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2009年06月21日

『光の回廊』

 清原なつの氏『光の回廊』小学館文庫。
 光明子を中心にしたマンガ。
 まあ、マンガだから、、、
『阿修羅展』で仏像ブームの違和感って、文学的にいうとこういうことかーーー! と、妙に納得してしまった。
 どっぷり『白瑠璃の碗』なのでは? と、思うと、こうゆうフィクション性の高いものもふくめて、「仏像鑑賞QS」であったり「レクイエムが聴こえる」で、そのものズバリわたりあわなければならない訳で、ちゃんとわたりあえてるのか?
 あと、一緒に『水色時代(1)』を買ってしまう。表紙が無性にカワイくてさ。
 でも、コレって、オレが読んだら、児○ポル○ぢゃない? 捕まるとかないよね? 逆R指定とかあると、オレ読めないぢゃん!
 違うの! オレの中に16才の少女がいて、こういうモノを欲するの! って、病理だ。

萌え。論

 初音ミクが「私の心は」とか「私の気持ちを」なんて歌うと、キュンときちゃうんだよね。なんか、現実に手の届かない所に、その存在があって、その存在との距離感の「遠さ」っていうか、その感情が「萌え」なんだよね。
 だから、鬼籍にいる人の研究がどうとか、鬼籍の人の研究を読んで「で、さぁ〜、君の研究は?」なんて、聞かれたような感覚になったときも、やっぱ、「萌え」って使っちゃうんだよね。団地や工場に萌えるのも、そのモノとの距離感が自分と断絶しているという意味があるんだよね、多分、きっと。
 いかん、バカなこと言おうとした!

名古屋市博物館
新たな国民のたから
−文化庁購入文化財展−

 ハコモノつくる金があるんだったら、推定運慶とかも買えばいいのに、、、景気対策なんだから人件費にあてるのがスジなのでは? コンクリ代にあてるのはね、、、と、意味不明。
 音声ガイド借りて、1時間弱かな? なんで1から2みたいに連続再生できないんだ?
 そうか『絵因果経』のようなものもあるんだな。絵巻物の前身というか、、、

名古屋市博物館
特別展
新たな国民のたから
−文化庁購入文化財展−
090620〜0720

2009年06月13日

地方都市論

岐阜市歴史博物館
魯山人の宇宙

 魯山人の焼き物に関する展示。
「ロ」や「魯」の窯印。
 窯ごとの焼き物の簡単な特徴を示して、○○手風的な焼き物の展示。
 簡単ではあるが各窯の窯風を、大づかみにするには便利かも。
「44鉄絵円窓文茶碗」がカワイかった。焼酎のオンザロックしたい。

 そんなことより、自由書房も星野もなくなってた!!! 岐阜って、そんなに来てなかったか?
 なんか優良な地方都市が、名古屋のような拠点都市やAmazonに吸収されていくようで、いたたまれなかった。
 でも、名古屋に行ってなかったらAmazonで頼んぢゃうもんな、、、
 大衆書房もいつの間にかなくなって、百貨店が消えて、美濃町線もなくなって、再開発中みたいだけど、どんな都市構造を得ようとしているのだろう?
 都市の顔というものは、その都市を構成する人々の行動様式を規定して、

 一宮よってこ。

 で、なんだっけ? なんかタラタラと長く書くクセがついてしまった。
 ようは、人材を育てるのも、流出させるのも、留めおくのも、都市構造に関わっているのでは? という話。
 あと、自転車。自転車が、あんな凶暴な乗り物とは、、、おちおち、ウインドーショッピングもできない。道交法で逮捕してやる!(笑)

 そうそう、瑞龍寺山の南麓に規模は判らないけど弥生時代の面的な広がりがあるらしい。知らなんだ。。。

岐阜市歴史博物館(岐阜公園)
岐阜市制120周年記念 特別展
魯山人の宇宙
090606〜0712

2009年06月12日

清書

裳咋氏の 先祖を偲ぶ 船遊
滝壺に しぶきのけむり 神々し

2009年06月10日

「明けない夜はないと願う事」は罪ですか?

