フローチャートII式
もっと簡単に再結晶を行う方法はある。
(1)須恵甕に過剰量(飽和する以上の)塩を入れ、水を張る。
(2)水面に稲ワラなどの結晶の核となるものをつける。
(3)数日間放置。
(4)稲ワラについた、結晶を水で洗い乾燥させる。
(5)乾燥した稲ワラを木槌のようなものでたたき、結晶を単離する。
2010年01月28日
再結晶のフローチャート
少し実験考古学的に塩の再結晶の行程を考えてみたい。
(1)土師甕に湯を沸かす。
(2)(1)に塩を溶かし込んでゆく。
(3)飽和状態になると塩が溶けなくなるので塩を加えるのを止める。
(4)水を少しづつ加えていって、完全に溶解させる。
*(3)(4)は経験的に湯の量と塩の量の比率は判るのかもしれない。
(5)土師甕を火から下ろす。
(6)あら熱が取れたところで、種結晶(固形の塩)を加える。
(7)常温にもどり、結晶が析出したら、土師甕から結晶を取り出す。
(8)結晶を水で洗う。
(9)結晶化した塩を乾燥させる。
(10)土師甕内に残った水は須恵甕のような容器に移し(1)の湯として再利用する。
(11)(1)~(10)を何度か繰り返すと、水の中に苦汁(にがり)成分が多くなるので、その液体は苦汁として活用できる。
ざっと、頭で考えるとこんな所か? これで遺跡の遺物と照合して、プラス製塩土器が見つかれば、再結晶の可能性のある遺跡となるか? 普通の集落跡か?
2010年01月25日
governmentとpolitics
交易における秩序という意味の政治はgovernmentなんだろう。しかし、たとえば縄紋時代にある黒曜石の交易に秩序があればやはりそこにも政治の力が働いていたと言えるのだろうか?
江戸時代には「公儀、多忙につき相対(あいたい)済まし」のような、交易のような民事上のトラブルについては当事者同士でことを行うのが慣例とされていた。ここにgovernmentは存在するのだろうか?
やっぱ古墳時代後期から現代までの政治といえば「利益誘導」なのではないだろうか? politicsという言葉に置き換えられるのかもしれない。
「国民1人に1万円づつ配れば票は固いな」とか「土建業とのゆ着」とか「社会構造の不備からニートが生まれているからニートにも生活の安定を」それぞれ、内容は大きく異なるが、それは誰かを富ませるために動いているのであって、「秩序の安定」という立場からすれば、真逆のスタンスなのかもしれない。
「利益誘導」とみかえりとしての政治家の「搾取」は文明の上下に関係なく案外普遍的に存在するのではないだろうか?(こういうスキームは政治的に発達した社会しか持ち得ないのだろうか? 言い換えれば、古墳時代後期~8世紀くらいの日本において成り立たないのだろうか?)
結局、こういう話は、自分の政治信条であるとか、社会に対する認知によって大きく変化することなのだろう。
まあ、僕はpolitics史の立場から尾張の窯業であるとか、製塩業なんかが、どのように殖産されて、その富の搾取は、つぎなるどのような「利益誘導」の原資となっていったのか?(ああ、これを考古学でやろうとするとA氏とモロかぶりなのか、、、)ということを調べてゆけたらな、、、という『白瑠璃の碗』の糸口の話。
2009年12月31日
防人と征夷
いや、今年1年何やったのか? と思って、今年の1月のエントリ見てたら、
「ああ、結局、ホッケな1年だったのか↓↓」
と、イヤになっちゃう。
防人のこと考えてて、防人の1人ひとりが感傷的なのは、先の大戦に対するアンチテーゼと『萬葉集』の影響だよね。
しかし、東国の軍事力がミヤコを通って、西国に向かうというのは、あるいは、東国の独自性を保つ、1つのシステムのように思えてきた!(いや、まだ、なんの下調べもしていないのだが、、、)
まあ、こんなこと僕が考えることではなくて、軍事史の専門家がやればいいことのような気もする。
つまり、東国の軍事力が「畿内」のクビモトを通って、西国に行くのだ。
いったい、こんなことが畿内から要請されたことなのだろうか? 東国から? 西国から?
逆に言えば、征夷大将軍は畿内の軍事力が東国を通るのか?
これも、厳密に誰の何の目的の要請で始まったのか? その位相の吟味は大切なことに思えてきた。
まあ、多治比氏のような氏族が征夷大将軍であれば、畿内の軍事力なのか、東国直属の軍事力なのか微妙になる。(多治比氏の位置づけは、そこで正しいのか?)
しかし、藤原氏が征夷大将軍になった場合、軍事力の移動だけで、一悶着あったことも簡単に想像されよう。
まあ、この辺も『白瑠璃の碗』の課題になってくるのか?
では、よいお年を、、、
2009年11月19日
「いったい俺は誰なんだ!!!」
例えば、毎晩見ていたニュース番組のキャスターが降板したとしよう。
彼は、毎晩、彼目線で世相を論評していた。その論評がもう見れない。それはある意味で「死」である。
媒体としての死と呼ぼう。
僕が、その番組を見なくなる。これも、この後に番組を見るかもしれないという可能性が付くが、ある意味の断絶である。
個人的には、媒体の死、こそ「死」なのではないかと思う。
相互に意見を分かち合える状態の喪失。その状態が決定的であるときに「死」は発生する。
逆に、媒体としての死が訪れているのに、生身の死がほど遠い状態もあり得るだろう。
例えば、誰かが自分の名を語らって、死んでしまうような状態。(ほとんどあり得ない状態だが、、、)
媒体としての自分の死は大衆にとってゆるぎがない。いったい、いったい、いったい、、、
「いったい俺は誰なんだ!!!」
なんか自然に出る言葉なような気がして、、、
レヴィ=ストロースの死。ほんの最近まで、彼は日本に対しても発言しており、構造主義者を家に招いたような話も聞く。媒体の死と、実際の死が極限まで近づいていたように感じる。その話が1点。
2009年11月18日
たまには上半身でモノを考えてみる
どうも、そうは、いかないようだ。
「ピカソになれる可能性はないわけではない」
とか、
「オレはピカソを超えた」(伝聞なので不確か)
とか、ピカソに誤解がありそうなので、管見で少し書いてみる。
ピカソは一種のトポロジーだから、数学の知識がないとよく分からない。よく分からないというか、数学の知識があった方が楽しめる。だから、絵画に数学的な思考を取り入れたというところで「新しい」のであって、その時代の潮流がピカソを支持したことが、現在の「絵画といえはピカソ」的なステレオタイプにつながっている。
それを横目で見ていた2人の人物を登場させよう。
2009年11月01日
オナニーする女性はカワイい
本朝オナニー関連の資料、生産者・享受者とも男性として考えなさいというフェミニストからの強烈な指摘があり、その線で考察。
少なくとも、古代の本朝の男性は、オナニーをしていたということは言えるだろう。男性という性に対してどの程度オナニーが必要かは別として、、、(オスのオナニーなら猿でもできるのでは?)
