号
山本ひろ子氏「宇賀神王・その中世的様態   叡山の弁財天信仰をめぐって」『神語り研究 第三号』1989年 春秋社

White Love

 いかん! なんか言い過ぎた気が、、、
 かいちゃったから仕方ないか、、、
 話題を変えて「戦後歌謡史」である。
 くり返す必要もないが、敗戦から2006年までが戦後である。
「焼け跡のジャズ」からいったい誰までになるのだろうか?

 結局「雨の慕情」辺りからこっちをやると判りやすいのだろうが、これは僕がやる必要もないか。
 誰かに譲ってしまおう。
 なんか「焼け跡のジャズ」から「雨の慕情」までが興味深く思えて仕方のない今日この頃。

テロとプロトコル

 暴力にメッセージはない。
 では、なぜ我々は911をテロというメッセージのある暴力と認めたのか?

 ここには、暴力をメッセージとして解読するためのプロトコルが必要となるだろう。

 管見、このプロトコルとして有力候補に挙げられるのは欧米の娯楽映画のようなものを思うのは中東文化に無知すぎるであろうか?
 なぜ、欧米文化をプロトコルとしてテロは選んだのか? 深く考えてみてもいいのではないだろうか?

来年までの宿題

 これを入れて、あと2つ入れたら鎮魂モードで911をむかえよう。

 カウンタとテロという分け方はテロをソトに追いやってしまう。
 つまり、ウチ(カウンタ)とソト(テロ)という図式は、テロを孤立無援にして増長させてしまう事にはならないか?
 図式を簡単にしてしまうことは、一概にいいこととは言えない。

 カウンタとテロという概念をのりこえるためには、柳宗悦の『南無阿弥陀仏』のようなのりこえ方をするのだが、まぁ、それは来年までの宿題と言うことで、、、

2007年09月09日

カウンタとテロ

 どーも、有害情報です。

 テロが存在するからカウンタ = 相手方が存在するわけではない。
 カウンタが認知して、はじめてテロは存在し得るのである。
(逆に認知しなければテロは存在しないのだが、問題発言)
 えっと、つまり、テロと呼ばれているものは暴力である。
 暴力そのものには、何もメッセージはない。

 対テロとはカウンタの認知の問題だと思うのだが、、、

2007年09月07日

1つっこみ!

 久米仙人か! (タカトシ風)

 ここ2、3日、絶不調。
 つまり、他人をおもんぱかるだけの精神的、余裕がない。

 ダメだね。1年前の記憶がよぎる。

 2006年。戦後はこの年に幕を下ろす。
 2007年、現在。我々は「ポスト戦後」(「名前はまだ無い」くらいの意味だろうか?)を生きている。
 我々の一挙一動が「ポスト戦後」レジームを決めていくと言っても全然大げさではない。

2007年09月05日

強肉弱食の証明

「あたりめ」食べてて、ふと。
うめ〜っ!

アミノ酸がうまみ成分なのは強肉弱食の証明にほかならない。
草だけ食べるならアジなんていらない。
タンパク質という不利なものを食うせめてもの救いだよね。

さて、私はいったい何学者?

2007年09月04日

適合手術

切除されて

 いや、雑誌立ち読みしてて、こんな本があることを知る。
 なんか他人事に口をつっこんでいるようで後ろめたいが、性同一性障害の人に考えてもらいたいナ。

 いづれは、オバサンかオジサンにならなければならないとして、一時かもしれないの違和感のために後の可能性を捨ててしまうこと、生物学的な神様からの授かり物を捨ててしまうことが正しいのか?
 性の多様性ってもっとあってもいいんぢゃないの? ここがネオフェミの始まりだったり、、、

肉(体)論

 かかずにはいられなくてかいてしまう。
 かいた後に猛省におそわれる。でも、かかずにはいられない。

 肉と言った方が肉体というよりエロティックに感じるのは僕だけなのだろうか?
 精神が極限までリジェクトされ、肉と直結した欲情のみが肉体を支配する。
 室井佑月氏風に言えば「あたしは××××なの!」って言えてないぢゃん!

 肉体に対しては精神と対になるのが一般的なのだろうが、肉に対してはやはり媒体が対になる。
 肉もフィルターを通せば、それは媒体である。しかし、その媒体によって起きた肉の変質は肉である。
 しかし、肉の変質をカミングアウトする行為は、まぎれもなく媒体であり、、、(らち)が明かない。

 さて、「媒体として見てしまって肉体として認知できない」というような発言があったように記憶する。
 僕は、逆に「媒体といえども抱けるのではないだろうか?」こんな命題をいつの日からか持つようになった。
 上の2つ、ちぐはぐな言説とも考えられるかもしれないが僕の中では相似である。
「相似」と「相反」はある意味、同義(相似)なんだよね。
 どうも境遇の相似よりもツインソウル的な相似を思わずにはいられない。

 はたしてソウルメイトは見ているのだろうか?

