日本史の中のホモ
しかし、ホモによる俳優とパトロンの結びつきは、今にはじまったことではない。わが日本芸能史サン然として輝く、世阿弥元清−藤若と、これを寵愛したパトロン、将軍足利義満の名をあげれば、なにもいまさらトヤカクいうに当たらない。p334
「古川柳には“親鸞はおもて空海はうら”(略)などあって、男色のはじまりは弘法大師であるようにいうが、それは俗説にしかすぎない。」(略)かくて「平安時代の山岳仏教の寺院」にこの風がp347蔓延 したことは、数多く当時の文献に見え、
『私は河原乞食・考』
日本史の中ではホモセクシャルは、比較的寛容に存在する。それは性において抱くのは男で抱かれる対象は自由であったというような言及を橋本治氏の著作で読んだような気がする。書名忘れた、、、
客人
もともと、この国には、漂白芸人に対して、コジキ同然と蔑視する一方、他郷より渡り来る神の使いと畏敬する風習があるのだとよくいわれる。
『私は河原乞食・考』p223
〈賤〉が、そのまま〈聖〉であるという言及。
獣育譚
地位も名誉も財産もある、立派なお家におきまして、ひとり娘として生まれたおねェさんが、なぜに、こういう動物たちと生活しておったか。赤ちゃんの時に、ヒョッとしたお母さんの不注意から、どこからともなく現われた一匹のけだものにさらわれてしまったのであります。
「見世物口上・採録」『私は河原乞食・考』p196
なんとかという高僧(東大寺の良弁だったか?)が鷹にさらわれ育てられたという伝承がある。そのような縁起の絵解きのような現場から、このような見世物が枝分かれするような、そんな、るつぼのような空間。宗教空間の門前で行われた芸能のような、そんなことを思った。
2008年06月01日
後醍醐の異形
もう一つ、天皇史上、例を見ない異様さは、現職の天皇でありながら、自ら法服を着けて、真言密教の祈禱を行った点にある。
『異形の王権』p219
ここから数ページが、ぞくぞくする。
平産の祈禱
建武二年(一三三五)正月から二月にかけて行われた中宮の平産を祈る祈禱に当たって、
「東寺不断仁王経転読不動護摩毎日御影供」
「法勝寺円堂不断愛染王供」
「蓮華王院毎日三十三壇観音供」
「清水寺不断観音供」を修した「江真僧正」が文観弘真であることは間違いないところで、
『異形の王権』p211
いよいよ、文観の登場! 文観は文殊の「文」観音の「観」を係字に付けられた名前とされる。「殊音」とも名乗り、これも文殊・観音の一字づつ。
「弘真」の「弘」を音の通じる「江」で表現するこのような類のは、この時代よくあること。
それよりも、お産の修法。
「仁王経」「不動」「愛染王」あとは蓮華王院も清水寺も観音菩薩が本尊で観音の霊地として有名。
チャンカンマン(ちょっと)備忘録。
2008年04月26日
発心門
吉野・金峯山寺の、
門前町から急坂を登りつめたところに、巨大な銅の鳥居がある。「発心 門」とも呼ばれるのは、御嶽精進 の行者たちが、菩提 心に目覚める門を意味するからで、(中略)創建年代は不明だが、聖武天皇が大仏を建立 された時の余りの銅で造ったと伝え、
白洲『西行』p102
発心門というネーミング、「菩提心に目覚める門」という意味合い。備忘録。
2008年04月20日
阿漕浦
あこぎの浦は、伊勢大神宮へささげる神饌 の漁場で、現在の三重県津市阿漕町の海岸一帯を、「阿漕が浦」「阿漕が島」ともいい、殺生 禁断の地になっていた。
白洲正子『西行』新潮文庫 p43
阿漕浦に関する言及として備忘録。
2008年04月06日
髑髏本尊
髑髏本尊は、「壇上に据えて山海の珍味、魚鳥兎鹿の供具 を供えて反魂香 を焼き、種々にまつり行 ずる事」(『受法用心集』)とされていた。
『第六天魔王信長』p160
髑髏本尊の供養に反魂の香を用いるという。
延暦寺
山門(延暦寺)が威勢を誇り、時の権力者をさんざん脅かすことができた理由は、彼らの武力のみにあったのではない。延暦寺の呪術に対する権力者の名状しがたい畏怖感が、山門の横暴を許す原因のひとつだったのである。
『第六天魔王信長』p93
延暦寺(仏法)の横暴に呪術的な側面の畏怖があったのではないかとする言及。
2007年11月22日
木崎、一円(人名)
木崎の一円長老云はく。(巻八十七、七八四頁)
『『渓嵐拾葉集』の世界』p167
一円は無住のこと。
つまり、木崎長母寺の無住いわくということでいように思うのだが、、、近世の説に引っ張られているのか?