そして、男性が「女性のオナニー」に対して、なんらかの憧憬を描いていたのではないだろうか?
つまり、オナニーする女性はカワイいのである。
でも、資料の読みがあまいという批判もあるか。
しかし、網野善彦が「旅行する女性の性は解放されていたのでは?」という立論。逆に日本では性に対して比較的、女性に主導権があったのではと考えさせられる。
つまり、、、なんだ、、、その、、、
2009年10月27日
本朝に於けるオナニーの歴史
『耀天記』という書物に、女が鏑矢(かぶらや)をひろい、それを床にさして眠ったら身ごもった、という話が出てくる。なんともセクシャルな内容に思うのは僕だけだろうか?
注目されるのは、主人公が女性であること、矢という棒状のモノを男性あるいは男根の象徴としていること。仮に矢を男根の象徴と考えた場合、妄想されるのは、男根により女性が満たされるというイメージであろう。主人公が女性であることは、当時の性に対する意識をなにか反映しているように考えられる。
実際、この物語の担い手を男と考えるか? 女と考えるか? 男性とすれば、この主人公の女性は、なんらかの理想化を経ていると考えなければならないだろう。
まあ、この物語から「当時の人はオナニーでも妊娠すると考えていた」とするのは、飛躍に過ぎるだろう。
同様の内容の物語は『山城国風土記逸文』(『釈日本紀』)の「賀茂社」の縁起として語られる。
『古事記』には大物主神(おおものぬしのかみ)が丹塗矢(にぬりや)に化けて女性の陰部を突き刺し、女は、その矢を持ち帰り床の辺に置いたところ、たちまちに、麗しき男性となり子をもうけたとある。(角川文庫p83)
オナニー史を考えるには複雑な内容だろう。このような物語に整合性を考えるのはおかしいのかもしれないが、女は陰部を突き刺した矢を見初め、床に持ち帰ったとはいえないだろうか?
しかし、1人でおこなうことも、2人でおこなうこともさほど区別がなかったとも考えられる。
2009年03月30日
漢字のドリ
白川静の『常用字解』を片手に、、、
なんとなく、ドリーミング・プロトコルが使えるという話。
「止」と「之」は、甲骨では同形。足跡の意味。
それぞれ「とまる」と「ゆく」で相反。
「武」は「戈」と「止」の組合せ。「戈」を持って「ゆく」、「戈」を「とめる」の両義がある。
「光」は「火」を「人(儿じん)」が支えもって様。転じて(展開)火の「ひかり」の意味。
「憂」は喪に服している様子。
ニンベンをつけて「優」とすると、喪に服する所作をまねすること。
喜劇を演ずる「俳」と組合せ「俳優」となる。
喪に服する「しとやかさ」から「やさしい」「まさる」に飛躍する。
2008年12月30日
恨(はん)
しかし、被征服者は、屈辱の怒りや苦しみを、征服者の前に、とことん押しつぶし得たであろうか。怒りは消えきったであろうか。涙は乾ききったであろうか。
もしかしたら、
払底しきれぬ、怒りや涙が、
押しひしがれた屈辱が、
はらわたの底の底にかたくたまって、
それが、
芸能の原動力になっていたまではなかろうか。
俳優の力の源になっていたのではなかろうか。
『私は河原乞食・考』p133
芸能の根源論。なんか『精霊の王』にも通じるように思うのは、最近、『精霊の王』を読んだからか?
怨霊史観的でもある。
2008年11月19日
Re: 団地萌え
稲沢団地(長束)の南部分、滅失した団地に新たな団地が出現。
IIdを踏襲するような外観。形式的には古いのだが、このくらいの雰囲気が一番、キレイ。
2008年06月01日
大好き
この時期の近鉄の蟹江、弥富、桑名の風景がたまらなく好き。
水田なんだけど、なんか、おだやかな海を思わせる。
新仏教への非難
このころ『野守鏡』や『天狗草紙』に見られるような一向宗時宗の徒や禅僧に対する非難が著しく高まる一方、文観の場合に見られるように、禅律僧を積極的に肯定する風潮もまた著しかったのである。
注53『異形の王権』p252
新仏教という言い方は近代になってからつけられた言葉で、当時の感覚はもう少し複雑なように感じる。
例えば能役者などは「阿弥」号を持つ時宗(時衆)であるとか、寺の勧進にかかわる僧は禅律僧が多いだとか、(なんか書いてて意味不明になってきた)
つまり、時宗や真宗、禅宗、律宗、西大寺派などは、なんか、その場の文脈で読まなければならないような気がするというか、、、意味不明。
飛礫の時期分類
これを大まかに概括してみるならば、(1)飛礫が武器としての機能やそれ自体の持つ呪術性・神意性を含めて生活そのものであった原始社会、(2)同じような意味をなお広く持ちつつ、さらにさまざまな機能の分化が見られる一方、それを制約する力が働きはじめている中世前期まで、(3)飛礫のそうした機能が、権力によって、また社会自体によって、さまざまな領域に組織・抑制されるとともに、その神意性・呪術性は表面から消え、社会の深層に意識されることなく生き続ける中世後期以後、という区分になろう。
番号は引用者。『異形の王権』p185
飛礫の時代による利用のされ方の違い。獲物を捕るための飛礫はある意味呪術的性格を持ち合わせ、その呪術性の推移なのだろうか?
