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2010年06月27日

2題

 粛正されちゃったか?
一宮市博物館
特別展 円空展
 秋葉権現、柿本人麻呂、天神様。そうか、何度も反芻されるモチーフなんだな。その、よせあつめだから『白瑠璃の碗』は、なりたっているだけなのかな?
 円空の法相宗の血脈、寺門派?の血脈が展示されてた。愛知県内のものが、おおかたなのかな? 豊田市民芸館のものがあるから、それでも面的な広がりを感じられるよね。あとは写真が記録写真というよりは、芸術的な写真が飾ってあった。

豊田市美術館
企画展
森村泰昌・なにものかへのレクイエム
 ある意味『白瑠璃の碗』って、セルフポートレイトで、登場人物の考え方とか感じ方って、どうしても、自分の分身という側面が出てきてしまう。歴史学研究全般に、そういうことが、いえるのかは疑問符を付けておきたいけど、僕の場合は、どっかで、僕の不備な部分というのが、表現されてしまっているような気がする。
 豊田だけの特徴らしいが『なにものかへのレクイエム』と『女優シリーズ』が両方見られる。両方で『なにものかへのレクイエム(男編)(女偏)』というような趣向だそうな。女優シリーズは、森村氏自身が新たに作品を選ばれたらしい。
 はじめて液晶絵画と出会う。今の液晶って薄いんだ。額装と大差ないの。その絵画が動くという近未来性というか幻想性。プロジェクターで映写するのとは、ひと味違う存在感がなんかあるんだよね。プロジェクター投影の作品も練られていて、いい。
 なんていうのかな? 表現としてのツールを開拓していく時期は、ある程度のウイットとか問題提起で、作品は成り立っていくんだけど、これが飽和した時に、どんな現象が起きるのか? ツールが新しくないというだけで、表現が色あせてゆくのだろうか? そして社会的な活動を永続的におこなっているのだから、何かは変化していて、問題意識も変化していくのだろう。ちと、ど壺ちっくだな。

一宮市博物館
特別展 円空展
20100522~0711

豊田市美術館
企画展
森村泰昌・なにものかへのレクイエム
20100626~0905

2010年06月20日

2題

 7月号の『美術手帖』は買いだと思う。
http://www.amazon.co.jp/dp/B003ODB7DE/
 まあ、なんで買いかは置くとして、なんていうの、美術でも歴史でも1種の〈表現〉で、現地の人というか、普段見慣れた風景が〈表現〉の〈場〉になった時に、違和を訴える人は、少なからずいるのだろうし、それは、もうアセスメント以上に、相互理解しかあり得ないのではないか?
〈表現〉として「常識の破壊」というセオリーが新しいのかどうかは置くとしても、一方で「当たり前にしちゃダメなことでしょ!」という、強い主張は存在するわけで、はたしてK育C語に対する、いたずらを防ぐような法律で取り締まることが、本当に常識的なのだろうか?
 まあ、サオちゃんがカワイかったから買っただけなんだけど、、、
 ツイッター関係で、いい資料が挙がってきてるみたいだけど、某氏が「音楽倫理はウチのシマだ!」という主張もあるので、詳細は某氏にゆずりたい。

三重県立美術館
川喜田半泥子のすべて
 慾袋という作品の絵はがきを見た時に「なんかスゴい!」と思ったの。焼き物の水差しなんだけど、脇下が破れてて、かけつぎというか、補修してあって、青海波があしらってあるの。その全体の雰囲気も味があるんだけど、水差しという器種が破れてるということが、あくことのない欲望の象徴にも思えて、妙に言い当ててるの。実物が見れた。
 数年前に『伊勢人』でも特集してて、魯山人と同じくらいの時代になるのかな? 数寄者なのかな?
 焼き物も書も絵も自分で、できちゃう人で、ウイットに富んでいる。掛け軸で「お前百まで、わしゃ、いつまでも」と言うのが印象に残った。
「いつまでも」って〈記号化〉だよね。茶碗や作品はいつまでも残ると言うような、、、今は、ブログだって乱立してるから〈記号化〉しても何も残らないのかも、、、