(あれ? 文脈の取り方がおかしいのカナ?)
一円は臨済禅の聖一弁円の弟子の名であるという。
臨済禅という回路を通して無住と光宗の「具体的な交流」があったということか。。。
2007年11月03日
談義所
談義所とは関東だけでなく肥後国などにも作られた、僧を対象とする教育機関である。もっとも古い談義所の例は、建治二年(一二七六)の信濃国津金寺談所であるという。ただし、談義所は必ずしも天台宗に限るものではなく、真宗でもこの名を用いる寺院はあった。また、関東のすべの天台寺院が談義所というわけではなく、中世の関東寺院は僧正寺、談義所、一般の寺院の三つに大別できるという。僧正寺とは、住持が僧正に任命される慣例があるのでそう称され、談義所よりは格が高いとされるが、僧正寺でも初心者の教育はさかんに行われており、機能上談義所とほとんど区別されない寺も多い。
『『渓嵐拾葉集』の世界』p87 注番号略
「談義所」とは、寺院の格式の高さの一つのランクであるとするというような一文。
「近世編纂本」と「転写本」
『『渓嵐拾葉集』の世界』p60・p73
『渓嵐拾葉集』の「近世編纂本」と「転写本」の概念図。
西教寺正教蔵
伊藤正義氏「文献調査とその資料性 西教寺・正教蔵をめぐって」『国文学研究 資料と情報』国文学研究資料館講演集14 1992年
『渓嵐拾葉集』の種別
真如蔵本A・Bを初めとする大部な伝本のすべてが、近世になってから成立したということである。その理由として考えられるのは、近世になってから、各地の寺院に蔵されていた『渓嵐拾葉集』の転写本を収集し、「原型」を復元とようとした運動があったのではないか、ということである。本書ではそれらの大部な本を「近世編纂本」とかりに呼ぶことにする。『『渓嵐拾葉集』の世界』p52
ここでは便宜上「転写本」と呼んでいるが、それはあくまで現代における形態でであって、成立状況は通常にいう転写本とは異なる。中世に『渓嵐拾葉集』が全巻揃った形態で流布した形跡はないので、全巻から次々と欠落していった残りという意味ではなく、個々が完結した一つの本として流布したものの謂である。『『渓嵐拾葉集』の世界』p53
『渓嵐拾葉集』には、おおまかに「近世編纂本」と「転写本」があるという。
2007年10月28日
口伝主義
中古天台のもう一つの特徴が口伝主義である。それまでの文献主義と異なり、師から弟子への口伝えによる相承が重視されるようになるのである。
『『渓嵐拾葉集』の世界』p24
血脈のような考え方にもとづいて、教義は細分化されていく。それを可能にした一つの要因に口伝主義が考えられよう。
また、口伝を再び文献化する作業はとりもなおさず記家の職能でもあった。
「分権化」→「文献化」
血脈
十四世紀半ば、比叡山では教理の解釈の違いによって学問の流派が細分化されており、師匠から弟子への伝授は、秘密を旨とした口伝主義に貫かれていた。その相承の系譜が血脈と呼ばれるもので、法派を正しく受け継いだ者の正統性を示しているのである。
『『渓嵐拾葉集』の世界』p10
中世の知的体系のバリエーションの多さは、この血脈のような考え方を重視しなければ理解できない。
血脈は師弟関係の契約であるとともに、大日如来や釈迦如来といった仏とのつながりも神話的に示すものである。
記家
『渓嵐拾葉集』の序文には、「顕教、密教、戒律、記録」の四つの分野にわたって記録が行われたことが次のように記されている。(中略)そして、記家とは「「記録」に没入することによって仏教の真実に到達できるという信仰」を生み出した人々であったという。
『『渓嵐拾葉集』の世界』p7
天台の知的体系として「顕教、密教、戒律、記録」という4つの分野があったという。
その中で、記録をあつかう人々は記家とよばれていた。
2007年10月21日
「異類と双身」
山本ひろ子氏
「IV[人獣の交渉]異類と双身――中世王権をめぐる性のメタファー」『変成譜』春秋社
はじめに(灌頂・即位法)
1双身の神智学
[1]慈円の夢想から
[2]双身歓喜天と双身毘沙門天
[3]愛染王/そのポリツティクスとエロス
[4]神祗灌頂の世界
2辰狐のイコノグラフィー