現代、飛礫は球技などの大衆的なスポーツに取って代わられ、あらたな転換期をむかえているともいう。
2008年05月25日
飛礫の呪力
多くの石合戦が河原、あるいは境の川を間において行われたことは周知の通りであり、これも飛礫の場が「無縁」的な性格を持っていたことを示しているといってよかろう。(中略)全体として、飛礫そのものの呪術的・神意的な性格は、近世・近代においては中世以前に比して稀薄になっているといわなくてはならない。
『異形の王権』p161
古来、飛礫には呪力があったのではなかろうか? それは境界的な場所で飛礫が行われたことに象徴的である。
しだいに、飛礫は子供の遊び、年中行事の一部へと転換していく。
山伏と天狗、鬼
五来重『鬼むかし昔話の世界』(角川書店、一九八四年)が、詳述しているように、山伏と天狗、鬼とは不可分の関係にあり、非人と鬼についても同様であろう。。。
注31『異形の王権』p143
「山伏」「天狗・鬼」「非人」の相関関係への言及。
この後に描かれる天狗の「おそろしきもの」「おもしろきもの」への言及も興味深い。
「扇の骨の間から見る」
とすれば、扇で顔をかくし、骨の間から見るのも、まさしく一時的な覆面と考えることができる。「公界」の場で、突発的におこった出来事、突如としてその場の状況を一変させるような事件を見なくてはならない状況に遭遇したとき、あるいはすでに予想されるそうした事態に自ら加わるさい、手に持った扇で面をかくし、人ならぬ存在に自分をかえる意味を、こりしぐさは持っていたのではなかろうか。
『異形の王権』p112
現代的に「覆面をする」という事を考えれば、それは匿名性を出すことでは無かろうか?
自宅なり、まわりの人間に知られない所で覆面をしなければ匿名性は発生しない。
つまり、「扇の骨の間から見る」事が「覆面」の変わりとなるのであれば、覆面そのものも匿名性以外の意味を持つのかも知れない。
現場で起きることの呪力から自分を守るような、あるいは、その逆なのか、、、
門前町の発生
聖。上人の場合、「高声」が認められていたのであるが、これと同様に、イエと外界を境する場である門前は、河原や中洲に立つ市庭などと同様に、聖なる場として「高声」が許されたのではなかろうか。それ故にそこでは尋問・対決が行われ、高声の訴えがなされ、さらに鼓を打つ芸能民や商人、乞食・非人が蝟集したのであろう。門前町が生まれるのは、こうした背景があったからに相違ない。
『異形の王権』p83
境界的な人・場は〈聖なるもの〉と認識され「高声」のようなことが許された。
そこから門前町の発生がなされるという。
2008年05月18日
神聖な童子
このように「子供が自由であったのは単に幼くて、その行為に責任がなかったというだけでなく、子供たちに一種の神聖なものがあると考えられていたためであると思われる」(1−一五〇)ともいい、「神聖な童子」(4−六五〇)にも言及しているのである。
網野善彦『異形の王権』平凡社ライブラリー p53
この年になって『異形の王権』を初読というのは、なんとも恥ずかしい。
子供の神聖さについての言及。
2008年05月09日
西行の大神宮参詣
榊葉 に心をかけん木綿 しでて
思えば神も仏なりけり
深く入りて神路の奥を尋ぬれば
又うへもなき峯の松風
これらの歌が神仏習合の思想のもとに詠まれているのはいうまでもないが、西行は本地垂迹 説(仏が神の姿を仮りて衆生 を救う)という宗教上の理念を歌に飜訳 したのではない。神路山の奥深くわけ入って、自然の神秘にふれたことを素直に詠むことによって、その歌の中から神仏は一つのものという信仰を得たといえるであろう。神仏習合とは、いわば彼の内部で行われた一つの劇であり、その発見の悦 びがこのような歌に結実したのである。賀茂では僧侶 の身を遠慮して、末社にしか詣でなかった西行が、はるかに禁忌のきびしい伊勢大神宮では、何憚 かることなく堂々と参詣 しているのは、神主たちの援助があったにしても、自分で納得しなかったらよく為 し得なかったと思う。
白洲『西行』p255
2首の西行の歌と少し長いがその解説。
我説を展開するのは少し後にまわして、まずは引用のみ。
この2首の解釈で、多分、中世が自分の中で生きた時間として動き出す。
神仏習合の概説書では多く引用される歌なのだろうが、ここに来て、やっとその歌が解釈できるようになった。
ヒントじみたことを言ってしまえば「複雑系」という、このキーワードにつきるのかも。
義経・西行と伊勢・陸奥
義経が伊勢大神宮に詣 でたことは、『吾妻鏡 』文治二年三月十五日の条に明記されており、(中略)その年、というのは文治二年のことだが、西行は東大寺再建の勧進のため、陸奥の国へおもむき、その途中、鎌倉によって頼朝にまみえている。それは五ヵ月ほど後の八月十五日のことで、西行と義経と伊勢の三郎が、同じ時に伊勢の国におり、同じ頃奥州へ旅立ったということは、偶然の一致とは思えないのである。
白洲『西行』p251
西行の大神宮参詣は、直接、東大寺大仏の勧進にかかわる行為と考えてもよい。
義経のそれは、どう解されるのであろう?