愛知県美術館(栄)
田原市博物館の名品による
渡辺崋山展
併催:和魂洋眼(所蔵作品展)
「和魂洋眼」というと、いかにも崋山がらみな感じだけど、ようは「あいちトリエンナーレ以前」というか、現代美術までのアートの歴史のレビューといった感じ。
 僕だったら、「これまで。~日本画・洋画からポップアートまで~あいちトリエンナーレ記念」みたいなタイトルにするかな。
 渡辺崋山展は、それだけで十分充実した内容なんだもんね。「不忠不孝」も見れたし。

三重県立美術館
川喜田半泥子のすべて
20100608~0725

愛知県美術館(栄)
田原市博物館の名品による
渡辺崋山展
併催:和魂洋眼(所蔵作品展)
20100604~0711

2010年06月13日

継体大王の時代

 展示というよりシンポがメインだったな。
 なんていうの、継体の即位前記って、ある意味、草香の即位盟約というか、まあ、家系はそのままとれるんだけど、雄略の報復が恐くて、継体を養育できないの。
 それで、たぶん、尾張に連れてきてて、そのまま、史実にしたら、みっともないから、近江とコシを味方につけるために作られた神話な気がする。
 だから「勝者の歴史」って言うけど、何が勝者なのか? って気もする。
 そう考えてくと、尾張低地部の稲作の余剰生産、それを〈富〉に変換する須恵器生産のような交易〈資産〉それがあるのは、畿内を置くと尾張だけなのか?
 尾張3代、100年の野望が時の利を得て実現するのかな?
 そう考えた時に、欽明以後の脆弱さは〈古墳を必要としない社会構造〉の萌芽にも思えてくるよね。
 蘇我と尾張か、、、聖徳太子という原理主義者もいるが、乙巳の変以後、多治比嶋以後、天武朝を待たないといけわいのかな?

近つ飛鳥博物館
春季特別展
継体大王の時代
百舌鳥・古市古墳群の終焉と新時代の幕開け
20100424~0627

シンポジウム
継体大王の時代-新時代の幕開け-
歴史学からみた継体大王 塚口義信氏
継体大王と近江・コシ(越) 中司照世氏
継体大王と東海 赤塚次郎氏
継体大王と摂津三島、今城塚古墳 森田克行氏
20100613(日) 午前10時~午後4時20分

2010年06月07日

初心者への博物館のススメ

 残念ながら、月曜は休館の博物館が多い。
 やっと頭の中が整理されてきて、何がしたくて、何をしなきゃいけないかが、見えてきたぞ。
 ふと、今年度の博物館の特別展を調べていたら、

静岡県立美術館
トリノ・エジプト展
-イタリアが愛した美の遺産-
20100612~0822
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/

 と言うのを、発見した。この前まで、神戸でやっていて、その前は、、、その辺は、読者の方が詳しいのかも「見逃した」とか「地元ぢゃなかった」とかの理由の方はどうだろう? なんてゆうの、視界に入ったモノ、その場の雰囲気を共有したり、追体験できる催しなのではないだろうか?(まあ静岡圏内の方に対してくらいなのかな?)
 例えば、日曜の朝、一週間のまとめのニュースを見たり、政治の討論番組。なんやかんやしていると、お昼になって、午後からは80.0、TOKYO FM、聞いて『安部礼司』が終わる頃に「ああ休みも終わっちゃったな」という、1種の風情だよね。
 昔『サザエさん』のエンディングで「ああ、英語のReaderの宿題が残ってるな」って、感覚。風情ぢゃん。

 博物館・美術館も初心者にとって、1つの風情を楽しむ空間なんだよね。
 白川公園の木立の風の音、木漏れ日(名古屋市美術館・科学館)、地下都市に落ち込む、オアシスの楕円盤の水面のゆらめき(愛知県美術館)、徳川園の庭の借景の高層ビル(徳川園)、桜山の古書のにおい(名古屋市博物館)、、、
 日曜の、たいくつな午後、そんな空間に自分を置いてみるのも、また一興なのではないか? 時にはズルして、月曜とは言えないけど、仕事はキャンセルしてリフレッシュに訪れる博物館・美術館というのも忘れられない思い出になるのかもしれない。(いけない先達だな)
 博物館・美術館には個性がある。それは館ごとの特徴を示している場合もあるが、もっと大きく、都市構造や街並みも博物館・美術館の借景のように感じることがある。iPodにお気にいりを入れて、街の風景の一部になる瞬間も悪くない。