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2007年08月29日

鎌倉複雑系II式

たとえば、後に仁和寺菩提院了遍を戒師に行われた亀山法皇の伝法灌頂の参列者は、公卿十一人、殿上人十一人。人数的な規模は道家を下回る(「亀山院御灌頂記」『続群書類従』二六上)。なお天皇に対する伝法灌頂が、仁和寺の僧によって行われる点も注目すべき。

『中世王権と即位灌頂』p293

2007年06月26日

鎌倉複雑系2

 慈円は親鸞の剃髪の時の師匠であったと伝えられている。
 親鸞といえば法然。慈円は法然を「陰でかばい大きく包括する思想的余裕と理論体系をもっていた」(『王法と仏法』p54)らしい。
 法然の弟子筋で興味を引くのが東大寺の復興をなした重源。快慶もmojikyo_font_101911阿弥陀仏と自称していたとすると専修念仏と深いつながりが感じられる。
 南都と言えば「興福寺奏状」を著して法然を批判した解脱上人貞慶。南都・北嶺をひとまとまりとみれば、この時代の専修念仏に対する法難はなんとも南都・北嶺の内輪もめのように感じてしまうのは、少し考え方が甘いだろうか?

伊勢神道

中世の伊勢神宮が、仏教全盛時代のただなかにあって古代以来の伝統儀礼−−−それが文字通り日本固有の習俗か、それとも道教的なものであったかなどは、さしずめ問わないとして−−−を伝え、仏教の用語・作法・服装などを忌避する禁忌を守っていたことは、よく知られている。けれども、中世の伊勢神宮が真に全面的に仏教を忌避し排斥していたのではなく、他方で僧侶の参宮が行われたり伊勢の神官たちが仏教にかなりの造詣をもっていたりしたことも、それに劣らず重要な事実である。

「日本宗教史上の「神道」」『王法と仏法』p81

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2007年06月22日

鎌倉複雑系1

摂関家略系図

 まずは、慈円の血縁者。
 同母兄の九条兼実。摂籙(せつろく)、つまり摂関家の長。慈円の出家も兼実の考えによるという。
 兼実の曾孫に鎌倉将軍、頼経がいる。いわゆる摂家将軍。

 仏法の慈円。王法、公家の兼実。武家の頼経。また、兼実は源頼朝を厚遇したという。王法・仏法を九条家の下に掌握する。こんなイメーヂ。

「摂関家略系図」『王法と仏法』p38

2007年06月19日

慈鎮

慈円か元冦の時代を山田風太郎風にできたら楽しいだろうな〜。