西行と崇徳院
それはとにかく、西行が縁者の赦免のために、直接崇徳院と交渉できるほど信頼されていたことは、心にとめておいていいことだ。p211
我拝師山の庵室と、讃岐の院の旧蹟 と、白峯の御陵が、やや東北に向かって一直線に並んでいるのは、深い考えがあってのことに違いない。西行はこの庵室から日夜朝暮に白峯を遙拝 し、院の怨霊 を慰めようとしたのではあるまいか。そんなことはひと言もいってはいないが、自然の風景は何よりも雄弁に西行の心の内を明かしてくれるようであった。p239
白洲『西行』
西行をとりまく時代。この時代を語るのに崇徳院のことを語らずにはすまないだろう。
とくに、西行は北面の武士として活躍し、年の近かった崇徳院とは格別の関係があったという。
2008年04月26日
奥州
西行は能因の跡を慕って奥州へ旅行し、芭蕉は西行の風雅を追って『奥の細道』を書いた。(p114)
西行は二度奥州へ旅をした。最初は二十六歳から三十歳ごろまでで、学者によってさまざまの説があるが、二度目の方ははっきりしており、文治二年(一一八六)、六十九歳の時であった。(p147)
奈良の僧、とがの事によりて、あまた陸奥国へつかはされたりしに、中尊と申所にまかりあひて、都の物語すれば、涙流す、(西行の詞書きp155)
が、二度目に来た時は、東大寺再建のための勧進という重大な役目を帯びていたから、藤原氏の勢力を、しかと見定める必要があった。(p157)
白洲『西行』
西行は平家によって焼かれた東大寺大仏の勧進のため奥州へ行っている。
奥州は、また、渥美窯製品の一大消費地でもある。あるは、西行は渥美窯製品とともに海路、伊良湖経由で奥州へ向かったのかもしれない。
と、思うと、西行を調べずにはいられなかった。
3つ目の西行の詞書き『西行』では、1度目の奥州行きの時、罪人である南都の僧と面会したと考えているが、大仏炎上が「とがの事」で、勧進のために多くの南都の僧も奥州にやってきた所だったと理解できなくもない。(考えすぎか?)
ちゃんと言葉書きの前後も読む必要があるな。
能因の数奇
だが、みちのくに歌枕を尋ねたのは、西行だけではなかった。尋ねただけではなく、あらたに作りだした人もいる。それは一時代前の能因 (九九八〜一〇五〇以後)で、みずから見聞きした名所旧跡を丹念に集めた『能因歌枕』の著作もある。彼の数奇者ぶりは、例の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の歌によって知られている。能因はこの歌がいたく気に入ったので、ただ発表したのではつまらないと思い、長い間家にかくれていて、真黒に日焼けしたのち、奥州へ行脚 して詠んだと披露 したのである。だが、専門家の研究によると、この逸話の方が虚構で、能因は実際に奥州へ旅行したというのだから面白い。伝説は嘘 かも知れないが、能因の「数奇」を伝えている点では真実なのであり、時には作り話の方が、人間の本質を語る場合は多いのである。
白洲『西行』p148
長いが能因の数奇ぶりの逸話の引用。
2008年04月24日
団地萌え
団地萌え。
団地の文化財的な調査はどのくらい進んでいるのだろう?
『工場萌え』のようなカタチで、近代化遺産に対する美術的価値の認識の発見? のようなことがおこるとすると、団地はどうだろう?
写真は稲沢団地(長束)。
多くの建物が群集しているが、現状では南側を滅失している。
(記録保存は行われたのだろうか?)
稲葉宿分類のII期d類にあたる。
階数が少ない所が古様を呈するのか?
2008年04月10日
諾冉の構造
原田氏は、ナギ・ナミ両神が中国の天地創造神である伏羲 ・女媧 と同じ神話的観念から生まれた神であるとし、ナギ・ナミを雷雲の象徴と考えた(『雷雲の神話』)。
『第六天魔王信長』p272
原田大六氏は中国の神話とイザナギ・イザナミの構造の関係を指摘しているという。
2008年04月07日
天魔・信長
非常に興味深いことに、信長によって徹底弾圧を受けた比叡山は、信長を「天魔」と呼んでいた(桑田忠親『織田信長』)。とすれば、信長が第六天魔王と称したか否かはさておき、少なくとも当時の比叡山には、「信長は、まさしく仏教「比叡山は、……呼んでいた」原文傍点障碍 の第六天魔」とする見方が存在していたわけで、このことは、信長と魔王とのかかわりを考える場合、見逃せない重要性をもってくる。
『第六天魔王信長』p240
信長生存当時、比叡山は信長を「天魔」と呼んでいたという記事。
信長が「第六天魔王」と自称したとする記事はフロイスの書簡による記録しかないとする(p26)。この場合、武田信玄の「天台座主」という自称に対応するという。
超越者、信長
フロイスによれば、信長は「自らが単に地上の死すべき人間としてではなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。
『第六天魔王信長』p233
摠見寺の創建、そして、摠見寺に掲げられた看板に関する言及の一部であるという。
2008年04月06日
鬼神
先に見た弁財天、白山神、そして牛頭天王信長は、なぜこのようなおどろおどろしい神ばかりを重視したのか。p88
しかも、これまで信長と関わりがあるだろうと私が推定してきた弁財天・白山権現・牛頭天王・天満自在天・愛宕、そして荼枳尼には、互いにきわめてよく通じ合う鬼神としての属性が備わっており、こうしたことは、一般に、それを奉じる人の内部に、それらの神々が深く食い込み、その人なりのヒエラルキーに沿って内部整理がなされていなければ、起こりえないことなのである。p160
『第六天魔王信長』
弁財天は滋賀・竹生島のこと。日本の神々には御霊・怨霊的な性格がつきまとうものが多い。
しかし、津島の牛頭天王、白山の白山権現を持つ東海という地域も、その地域自体に鬼神とのゆかりがあるのかもしれない。
2008年03月25日
信長とヴァルナ
信長に官位を授けることによって、彼を天皇ヒエラルキーの枠内に取り込み、政治的王権と、観念としての宗教的・霊的王権の二極支配構造を維持するという、伝統的な手法がそれである。
藤巻一保氏『第六天魔王信長 織田信長と異形の守護神』学研M文庫 p30
ミトラ・ヴァルナという中世的政治体制。
信長自身、天皇の呪術王的性格に注目し自らも呪術王になろうとしたのではないだろうかという。
2008年02月25日
伊良湖東大寺瓦窯
東大寺焼失
大勧進重源
伊良湖東大寺瓦窯
五輪塔
渥美窯の特徴
渥美窯の三つ巴
重源の大神宮参詣
伊賀別所
2007年12月02日
逆算
乙巳の変(645年)に15才として、
壬申の乱(672年)に42才。
当時の年齢観では、決して若くない年齢。
十代半ばの天武天皇の皇子達の活躍、天武天皇の行動からすれば、
42才なら、最前線には向かわないはず。
大宝年間(700年前後)で考えると、70才前後となる。
その子供が、20才(650年)の時の子供として、
壬申の乱(672年)では22才。
脂ののりきった年なのだろうか?