 本丸にメスが入ったからといって安心できるのだろうか? 小罪を罰して大罪を罰しない国家があるだろうか? 別件でひっぱっといて、そのままというのもあるし、拒否れば、即だし、、、ヒヒヒ
 そんなことより、真面目に『太平記』も読んどかないと、、、
 さて、法隆寺・金堂、唐招提寺・金堂、東寺・講堂は、釈迦如来から大釈迦である毘盧舎那如来、法身仏の究極である大日如来への信仰の変遷をうかがえるのだが、本尊は薬師如来というのが、この時代を通じて存在する。

 時代的に東寺・金堂、神護寺、延暦寺・根本中堂などは護国の意味合いの強い薬師如来ではないだろうか? さてはて、この薬師如来の「護国」の意味合いは、どっから、やってくるのか? 唐招提寺・金堂の薬師如来を説明するのに、その疑問が残る。
 唐招提寺・金堂の中央の3体を考えていて、東大寺、新薬師寺、法華寺という並びは興味深い。毘盧舎那如来、薬師如来、観音(法華寺は十一面観音)というのは唐招提寺・金堂と一致する。新薬師寺は聖武天皇の眼病平癒の為に建てられたという縁起を持つ。
 似たような、縁起を持つのが薬師寺。天武・持統天皇の病気平癒の縁起を持つ。あの本薬師寺の位置は気になる。藤原京を考えた場合、本薬師寺は「西」に位置し、薬師如来の「東」というイメーヂを考えれば本来は大官大寺の位置に薬師寺があるのが自然だと思うのはうがちすぎだろうか?
 しかし、大官大寺の場所を考えた場合、そこは「小子部」の場所なのである。「レクイエム、、、」的な要素による忌避を感じるのは病理的だろうか?
 ひるがえって、新薬師寺。外京のはずれの南側。これは「小子部」の位置に相当するのではないだろうか? 確かに東大寺が若草山の麓近くにあり、東大寺より東を意識すれば、新薬師寺は、あの位置しかありえないのかもしれない。このことには十分な考察が必要だろう。(なにげに『白瑠璃の碗』の表にいきつくとは)
 天皇の病気平癒を祈ることは薬師如来の利益と密接にかかわっている。これが飛躍的に転じて「玉体の安寧を祈る」というような意味合いが附加されたとすれば薬師如来の「護国」的性質も説明できるのかもしれない。
 その点で注目できるのは御伽草子の「さざれ石」(岩波文庫)でないだろうか? その荒筋は「玉体の安寧を祈る」事のくずれた構造を示しているようにも思われる。
 この話、「中世神話」的な広がりもあるような気がしてて、なんか、ここ20年やって来たバラバラな事柄が、ここに来て、なんか一本に収れんしていくような不思議な感覚に襲われている。

2009年06月07日

折り返し?

 もう、この先、急いで進めても消化不良おこしたりするから、すこし、時間をおいて腹ごなしをしないとだめだよね。一応、ここまでで、仏像編は終了なのかな? これからは、仏画編。群像論的な数字の組み合わせで幾何学的に配置が決まって、仏画は完成するんだ的な、お話になる予定。
 でも、こういうモノが出版されないのって、出版業界とかアカデミズムが飽和状態であることの象徴なんだよね、たぶん。不公平感の源泉を感じる! (って、何様のつもりだ! ただの仏像オタクのブログぢゃん!)
 需要と供給というのがあって、それ以上に「表現したいという欲求」というものが存在してて、流通は無理という条件つきでも供給ということがなされたり。
 そんな中で、コップについた水滴みたいに、みんなブログやったり、でも、表現の本質が「みんなと同じなんだよ」みたいな、それって自己表現なのか? と、やっぱ、どっかで共感とか共鳴というのは必要でメヂアンがどこにあるのかって感覚は大切なんだけど、表現で大切な事って目新しさなのかなと(といいつつ、なんか大きなモノのまわりをグルグルまわっているだけなのかもしれないし、、、)
 で、何だった? 結局、メヂアンが高くなりすぎて肩巾が異様に狭いのかもね。

 と、言いつつ『阿修羅展』も今日で終了。こっから、火がついて「仏像鑑賞が趣味です」とか仏像オタクが多く排出されると、ウチも浮かばれるのか? 大丈夫か?