[1]「天照太神の秘法」と
[2]三狐神の像容
[3]「
2007年10月18日
即位灌頂とダキニ
即位灌頂で天皇に授与されるダキニの真言にほかならない。日本の王はなぜ、輪王灌頂のシステムに吒天法を必要としたのだろうか。 この点に関して『渓嵐拾葉集』は経典にみえる三つの逸話をあげている(巻三十九「吒天法」)。第一は、帝釈天が狐を敬い師とした話(未曾有経)。第二は、梵天、帝釈天は畜類を敬い師とした話。第三は狐を敬うと国王に成れる話(涅槃経)。
『変成譜』p339
即位灌頂でダキニ真言が用いられる。その理由が三点あるとされる。
天照太神と辰狐
天照太神が天下りになって後、天の岩戸へお籠もりになったと云うのは、辰狐のカタチでお籠もりになったのである。
(『渓嵐拾葉集』巻第六「神明部」)『変成譜』p336
即位法が吒枳尼天法という「狐」をモティーフにする修法であるということ。
「狐」の属性として天照太神と辰狐とのつながりを示す資料。
2007年10月14日
愛染王法
愛染明王を本尊とする修法、愛染王法では愛染明王の左手の一つに三昧耶形を持たせる事があるという。
その中で、興味深い物として、
しかし何といっても極めつきは「人黄 」なる物だろう。「人黄」とは「人之精霊」「命根」で、いわば生命の源なのである。行者は自分の人黄を、明王の手中に隠し持たせると観ずることにより、所願は成就し、惑障は降伏されるという。
『変成譜』p314
と、「人黄」なるものを挙げている。
いかにも外法的と思うのは、僕だけだろうか?
この人黄を持たせた愛染王法は降伏法であり、また、「人黄」が「人皇」と音が通じることから、摂関家が人皇を掌握する修法としても用いられたという。
有名な京都宇治・平等院も愛染明王が平等王なる異名を持つということに由来するという。
聖天秘決
『渓嵐拾葉集』には、象はたとえ肝を焼かれようも、命ぜられるままにどんな熱い鉄の玉でも呑む。だから聖天は、行者の所願に従って、どんな「非法悪行」をも成就させる、と記されている(巻四十三「聖天秘決」)。
(「どんな・・・成就させる」傍点)
『変成譜』p304
ゾウの頭と人間の身体をもつ聖天。
ゾウの温厚で従順なことを比喩的に「鉄の玉を呑む」と表現している。
そのゾウの従順さから聖天の「どんな「非法悪行」をも成就させる」という外法的な性格が導き出されるという。
慈円の霊夢
山本ひろ子氏「幼主と玉女」『月間百科 三一三号』1989年
田中貴子氏「〈玉女〉の成立と限界」『巫と女神 シリーズ・女性と仏教 四巻』1989年
山本ひろ子氏「霊告をめぐる慈円の精神史的一考察」『寺子屋語学文化研究所論叢 二号』1983年
即位灌頂
すべてが史実とはいえないまでも、かなりの信憑性を伴って摂関家(主として二条家)伝来の即位法(印明 伝授)の存在が浮かび上がる。それは、天皇が大極殿の高御座に着御するに際し、摂籙 の臣が「一印一明」を授ける作法であった。
『変成譜』p293
『即位灌頂印明由来之事』という資料に即位法の縁起(由来)が書かれているという。
即位灌頂
伊藤正義氏「慈童説話考」『国語国文 四九巻一一号』1981年
阿部泰郎氏「慈童説話の形成」『国語国文 六〇〇・六〇一号』1984年
阿部泰郎氏「中世王権と中世日本紀」『日本文学 三六五号』1985年
阿部泰郎氏「「大織冠」の成立」『幸若舞曲研究 四巻』1986年
阿部泰郎氏「『入鹿』の成立」『芸能史研究 六九号』1980年
阿部泰郎氏「宝珠と王権」『日本思想2 岩波講座・東洋思想 一六巻』1989年
阿部泰郎氏「即位法の儀礼と縁起」『創造の世界 七三号』1990年
上川通夫氏「中世の即位儀礼と仏教」『天皇代替り儀式の歴史展展開』1989年
桜井好朗氏「北畠親房と即位灌頂」『日本歴史 五〇〇号』1990年
2007年10月07日
変成男子法
こうして変成男子とは、女人の切実な希求に立脚する限り、それは成就のための行方となって実践されることになる。日本では王朝期以来、変成男子法がしばしば修せられたが、来世で男子に生まれ変わることを目的とする法のほかに、未生の胎児の、胎内における女から男への転換を目的とするものも多くあった。