大宝年間(700年前後)で50才前後。
その孫は、壬申の乱で2才、大宝年間で20才。
この辺は誤差がだいぶ大きいように思われもするが、、、
2007年11月29日
オパピ練習帳
来た! なんか降りてきたぞ!
久しぶりに、この手の手応えのあるのが降りてきたの。
でも、そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ
だよ。
2007年11月27日
きっず
尾張法華寺論 〜範囲確認にむけて〜
尾張国々分寺の中世的展開
市域出土土器綜編年I 〜弥生時代〜
(それぞれ5ヶ年計画)
2007年11月22日
唱門師
室町時代では、陰陽師は陰陽寮に属する官人だけではなく、唱門師といわれるような下級の陰陽師も存在した。彼等は庶民のために占いや病気平癒の修法を行ったといわれている。
『『渓嵐拾葉集』の世界』p217
唱門師に関する言及。
或人物語云
『渓嵐拾葉集』にはしばしば「物語」る人が不明の場合がある。不明とは「或人物語云」などと記される場合を指すが、こうして「物語」った人の素性をぼかすのは実際に語った人がわからないというのではなく、浮遊する伝承を談義の「場」に取り込むための一方法に過ぎない。
『『渓嵐拾葉集』の世界』p150
「或人物語云」という位相。
巷説のような「浮遊する伝承」をアカデミックな「場」へ引き入れる手法。
2007年11月03日
畿内から関東へ
畿内から関東へのルートには、有名な柏原談義所がある。また、内閣文庫本A「多聞天口決」巻の奥書には、「濃州不破郡菩提寺」の名が見え、近江国から美濃国を通過して関東へ向かう道筋があったことをうかがわせる。
『『渓嵐拾葉集』の世界』p86
畿内から関東へ、東山道ルートなのだろうか?
人や物だけでなく、聖教の転写関係、情報の流通の有様がかいま見える一文。
2007年10月28日
『渓嵐拾葉集』
『渓嵐拾葉集』は大正新修大蔵経(以下、「大正蔵本」と略称)第七十六巻に真如蔵本が、最近では『神道大系』の天台神道編に山王関係と戒家部の巻が部分的に翻刻されている
田中貴子氏『『渓嵐拾葉集』の世界』名古屋大学出版会 p1
大正蔵本は、大きく2つに別れるものを一つにあわせたものらしい。
2007年10月18日
易産の護符
また「人平生丸力」と書いた文字を一字ずつ切り産婦が呑むと安産がかなうとされた。それは「伊」を「人」と「平」に、「勢」の俗字「㔟」を「生」「丸」「力」に分解し、「人平ニ生ルハ丸カ力ナリ」という意を孕んだ呪符としたものである。「伊」は男、「勢」は女の意で、それゆえ「伊勢」の二字を呑んでも可とされた。このほか、右の五字を「五体の表」とみる「伊㔟二字大事」(大須文庫蔵)が切紙伝授されてもいる。
『変成譜』p333
「伊勢」の二字が安産に効くとされる事例。興味深いので備忘録。
2007年10月14日
天照大神の本地仏
一方、天照大神には、大日如来を本地仏とする説と観音を変化身とする説が中世までに成立していた。
『変成譜』p315
『鼻帰書』には、内宮を愛染明王、外宮を不動明王とする説がみえる。それには「一仏二明王」(大日如来と不動・愛染)の習いも関係していようが、次のような「日ノ愛染・月ノ不動」説も見逃せない。
『変成譜』p373 注20
天照大神や伊勢神宮に対する神仏習合による本地仏の比定。
さまざまな教義や解釈によってさまざまな説があったのかもしれない。
2007年09月30日
盆踊り
実は盆踊りの踊り手はその祖先の霊だ。踊り手の笠や手ぬぐいは異界の者であることを示す衣装である。
坪内稔典氏「踊り」『季語集』p188
以前、「誰かとどこかで」で聞いたような気がする話。
暗がり、笠や手ぬぐいで顔はかくされる。
スピリチュアルなシンクロとともにDNA的なシンクロもあるように思われる。
権者と実者
中世には多彩な神観念が生まれ、成熟していったが、その中に「権者 」「実者 」という類別があった。権者の神が仏菩薩の垂迹であるのに対し、実者の神は本地物を持たず、垂迹形 のみで、しかもその姿はしばしば龍蛇形で示された(本書III−2−[2])。権者にくらべて明らかに低劣な位置にある実者なのだが、中世ではむしろ、実者の神こそが神祇信仰のダイナミズムを担い、先導していった感がある。なぜなら、衆生を済度するために穢悪 の塵にまじわるという〝和光同塵〟なる神の使命は、衆生の劣機を表象する実者においてこそもっともよくそのリアリティが発揮されるはずだから。蛇形。それは三毒(貪 瞋 癡 )の体現である愚癡なる衆生の似姿なのだ。
『変成譜』p123
