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2014年03月03日

印象派を超えて−点描の画家たち

愛知県美術館(栄)
印象派を超えて−点描の画家たち
ゴッホ、スーラからモンドリアンまで

https://twitter.com/forimalist/status/439385139588505600
「中日新聞の文化部記者のE氏は、愛知県美術館で現在開催されている「印象派を超えてー点描の画家たち」展について、あいちトリエンナーレ2013に関する座談会のときのように、「よそから持ってきた(現代)アートなるものを集中的に縦覧させて、地元を疲弊させるだけだろう。」と言うのだろうか。」

 なんていうの? 開催そうそうに、こういう本旨と関係ない、なにを擁護しているのか判らない、出鱈目な言説が出ると、みんな萎えてしまうし、興が醒めてしまうのでは?
 ホントに本旨とは関係ないので、反論は後段に譲ることにする。

 気持ち切り替えていくよ! まず、日本画では、そうたいしてでもないんだけど、西洋画というか油絵には顕著に表れるんだけど、描点と絵画点の話をしないといけないんだけど、例えば荻須高徳の絵画(別に、どんな油絵の風景画でもいいんだろうと思うけど)を見た時に、仮に樹の表現をみてみよう。遠目で見るとしっかりした樹木(絵画点)なんだけど、枝の1本1本を、じっくり見た時に、結局は1本の茶色の線(描点)なわけ、それは木の枝なら筆の繊維の1本1本まで確認できるし、壁ならコテで引き延ばした感じが、左官職人の、まさに手仕事な訳。
 油絵を見るときに、描点と絵画点は注目して見るべきなんだと、とくに点描画をテーマにした今回の展示のような展示では。
 内容いく前に、展示の様子を説明しておくと、絵画に近づけないようにするための柵が、点描という展示の性格上、ほとんど機能していない。「ココの表現がさ!」と指をさそうものなら、作品に手が触れてしまうくらいの勢い。「私はそんなバカぢゃないから、指さしても作品にぶつけることはない」と思うかもしれないが、隣で見てる人は非常にひやひやしてストレスがたまる。監視員も明らかにアウト以外は見て見ぬふりだから、作品を指さすことは自重した方がいい。身を乗り出してのぞき込むのも、そうなんだろうな。
 そのくらい近くで見れるのでメガネをかけて不自由のない生活をしている人には、ストレスなく描点を体感できると思う。
(初期の)印象派の逆に描点を意識させない作風から、ポスト印象派(展覧会中では新印象派という語を使用していた後期印象派とも言うんだけど、あまり厳密な意味を持たせずに描点の意識的な加工をしているのをポスト印象派と呼ぶことにする)スーラ・シニャックの意識的に描点をドットにした表現、ゴッホの、あの独特の色使いと長めの描点、スーラ・シニャックの血脈をうけるベルギー・オランダの分割主義(描点を補色の効果を利用して色鮮やかに見せる絵画方法になるのか?)も十分に楽しめる。
 まあ、老眼とか、人がいささか多いので、作品の正面で長く見ていられないと言うときに、人垣より向こうから単眼鏡を使って長く眺めるのもいいのかもしれない。まあ近くまで寄れるから、そんなに必要ないかもだが、単眼鏡持ってるなら、持っていって、迷惑にならない程度に恥ずかしがらずに使ってみたい展示内容。
 展示内容に入ると、目玉はスーラの「ポール=アン=ベッサンの日曜日」これは、教科書に載るほどの名作。あとゴッホの「種まく人」、モンドリアンの「赤と黄と青のあるコンポジション」くらいかな? スーラが早世と言うことで、スーラの後を受けるシニャックの作品が、ある程度まとめてみられるのもいいのかも? そんな「これぞポスト印象派でござい」という「アートなるものを集中的に縦覧させ」ような暴力的な展示ではないので、安心して楽しく絵画鑑賞ができると思う。
 軽く「よそから」でもないと指摘しておくか。なんていうの? 地域でおこなわれる展覧会というのは地域の歴史というか、足を運んだ人の意識とか認識も左右するんだと思う。そういう意味で、愛知県美術館で開催した『ジャクソン・ポロック』展は記憶に新しいところだろう。(こうかくとネタバレが先になるか?)
 印象派が、それまでのアカデミックな絵画と一線を画したように、ポスト印象派も印象派という前提を受けながらも、色彩理論という新しい考え方で、新たな絵画運動して点描とか分割主義を展開していく。それはフランスからベルギーやオランダにも伝播して、「《7月の朝》あるいは《果樹園》あるいは《庭園に集う家族》」のようなスーラの完コピのような作品から、ヘステルの「モントフォール近くの風景」のような、ゴッホの絵画を独自に解釈し直すような試みに結実する。
 なんとなく工業的なインダストリアル・デザインに画集などでは思われるモンドリアンも、本物を見ると、経年的な痛みもあるかもしれないが、非常に人の血の通った、生々しい作品であることに気付く。
 それを受けて登場したのがポーリングのポロックで、ポロック展を見た地域の多くの人間がスーラの点描にポーリングの源泉を見たのではないだろうか?
 それは「よそ」で体感されることなのだろうか?