『変成譜』p260
後段の「未生の胎児」に対する変成男子法は男子優先の社会構造の中では切実なものであったように思われる。
龍女成仏の属性
裏返せば、現身の女人が背負う罪業というモチーフにさほどの感心は払われていないのであって、それはかかる龍女成仏の習いが、女人によって担われたのではないことを示してもいよう。(中略) それは中世叡山における本覚思想の爛熟を物語る。劣機なるものが正覚に達するという覚醒の逆立構造である。
『変成譜』p257
「龍女」のイメーヂから来る、女人成仏のような発想がダイレクトに女人に反映されるのではなく、本覚思想を通して劣機なる者の逆転的な成仏を象徴するものであるとする。
(言いかえただけ)
龍王3題
『源平盛衰記』には、
その大蛇は、宝剣は「日本帝の宝に非ず。龍宮城の重宝也」と宣言し、素盞烏命 に奪われた剣を奪い返すために、出雲国簸川上 の八岐 の大蛇 が安徳天皇と生まれ変わって、源平の乱を起こし、その結果龍宮に返し取ったのだと告げたという。
『変成譜』p234
と、あるという。八岐大蛇(龍)の尾から発見された宝剣が龍宮へ帰ったのだとする〈中世日本紀〉的な話題。
龍宮については、以下のような話もあるようだ。
悪魔・外道が跳梁する世、阿耨達 龍王が聖教類を手にしたまま海中深く潜ってしまったために、仏法はついに「滅尽」したという。
『摩訶摩耶経』『変成譜』p236
龍宮に経典が運ばれることによって、仏法の滅亡が語られる。
龍宮と経典と言うことから、
こうして『保元物語』の一本は、血染めの大乗経は崇徳院の手によって海中に沈められたと伝えるが、事実は、院の遺児・元性法印の元にひそかに蔵されていた。
『変成譜』p237
怨霊として名高い崇徳院の経典が海中(龍宮)に運ばれたとする物語。
上のような、思想的背景が影響を及ぼしているのだろう。
2007年09月16日
町石卒塔婆
『中右記』が滝尻の裏山で「三百町ノ蘇屠婆ヲ見ユ」と町石卒塔婆の存在を書き留めている。
山本ひろ子氏 『変成譜−中世神仏習合の世界』 春秋社 p57
比叡山東塔の講堂から根本中堂に向かう途中に紀貫之の墓所までの町数が記された石も存在した。備忘録。
2007年09月04日
読了感
『中世王権と即位灌頂』の読了感。
やはりこのくらい気鋭な考え方でないとドク論は無理なのかな、、、
というのが読了感であったりする。
王法・仏法相依から、ミトラ・ヴァルナを乗り越えミトラ・ヴァルナを統合するモノ、そしてその先を見すえてという大胆な立地点。
王法・仏法相依こそがあるいはヴァルナ的なモノの根源かもしれないという当たり前すぎる考え方の僕には考えられない仕事だ。
『麗気記』
『麗気記』は『神道体系 論説編一真言神道(上)』(一九九三)に収録されている。
『中世王権と即位灌頂』p367
2007年08月29日
礼服御覧
「礼服御覧」は、即位儀礼で天皇が着用する礼服を準備するための儀礼である。この儀礼には、天皇以下公卿が参列し、礼服の確認を行い、即位当日までに補修を済ませ、当日に間に合わせるという手順で行われる。
『中世王権と即位灌頂』p320
ミトラ、ヴァルナでこの行事を考えるなら、ミトラ(法治する王)の行事ではないだろうか?
では、即位灌頂は? ヴァルナ(魔術王)の所作と言っていいだろう。
つまり、即位法には天皇をヴァルナならしめる〈聖なるもの〉が存在していると考えなければならないのではないだろうか?
吒枳尼天法という外法的なもの、智拳印という宇宙の循環を意味する印相は個々に〈聖なるもの〉であるのかもしれない。
しかし、王法仏法の相依のシステム、そのものが天皇をヴァルナとする〈聖なるもの〉と考えられないだろうか?
あるいは、現代的な政教分離のシステムに強く依存した色眼鏡なのかもしれないが、、、
即位法伝授
東寺観智院金剛蔵聖教『即位三宝院嫡々相承大事』(「外題」)の本文には、
天皇即位時には、摂関家と寺家が印明を伝授する旨が記されている。
『中世王権と即位灌頂』p282
天皇に対して、摂籙と釈家の両方から印明が伝授されるという。
摂籙の印明の伝授は如何様になるのだろうか?