中世の神観念、「権者と実者」についての説明。少し長いが引用。
2007年09月24日
弥生式ドリ、再び
えっと、、、弥生式ドリーミングとは、平たく言うと五段活用の神話。
日本語の基底のところで五段活用のように、50音表の縦列で意味のつながりあいを持っている。
例えば、マ(真)ミ(実)ミ(身)は相似みたいに、、、
(詳しくは『地域思想史のレビュー』p13参照)
このマ(真)ミ(実)ミ(身)は相似であるとともに相反。
「なにか核になる部分」という意味では、それぞれに共通して言えることなのだろう。これが相似ということ。
では、逆に「意味としての核」「樹木の核(タネ)」「身体の核」のように細分していけば、おのおの意味が微妙に異なる。
つまり、何らかの対立軸が想定できて
相似と相反はある意味同義(相似)であるという説明でした。
2007年09月23日
教化
曽川の林蔵院守屋家に伝わる「神送生霊死霊祭文」(仮題)がそれである。病人祈禱の「悪霊加持」に用いられたと思われる本祭文には、長大な悪霊「教化 」の文言が記されている。
『変成譜』p124
悪霊を説得して病気を治そうという興味深い事例。
若子の注連
「若子の注連」という、大神楽の由来を語る祭文がそれである。
『変成譜』p116
以下に、「若子の注連」の荒筋が示されいる。
世界観が好き。
2007年09月16日
真床乎衾
大嘗祭のときにも、まずおふろで着替えを行う。それから天子さまは、真床乎衾 というふとんに入られる。そこへ、前の天皇のからだを離れた天皇霊が、ふとんで覆われた密封空間に入ってくる。この空間は子宮をあらわしていて、胎児の状態の天子さまに天皇霊が籠もるのだそうです。
中沢新一氏 『三位一体モデル TRINITY』 東京糸井重里事務所 p57
2007年09月04日
偽書の生成
転写の誤りでもあるのかなと「弘法」の2字を「空海」と改めてしまった。そのままにしておけば偽書顕然であるのに無用に私が「空海」と改めてしまったと後悔しています。
度会延佳『神家考異』『中世王権と即位灌頂』p366
往昔、『中臣祓訓解』を書写したときの話らしい。
(弘法)大師は承和のはじめにかくれ給へり、小町がさかりなる事、その後の事にや、なほ覚束なし
吉田兼好「第百七十三段」『徒然草』『中世王権と即位灌頂』p368
松本郁代氏は、ここに「偽書」に対する兼好の思考停止を見いだしている。
中世的な不測(はかりがたい)のことの端的な例。
「信仰」の問題?
空海の生涯は、宝亀五年(七七四)から承和二年(八三五)であり、その後の「空海」の名を借りた事跡のほとんどは、弘法大師信仰のなかで語られている。しかし、この、宗教の内にあったカテゴリーとしての信仰は、偽書や疑文書、仮託といったテクニカル・タームを得ることによって意味分節化され、実体と信仰を離れた仮託者「空海」としての性質を得たといえる。
『中世王権と即位灌頂』p364
結論から言ってしまえば「弘法大師信仰」というものがいかなるモノか? 逆にこのような問なのではないだろうか?
まず、「信仰」という言葉がひっかかる。例えば法然の描いた阿弥陀仏に対する思いと、九条兼実の描いたそれとが全く同じであると言えるのだろうか?
全く同じと言えない中で「信仰」というタームを振り回すのは乱暴にすぎると思うのは僕だけなのだろうか?
2007年08月24日
尾張法華寺推定
尾張法華寺(尾張国国分尼寺)を推定してみる。
法花寺・馬場地区である。可能性としては松下地区の周辺や東畑廃寺なども候補としてあげられよう。
しかし、伝承や法華寺伝来の薬師如来像などによって、この地区の可能性も捨てきれない。
以下、この地区について、、、
まず、遺跡地図に旧地形の高まりの端を茶色で落とす。ほぼ、4-50の遺跡の範囲と重なる。
この茶色の線から三宅川までが尾張法華寺の境内地。
つぎに、主要な道筋を推定する。「参道」と「国分寺道」とする道筋が考えられる。
「国分寺道」は法花寺・馬場地区と矢合をつなぐ道筋。「参道」は、ほぼ南からこの地区へはいる道筋。
「参道」を一つの基準に考えると境界から法圓寺までの間に主要伽藍が入りそう。
境界は水路によって日常の空間と〈聖なる空間〉を別ける境界。この部分だけ田が東西に広がる。
2007年08月16日
近江からのミーム
滋賀県の速報展、レトロを見ながら、、、
S字ガメ0類の薄作りが、ある意味マイナーなミームだとしたら、メジャーなミームは近江のそれだ。
S字ガメ0類には、大威張りで「東海(伊勢湾岸)のカメ」と言いづらいミームがあると思うのは僕だけなのだろうか?