読了感

『中世王権と即位灌頂』の読了感。
 やはりこのくらい気鋭な考え方でないとドク論は無理なのかな、、、
 というのが読了感であったりする。
 王法・仏法相依から、ミトラ・ヴァルナを乗り越えミトラ・ヴァルナを統合するモノ、そしてその先を見すえてという大胆な立地点。
 王法・仏法相依こそがあるいはヴァルナ的なモノの根源かもしれないという当たり前すぎる考え方の僕には考えられない仕事だ。

 形式分類から、明 = 真言の吒枳尼天や聖天のような外法的な〈聖なるモノ〉からさまざまな仏に祝福されて王になるような明に変化しているということ。
 印の〈聖なるモノ〉としての智拳印から四海領掌印という中世王権観にそうカタチの発明。

 なんか「即位灌頂」の何が面白いのか判らなくなるような結論になってしまう。
 この問題を、どう自分の問題として捕まえ直すのか? まぁ、こんな所ですか。

『麗気記』

『麗気記』は『神道体系 論説編一真言神道(上)』(一九九三)に収録されている。

『中世王権と即位灌頂』p367

偽書の生成

転写の誤りでもあるのかなと「弘法」の2字を「空海」と改めてしまった。そのままにしておけば偽書顕然であるのに無用に私が「空海」と改めてしまったと後悔しています。

 度会延佳『神家考異』『中世王権と即位灌頂』p366
 往昔、『中臣祓訓解』を書写したときの話らしい。

(弘法)大師は承和のはじめにかくれ給へり、小町がさかりなる事、その後の事にや、なほ覚束なし

 吉田兼好「第百七十三段」『徒然草』『中世王権と即位灌頂』p368
 松本郁代氏は、ここに「偽書」に対する兼好の思考停止を見いだしている。
 中世的な不測(はかりがたい)のことの端的な例。

「信仰」の問題?

空海の生涯は、宝亀五年(七七四)から承和二年(八三五)であり、その後の「空海」の名を借りた事跡のほとんどは、弘法大師信仰のなかで語られている。しかし、この、宗教の内にあったカテゴリーとしての信仰は、偽書や疑文書、仮託といったテクニカル・タームを得ることによって意味分節化され、実体と信仰を離れた仮託者「空海」としての性質を得たといえる。

『中世王権と即位灌頂』p364
 結論から言ってしまえば「弘法大師信仰」というものがいかなるモノか? 逆にこのような問なのではないだろうか?
 まず、「信仰」という言葉がひっかかる。例えば法然の描いた阿弥陀仏に対する思いと、九条兼実の描いたそれとが全く同じであると言えるのだろうか?
 全く同じと言えない中で「信仰」というタームを振り回すのは乱暴にすぎると思うのは僕だけなのだろうか?

それらがなにゆえに「偽書」とされたか、ということは、それぞれの場合によって違うだろう。

 彌永信美氏「偽書とはなんだろう」『中世王権と即位灌頂』p370
「信仰」が多様なモノを、半ば乱暴にひとくくりにしているのと同じように、「偽書」も多様である。
 僕が思うのは、今ひとたび、テキストその物に立ち返り、個々に吟味していくことが大切なのではないだろうか?

「肖像画としての後醍醐天皇」

黒田日出男氏『王の身体 王の肖像』平凡社 1993年

未購入、入手不可。

『さざれ石』3

ホゾ木尊:アンタ、名前、変えたら長生きするよ。以上です。
植田宿禰(うえたのすくね):ということで、参考にしてください。
蟻田宿禰(ありだのすくね):あれ? もう終わりですか? もうひと笑いとって、、、
ホゾ木尊:蟻田! このギャラいくらだと思ってんの!! あれ? ダッキー(抱沢臣)いないぢゃん。
植田宿禰:なにぶん低予算なんで、、、

『さざれ石』2

ホゾ木尊:ズバリ、いくよ! アンタ、来年から宿命×××に入るから、名前、変えなさい。
さざれ石:名前?
ホゾ木尊:そう。
ホゾ木尊、テーブルの上の青い壺をこともなげにとる。
さざれ石:それは、、、
ホゾ木尊:クビラからもらったんでしょ。クビラは私のダチなんだから。ほら、ここに「さざれ石の巌となりて」、「巌」いいぢゃん。
さざれ石:イワオ?
さざれ石の想像
岩尾:なによ)

『さざれ石』

古歌(いにしえうた)に秘められた本当の意味を理解してほしい 意地原土地爾」
黒地に白、明朝。

ホゾ木尊(ほぞきのみこと):アンタ、名前は?
さざれ石:さざれ石です。
ホゾ木尊:ズバリ、言っていい?
SE