高野山の浄土
又、自慈尊院帳(ママ)路等百八十町ノ々卒都婆ノ種子等、是、胎蔵界百八十尊ノ種子、是也、是、胎界ノ故也、至御影堂大塔等也、又、自壇上至于奥院、金剛界卅七尊町卒都婆、浄土也、
「高野山有五種浄土事」『高野山秘記』 『中世王権と即位灌頂』p267
高野山の町石卒塔婆の説明。
2007年08月21日
宝珠分解
伊藤聡氏は、勝賢が醍醐寺に宝珠が取り置かれている間、東大寺再建の勧進活動を行っていた重源の命により、その宝珠を分解し、その造作法を確認した可能性を指摘されている。
『中世王権と即位灌頂』p241
伊藤聡氏「重源と宝珠」『仏教文学26』2002年によるという。
2007年08月16日
談義所
そうした学僧の学問の場が談義所である。醍醐・高野・根来など中央の大寺院ばかりでなく、真福寺のような各地の談義所を拠として、学僧は諸国を往来し聖教を携え交流しつつ学問を形成する。
談義所は、中世の〈知のネットワーク〉の結節点となり、聖教以外に和漢の典籍も唱導と幼学の具として備わり、「仏教文学」の一基盤となった。
「中世 仏教文学」p115
不勉強で「談義所」が、どのように寺院に付属して、どのようなシステムを持っているのか知らない。
ようは、禅海が祐禅を師匠にして、さまざまな法流を甚目寺町・阿弥陀寺を中心に学ぶという、その場のことなのかな?
「経蔵と文庫の世界」
「シンポジウム「経蔵と文庫の世界−一切経・聖教・宝蔵」」『説話文学研究 41』 2006年
仏教文学
しかし、殊更に言挙げするまでもないが、仏教は、その運動において自ら創出した経典に拠る教義と学問、それを法儀として実践し唱導教化する営みの全てが、悉く言葉をテクストを介して生みだすものである以上、紛れもなく文学そのものである。文学上の問題として仏教の営為と現象を捉えることは、文学観と文学史の向き合うべき大きな課題である。逆の方向から言えば、あらゆる文学の所産について「仏教文学」としての問い−解釈学的試みが設定できる可能性があるのではないか。
阿部泰郎氏「中世 仏教文学」『國語と國文學 千号記念 国語国文学界の展望』平成19年5月号 p112
とりもなおさず、仏教と文学の関係。仏教は文語、口語はあるものの言語によって伝達・表現される。
言語によって伝達・表現されるものは、ひとくくりに文学と呼べるのかもしれない。
逆に、仏教思想に深く根ざした文化体系があったとして、その文化から表現される文学は少なからず仏教的色彩を持つことになる。
(なんか、ただ言い換えただけ、、、)
2007年08月05日
亮秀写『御即位大事』
本資料は、大永六年(一五二六)に即位した後奈良天皇(一四九六〜一五五七)から、東寺宝菩提院住持の僧亮恵、亮秀が「御即位大事」の印明を授かり、さらに、天正十三年(一五八五)、九条稙通(一五〇七〜九四)の希望によってこの印明を授けた際の、印明の控えと伝授の記録されているものである。
「亮秀写『御即位大事』解題」『中世王権と即位灌頂』p177
天皇から釈家へ、釈家から藤原氏へという伝授の過程が示されている資料。
2007年08月02日
指の異称
五大 | 三才 | 大中小 | |
親指 | 空 | 天 | 大 |
人差し指 | 風 | ||
中指 | 火 | 人 | 中 |
薬指 名無し指 | 水 | ||
小指 | 地 | 地 | 小 |
神道灌頂
(A)や(B)の即位法は、神道灌頂に関わる複数の印信のうちの一通分であることがわかる。
『中世王権と即位灌頂』p166
即位法が神道の体系的な体得を意味する神道灌頂にかかわるものであることが指摘されている。
即位法が釈家で伝持される理由の一つと考えられはしないだろうか?