近江から尾張へ。
経由地としては、伊勢(アガタ)や西三河(フル)
尾張からは周辺を意識しながらミームが尾張を目指す。
2007年07月30日
覚済の弟子
我宝、叡心、意教は、ともに金剛王院流の覚済の付法弟子である。
『中世王権と即位灌頂』p129
なんとなく、「覚済」は聞き覚えがあったので附箋。
2007年07月08日
アジール
かつて平泉澄博士は中世では寺社がアジール(避難所)の役割をはたしていたことを興味深く指摘されたことがあります(『中世に於ける社寺と社会との関係』一九二六年)。……近年、網野喜彦氏は〝無縁〟〝公界〟というように「非農業民」的な社会のあり方の一形態として説明されました。
『王法と仏法』p211
以前どこかで読んだことのあるような一文。こんな所に典拠があった? とは、、、
庶民と安穏
ことに庶民の立場になってみれば、いつの時代でも庶民が戦乱を賛美することなど、あるはずがないのです。
『王法と仏法』p205
当たり前に聞こえるが、「武士の時代」とされる中世においてもこのことは当たり前であった。
芸能としての武
十三世紀に良季という人が著わした『普通唱導集』には、「世間出世芸能二種(「芸能」傍点)」のうち世間部の「芸能」に、文士・随身・歌人・医師・巫女・番匠・遊女・田楽・商人等々と並べて「武士」が記されており、
『王法と仏法』p195
「武者」「武士」のような言葉は当時は芸能として意識されていたという引用。
悪党の風貌
そのころの悪党というのはまことに異類異形 、とても人間ともおもわれぬ姿でした。柿帷 (柿色の単衣 )に六方笠 (女の日傘)をつけ、烏帽子 や袴 をつけず、人に顔をみせないようにこそこそ忍び歩き、矢の数も不揃いな竹矢籠 (竹の筒に矢を入れて背に負う道具)を負い、柄 も鞘 も剝げた大刀をつけ、竹長柄 (竹の長い柄をつけた武具)や撮棒 (堅い木の先の尖った棒)の杖をもつだけで、鎧 や腹巻 などのようなまともな兵具はとてももちあわせていないという奇妙な姿でした。
『峰相記』『王法と仏法』p164
2007年06月26日
中世一般
私の考えでは、中世は貴族・武士・寺社の各勢力が葛藤しそれぞれの特色を競い合い、次第に武家の勢力が支配的になりながらも最後まで多彩なままに推移した時代である。
『王法と仏法』p110
アンチ国家神道史観
「日本宗教史上の「神道」」『王法と仏法』p65〜
アンチ国家神道史観とでも呼ぼうか? 国家神道が再びおこなわれないための史観。
そのように感じるのは、客観性に欠けるだろうか?
仏法に対応するカタチで日本の神々の体系としての「神道」はどの時代を通じても存在していたのではないだろうか?
しかし、両部神道、伊勢神道、山王神道、吉田神道のようにさまざまな体系化をなした「神道」が存在する。
このような、さまざまな「神道」体系を、テキストに即して位置づけをおこなうことが大切なのではないだろうか?
逆に「神道」という言葉を「神祇信仰」と言い換えただけでは、国家神道を防ぎ得ない。
神仏分離令 = 廃仏毀釈運動、神社合祀令 = 神社合祀運動のような官民一体となった衝動的なエネルギーを如何に防ぐべきか? あるいは、ここ数年考え続けているテーマなのかもしれない。
2007年06月22日
『愚管抄』
要するに慈円の道理とは、政治的次元からいえば、九条家の政治路線−−客観的にみて最も弾力性をもち賢明(狡猾)であったようにみえる柔軟な路線−−の理論化にほかならなかった。『王法と仏法』p52
『愚管抄』を思想書として読むとき、その思想は九条家の現実的な政治路線と重なる。
王法と仏法。公家と武家。そんなタームでくくってゆくと、、、
2007年06月17日
世相と史学
戦後三十年にして、いまこそそうした〝近代の神話〟が克服され、中世史像が神話的偏向から解放さるべき時期が到来しているのである。
黒田俊雄氏「顕密体制論の立場」『増補新版 王法と仏法 中世史の構図』 法藏館 p21
世相というか時代の雰囲気に引っ張られることなく史学をおこなうことが出来るのだろうか?
国家神道的な史観に対するアンチテーゼとしての意味合いの強い感じのする『王法と仏法』。
今では常識的なことが、その多くを占めている感じが否めない。
さて、その史観というイメーヂは世相に引っ張られてはいないのだろうか?
客観的な史学とは一体、、、
2007年06月01日
出現
「さあ、行きましょう」という声がする。ビックリして首をあげると、××、××両君が補陀落山寺の中へスタスタ入ってゆく。どうやら私は、ここにこうして腰をおろしたまま、よほど長い間考えこんでいたらしい。とりとめのない思案を切り捨てるように、破れた築地をくぐって、観音堂へ上ってゆく。……ふりかえると、海はたしかに目の高さに拡がっている。……庫裡へあがって寺に伝わる物など見せてもらっていると、うす暗い部屋の、いろいろな仏たちのたちならんでいるなかに、、、
「馬頭観音」p69
写真を見るかぎり、典型的な馬頭観音ではない。おだやかな顔、唐風?の衣装。あるいは観音菩薩の眷属、二十八部衆などに由来するモノではないだろうか?