 まあ、あまり芸術に対して「かくかくしかじかで、あるべき!」とワン・イシューにしてしまうことには反対で、玉石混淆というか自分の知識や経験に合わせて、多様な発言がされることの方が、文化的に豊かな地域だと考えているが、最初の発言のように、ツイッターの他人の発言に酔って、いかにも自分以外(E記者)はバカという態度には、きちんと抗議しないと、今回の展覧会も低く見られてしまうし、こういうテロ的な行為がおこなわれることで、多様な発言が奪われてしまう、まさに「文化不毛の土地」になりかねないのではないだろうか?
 逆に言ってしまえば今回の『点描の画家たち』が「よそから持ってきた(現代)アートなるものを集中的に縦覧させ」た展示だと考える(この認識は見当違いだと思う)なら、あいちトリエンナーレも、この規模を凌駕する必要がないのでは? だって、『点描画の画家たち』で満腹感とか、ともすれば胃もたれもしたんでしょ? いくら、あいちトリエンナーレが全部見る必要のないアートの祭典だとしても、愛知県美術館で展示を工夫すれば胃もたれするくらい、こってりした展示(当たり前だけど、胃もたれするような展示はオーバーキャパシティーだよね)を開催できるなら、それ以上の規模はオーバーキャパシティーだよ。

 以前にツイッター上で言及したのがコレ。
https://twitter.com/kagachi_ecm/status/439585595262640128

 まあ、そろそろ総監督も舞台監督も自分たちの主張が小我ではなく大我であることを説明するべき時期がきているのではないか?
 あいちトリエンナーレには多くのボランティアが参加していて、僕の心の痛みは、ボランティアも共有しているハズだから大我だと言うかもしれないが、それは、言いかえれば、みんな楽しんで番組作ったのにBPOのあのジャッジは何? という内輪のウケの話でしょ?
 中日新聞には、言論の自由もあるし、あいちトリエンナーレが客観的な批評に耐えうる規模でない(人間個人の認知領域を凌駕する)展示だと思うし、自分以外の認識は認めないというなら、そういう手続きで、中日新聞の総評の前にパブリックにコメントを出してしまえば良かったのでは?
 もう、それ以上に、地域の文化として、アート界隈と新聞、そして一般市民の間に、ガラスのかい離が、総監督・舞台監督の発言でできてしまった訳でしょ?「私は、よそ者だから」と放棄せずに、ちゃんと発言で一石を投じれば、地域の文化が豊かになるというスキームを提示して欲しい。
 こぶしは挙げたけど、下ろし方は考えていない、あるいは、間違っているのは中日新聞(間違った発言でも言論の自由はあるのでは? もっと別のプレゼンテーションは考えられなかったの?)だから、新聞という権力に対する聖戦だから、私たちは負けないとでも思っているのだろうか?
 こういう小我による独りよがりをして「地元を疲弊させるだけ」の言説だと思うのだが、ちゃんと、これまで以上に豊かな芸術批評の空間を返して欲しい所。

愛知県美術館(栄)
印象派を超えて−点描の画家たち
ゴッホ、スーラからモンドリアンまで
2014.0225〜0406
http://km2013.jp/