常智拳印
常の智拳印のように左の風(左の人差し指)に右の空(右の親指)をば付けない。右の風(右の人差し指)を付けるのである
大覚寺No.4「御即位印信」『中世王権と即位灌頂』p157
確かに引用図版の智拳印は右親指を左人差し指に付けている。しかし、仏像の場合、右人差し指をつけるようなイメーヂがある。
大日如来には秘仏が多い。あるいは、この特殊な智拳印を秘匿するためなのかもしれない。
2007年07月30日
第I部第五章結
天皇が一人という前提に対し、寺家によって、複数ある真言系即位法の伝持や蓄積が行われていたということは、被即位者としての「天皇」の存在を、寺家が印明を介して握っていたことを示している。即位法の存在形態からみると、「天皇」は、必ずしも一種類の価値体系に基づく王権保持者たる天皇ではなかった。つまり、真言宗寺院で伝持された即位法の動向は、法流レベルで異なる王権観を担い、さまざまな説を展開し、最終的に自己の法流にとって最強の「天皇」を生み出す修法であったと考えられる。
『中世王権と即位灌頂』p148
こう結論づけるからこそどうなるのか? と聞きたくなったりする。
即位法の印契
図6 即位法印契図。本図は『密教大辞典』増補版第6巻(法蔵館、1970)所収「密教印図集」掲載等の印を参考に、した
『中世王権と即位灌頂』p139
智拳印の左手の向きが通常の大日如来とは異なる。
普通の大日如来のようにすると左手人差し指が痛い。
「4.四海領掌印」の親指と小指、左右逆かもしれん。
いや、、、なんとなく、、、
東寺型即位法
東寺型に分類できる印信形式の即位法として三輪流神道の「父母代汀御即位」、「神道符法印可」の「第五重」が挙げられる。この資料は、東寺型の即位法と同じ印明のものが「四海領掌法」として文中に引用されたものである。
『中世王権と即位灌頂』p126
即位法型式分類
即位法の内容の共通性や、宗派や法流など組織に基づく伝持(属性)の違いとして捉える型式分類を行う。具体的な型としては、東寺型、天台・真言混合型、醍醐寺諸流型、勧修寺流型である。但し、型に当てはまらないものは除いた。
『中世王権と即位灌頂』p125
即位法の型式分類としては4つの型とそれに当てはまらないモノの5つに大別されるようである。
2007年07月20日
即位法印明大別
京近郊の寺院に伝来した真言系即位法の各資料中の印・明を分類すると、(1)金剛薩埵印明、(2)四海領掌印明、(3)智拳印明、(4)五眼各別印明、(5)所作(肩腕手による印相)の五種類に大別できる。
『中世王権と即位灌頂』p76
この後、各資料にこの大別をあてはめ、即位法に於ける印明を4つの組み合わせとして導き出している。
『鼻帰書』
門屋温氏「両部神道試論 『鼻帰書』の成立をめぐって」『東洋の思想と宗教 10』1993年
即位2種類
真言系即位法のなかでも、醍醐寺三宝院流に伝持された即位法 = 「四海領掌法」は、二種類あった。すなわち、地蔵院方の歓喜天を本尊とする一印一明の即位法、報恩院方のダキニ天を本尊とする三印二明の即位法である。そして、報恩院方が伝持した南朝方の即位法は、従来から、その存在を指摘されていた「東寺即位法」であった。
『中世王権と即位灌頂』p69
地蔵院方の即位法は「即位三宝
報恩院方の即位法は「東即位」p38〜。
「東即位」については『天照大神口決』 = 『無題記』や『鼻帰書』との関係が指摘されている。
「国府の弥陀」の覚乗ゆかりの2書。
「東寺」の「歴史」
小峯和明氏「文学の歴史と歴史の文学 中世日本紀研究から」『日本歴史 608』1999年 p74〜76
即位灌頂とは
即位灌頂とは、摂関家から即位予定の天皇に印明が伝授され、即位儀礼の当日、天皇が高御座 で伝授された印を結び、明を唱える行為のことである。そして儀礼前、天皇に印と明の内容を伝授したのが、二条摂関家である。この行為を印明伝授という。
『中世王権と即位灌頂』p11
「印」は手で〈聖なるモノ〉のイデアを象徴する行為。「明」は声で〈聖なるモノ〉を表現する行為。
摂関家が「二条家」に特定されるのが、「即位灌頂」の時代性を表出する。