論は広く、半人半獣の神々へと広がってゆく。「馬頭観音」も半人半獣の神の日本的展開というような意味なのだろう。
乾闥婆 = カンダルヴァ(Gandharva)への言及もある。
2007年05月26日
熊野
たとえば、『保元物語』という本を読んでみる。……久寿2年(1155年)、熊野に参詣した鳥羽法皇は、「明年の秋のころかならず崩御なるべし。そののち世間手のうらを返すごとくなるべし」という、熊野本宮の託宣をこうむった。果たして、翌、保元元年の夏、法皇不豫となり、7月2日に逝くなった。そして法皇の長子崇徳院(当時、新院という)と次男後白河帝とのあいだに、法皇崩御ののち「わづかに7箇日の」うちに、「保元の乱」が勃発し、わが国における古代から中世への一大転換、未曾有の「内乱」時代の幕が切って落とされることになった。……「保元の乱」という歴史的事件に、理由はとにかくとして、熊野が事件そのものに、その内的構造として必然的に入りこんでいたということもないとはいえないのではないか。……私の頭のなかを、熊野が熊野としてあばれはじめるのである。
丸山静氏「馬頭観音」『熊野考』p8
2007年05月10日
信太妻
日本の民話・伝承の中に、狐女房、信太妻など、話の筋に多少の相違はありながら、もの悲しい子別れをそのテーマとするものが、息長く伝えられている理由は、狐の生態の中でもことに特徴的なこの子別れの儀式が、つよく人々の心に訴え、感動をよびおこしたものであったからに相違ない。
吉野裕子氏『ものと人間の文化史39 狐 陰陽五行と稲荷信仰』 法政大学出版局 p12
有名な安倍晴明の出生の秘密をとく「信太妻」も狐の生態である「子別れの儀式」に由来を求められるのではないかとする。「狐女房」の細述はp15〜
2007年04月17日
近世の王権
近世型権力の流動体支配は、なめらかな空間の住人を商人にかえ、その空間の「幸」を商品に変え、多様な運動を貨幣の一元的な動きにつくり変えていくムーブメントがととのったとき、はじめて作動しはじめる。これによって、「天下人」という「王」たちは。はじめて天皇をのりこえることが可能になった。古い中世的な天皇の権威をアジールの流動体もろともに解体し、それをじぶんのなかに再編成してしまうのだ。織田信長が、アジールの特権を解体するために、有名な「楽市令」を発令したとき、彼はこれから形成されようとしている新しい「王権」の原理を、はっきり読みとっていたような気がする。
『悪党的思考』p164
中世的な非農民「なめらかな空間の住人」をより近世的なモノへ変質させてゆく。ここに中世的なものの終焉をみる。
ただ、戦国時代をどう解そう。後醍醐以来の中心性のなさ。
2007年04月15日
中世の引用
たとえば『伊勢物語』とか『源氏物語』とかに基づいていることがはやくから知られている曲についても、近年は、それが当時どのように理解されていて、謡曲にどのように反映しているかを、古注釈書ほか広く中世資料を見わたして考えるようになってきている。しかも謡曲に反映している素材世界は、これら古典に限られるわけではなく、文芸・非文芸が一体となっている中世文化のあらゆる領域に広がっていて、一曲の構想に関わる本説から、一句の修辞・文飾に到るまでに及んでいる。このことは必ずしも謡曲に限ったことではなく、いわば中世文学史の基盤とでも言ってもよいのだが、、、
伊藤正義氏「解説 謡曲の展望のために」『謡曲集(上)』 新潮日本古典集成 p364
一つの本説が註釈や本歌取りのようなカタチで享受・再生産されてゆく。
その多様な引用が、さらに大きな知的体系を作り上げてゆく。
その中に広がってゆく曖昧さ、不正確さ、、、
2007年03月31日
即位の結印
後三条院の治暦4年(1068)7月21日の即位の時、成尊法印〈仁海僧正の弟子〉が主上に授け申し上げた。すなわち、高御座についた時、結印をさせたまう由を匡房卿が見、これを記した。『即位灌頂印明由来事』『外法と愛法の中世』p267
なんとなく匡房とあったから抜き書き。
開祖という集合名詞
実際に活躍したのは成尊、範俊、義範といった弟子たちであるが、いずれも仁海という山脈の前には微細な存在感しかない。小野流といえば直ちに仁海が想起されるような時代にあっては、弟子たちの人格は仁海一人に統合されていく現象が起こるわけである。(中略)これまでの論述をまとめるならば、『渓嵐拾葉集』説話に登場する仁海は、必ずしも仁海その人を指すのではなく、院政期に活躍した小野流僧の総体を表す一種の集合名詞であった、『外法と愛法の中世』p265 ある集団の活躍が、その集団の祖となる人に集約されていく。このように一般化してしまうのは危険なのかもしれないが、多かれ少なかれ、あるような気が、、、
偽書の生成の1ファクターだよね。たぶん、、、
2007年03月28日
東寺即位法
阿部泰郎氏「『入鹿』の成立」『芸能史研究 69号』1980.4
松本郁代氏『中世王権と即位灌頂』森話社 2005
2007年03月27日
夢の続き
夢にはおおよそ3種類考えられる。
(1) 海馬の反芻(実体験の記憶の夢)
(2) 心理・深層心理の夢
(3) スピリチュアルな夢(認知の領域として)
あるいは、もっと細分、別項がたてられるのかもしれない。ただ、今必要がない。
宝珠説話
阿部泰郎氏「『大織冠』の成立」『幸若舞曲研究 第4巻』 三弥井書店 1986
2007年03月20日
境界譚
深沢徹氏「羅城門の鬼、朱雀門の鬼」『プール学院短期大学紀要 二三号』1984
小松和彦氏・内藤正敏氏『鬼がつくった国・日本』光文社1985
『外法と愛法の中世』p155
「宇治の宝蔵」のp149、p151あたりにも言及あり。
2007年03月14日
玉女の夢
夢が現実外の自己実現とすれば、各々思想の異なる三者が夢中に見聞した女性像の類似は、鎌倉時代の仏教者の女性理解が具現化されたものであると見ることができる。夢は個別性を持つと同時に、当時のいわば集合意識の片鱗を垣間見せてくれるものでもあるからである。
『外法と愛法の中世』p87
少し意見が異なる。人間が生殖を行う生物である以上、男性なら多かれ少なかれ、そのような夢を見るのではないだろうか?
2007年02月28日
一字注
註釈とは、個別の語彙をめぐる語釈にほかならない。一字にひそむ世界なり宇宙を開示するところにこの種の註釈の特性があるといってもよい。(略)これを一字注と呼ぶ。中世の注釈書に共通してみられる特性である。『〈未来記〉を読む』p122
『教行信証』をパラパラとめくると、
「□△とは、□とは☆☆。△とは○○」
のように現在では別けることのはばかられる熟語まで一字注的に解説を付していくことに気付く。
中世に広く行われていたこととは。(不勉強、不勉強)
2007年02月26日
境界譚
吉備真備は楼閣に幽閉され、、、命を落として鬼となっていた阿倍仲麻呂がそのつど援助する。『〈未来記〉を読む』p92
楼閣という境界。吉備真備という人。そして、阿倍仲麻呂という鬼。
人と鬼が対等にわたりあえる場所としての境界(楼閣)なのでは?