2007年07月08日
天狗
天狗は日本の民間信仰ないし民話の産物で、古くから文献に散見するが、この十四世紀にはずいぶん流行し、『天狗草紙』『是害房絵詞』などの絵巻物もつくられたし、『太平記』にも天狗の話がよく出るのである。当時の天狗は、今日の赤ら顔で高い鼻、やつでの葉のうちわをもった天狗ではなく、羽の生えたトビが山伏の姿をしたかっこうで、高慢で悪心をいだき魔力でもって世を乱そうと執念をもやし、人の目にみえぬように出没していると考えられていた。……要するにそれは高慢・我執が昂じた悪魔である。ところが天狗が、不適・不思議・奇怪なやり方で世を騒がせひっくり返すについて、それは世のなかがおかしくなっていることにそもそもの問題があると、多少「世直し」待望の気分を伴い、また漂逸で軽妙また痛快で、どこかおどけたところもあった。
『王法と仏法』p172
引用がいささか長いが中世の天狗についての一文。
『太平記』の神秘記事
『太平記』において、
後半において、怨霊(巻二十二、大森彦七事)、宝剣(巻二十五、自伊勢上宝剣事)、天狗勢揃(巻三十、尊氏兄弟和睦附天狗勢揃事)というような神秘主義的構想ないし技巧が強く現われざるをえなかった、、、それはもはや「不思議」の技巧への堕落以外の何ものでもない。
『王法と仏法』p141
『太平記』の神秘主義的記事への附箋。
2007年06月17日
王法・仏法
だから、「王法・仏法」というときの王法とは、実際には国王(天皇)や世俗諸権門の権力と秩序、その統治をいい、仏法とは、現実の社会的・政治的勢力としての大寺社ないしその活動のことにほかならなかった。つまり、王法仏法相依とは、単に仏教が政治権力に奉仕することをいうのではなく、仏教が社会的・政治的に独自性を帯びた勢力を形成しながら国家全体の秩序の構成原理のなかに入りこんでいる政治と宗教との独特の癒着のしかたを意味していたのである。
「王法と仏法」『王法と仏法』p27
仏教(仏法)というと「世間虚仮」のような現実世界と距離を置くようなイメーヂがある。(なんとなく『王法と仏法』の史観に引っ張られながら、、、)
しかし、中世にそのような世俗をさけるような部分は一セクションでしかなく、古代以来の「鎮護国家」の思想を強く受けながら、「王法と仏法」のように王法と対比される勢力を大寺社は持ち得た。
いわゆる「僧兵」のように政治権力を力ずくで動かすような事が多くおこなわれていたという。
2007年05月20日
稲荷・ダキニ・狐
稲荷とダキニと狐の関係をみると、稲荷の神がまず狐を使獣とし、一方、狐とダキニとが同一になり、最後に『ダキニ天豊川稲荷』というようなものが出来たのであろう。
和田徹城氏『淫祠と邪神』『狐』p144
稲荷、ダキニ、狐の習合について、稲荷と狐、ダキニと狐の習合がそれぞれおこり、狐つながりで稲荷とダキニの習合がおこったのではないだろうか? というような考察。
東寺の夜叉神
守覚法親王の『拾要集』にいわく、「東寺の夜叉神のこと、(略)この寺に奇神あり、夜叉神・摩多羅神と名づける。(略)そのカタチ、三面六臂、かの三面は三天である。中面は金色、左面は白色、右面は赤色である。中は聖天、左は吒吉尼、右は弁才である」
前田夏蔭氏『稲荷神社考』『狐』p140
夜叉神、摩多羅神の関係、そのカタチの意味がとりづらい。
2007年05月10日
狐との習合
狐が人間から忌まれ、かつ疎 まれる最大の理由は、墓地を暴 くという無類の悪癖のなかに求められる。
松山義雄氏『続々狩りの語部』吉野裕子氏『狐』p13
ふと、『悪党的思考』に示されていたダーキニの墓場につどうという特徴が頭をよぎる。
ダキニ、稲荷、狐、複層的な習合の様があるような気が、、、これからが楽しみ。
2007年04月30日
後戸
そこで、不動明王にとっての後ろ戸の神、背後の神が必要となってきたわけです。生駒の地神のパワーが強力であれはあるだけ、不動明王の手にはあまってしまい、とうとうそこに小さな聖天様の祠が立つことになった、というのが、じっさいの歴史だったような気がしてなりません。
『悪党的思考』p322
後戸というと摩多羅神が一番に想起されるのだろうか?
東大寺・法華堂の執金剛神のようにさまざまな神仏が比較的古い段階なのだろうか? さまざまな類例が得られそうな気がする。
即位灌頂の発生
阿部 ひじょうに現象的に、大嘗祭が天皇即位の儀礼としてなかなか運営できなくなったから、逆に仏教がいろいろな即位儀礼をつくり出して、それに代わるものとしてやったという。ひじょうに単純な解釈をされる。それはちょうど鎌倉末期から南北朝前後に王権の維持がおぼつかなくなってきたときに、こういう即位儀礼に関することがいろいろ記録に出てくるから、それはやはり対応した現象なんだということなのですが、さっき申しましたように、即位灌頂はもっとさかのぼるわけで、けっしてそういうふうに単純に対応するものではない。(略)結論はそこまで単純にいわないほうがいいだろうと思っているんです。
「即位法の儀礼と縁起」p36
即位灌頂の成立。その時期が大嘗祭のような律令制下での王権儀礼の衰退とオーバーラップする時期にあるのは確かなことなのだろう。
しかし、即位灌頂の成立の原因をそのことに求めるのは早急にすぎる。
仏法の側、律令制下で王権儀礼にたずさわっていったもの。そして王自身のアイデンティティーみたいな。
2007年04月25日
ダキニと王権
スワット地方(密教の本ではウッディヤナと呼ばれる)、
そこに「王権」が生まれた。王たちは皆、密教僧としての修行をつんだ。そして、その王たちが、この国の帝王たるにふさわしい資格を持つためには、彼らはダキニ女神の力と教えとをこわなければならなかった。
『悪党的思考』p265
輪王灌頂の結印
まず、真言密教のオーソドックスな印である、智拳印、無所不至印、塔婆印、引道印、仏眼印の五つがさずけられます。(中略)大臣はここで、外五鈷印という特殊なムドラーを、天皇にさずけます。(中略)それが「四海掌領」の印として、この「輪王灌頂」のもっとも重要な、もっとも神秘的なムドラーだったのです。その印を知ることによって、天皇ははじめて「帝王」になれたわけです。このあとにも伝授は続きます。七道の印というのが手渡されます。東海道、西海道、南海道、、、
『悪党的思考』p255
「輪王灌頂」の所作のなかから、
恥ずかしながら、智拳印しかイメーヂできない、、、
2007年04月22日
即位の結印
帝王が即位の時、智拳印を結び、高御座につくのよし、匡房卿記に一筆これを書く云々。その外にその事を知らない。
慈円『夢想記』「即位法の儀礼と縁起」p10
「匡房卿記」は具体的な書名ではなく、大江匡房の記という意味らしい。
2007年04月18日
明治の即位法
元勲 山県有朋 はロシア皇帝ニコライ二世の即位式典に国家を代表して参列し、深い感動をおぼえる。ギリシャ正教の神秘主義的演出におおわれたその式典のなかに、彼はいまの天皇制にもっとも欠如していると思われた、ひとつの「美点」をみいだしたのだ。それは「王権」がじぶんの核心部分に秘密をかかえこむ、ということだ。
『悪党的思考』p181
木村毅氏『明治天皇』に細説されていることらしい。
2007年04月08日
書評
阿部泰郎氏 「松本郁代著『中世王権と即位灌頂−−聖教のなかの歴史叙述』を評す」『日本文学 VOL.56』日本文学協会 2007.1
2007年04月07日
ヴァルナ
天皇は神官であることによって。「法治する王」としての天皇王権を表現するものとなる。ところが、彼が密教の法服を着て、手に法具をたずさえ、口にリズミックなマントラをとなえながら、即位の儀式をおこない、護摩 をたくとき、彼は王権の持つもうひとつの側面である「魔術王」の機能をとりもどそうとするパフォーマンスをおこなっているのである。(略)まさに「四海を掌握」しようとしたのだ。
中沢新一氏『悪党的思考』平凡社ライブラリーp40
「法治する王」をミトラ、「魔術王」をヴァルナと呼ぶらしい。
こういう引用の仕方はいいのか悪いのか、、、
2007年03月31日
東寺方即位法
この摂録の太神の秘法というのは吒天の法である。ご即位の時は「四海領掌の法」という。この法を受けなかったなら、王位が軽いので四海を持つことができない。『天照太神口決』『外法と愛法の中世』p275 即位法は四海領掌法とも呼ばれ、吒天法であるという。
即位灌頂法
「四、愛染法と吒枳尼天法」『外法と愛法の中世』p266〜
2007年03月27日
慈童
伊藤正義氏「慈童説話考」『国語国文 555号』 1980.11
阿部泰郎氏「慈童説話の形成−−天台即位法の成立をめぐりて」『国語国文 600号・601号』 1984.8/9
阿部泰郎氏「慈童説話と児」『観世1985.10/11』
2007年02月26日
反魂の秘術
反魂をテーマにした物語で有名なのは『撰集抄』巻五第十五(四八)ではないだろうか?
「
また、巻七第八(六八)の覚鑁上人、最高。
敵に追われた覚鑁が不動明王に化ける。目の前に不動明王が2体。さて、どうする?
話をもとに戻すと、反魂香の物語。現在、大須の七ツ寺縁起を思い出す。
「(付載)七寺正覚院」『尾張徇行記』『新修稲沢市史 地誌下』p299
光仁天皇の時代。紀是広は征東夷へとおもむく。その子、光麿は父をしたい関東へおもむくも尾州萱津宿で病により死ぬ。
是広は京へ帰る折、そのことを知る。。。
あるいは、話芸として伝えられたものが縁起として明文化されたのかもしれない。