鎌倉複雑系II式
たとえば、後に仁和寺菩提院了遍を戒師に行われた亀山法皇の伝法灌頂の参列者は、公卿十一人、殿上人十一人。人数的な規模は道家を下回る(「亀山院御灌頂記」『続群書類従』二六上)。なお天皇に対する伝法灌頂が、仁和寺の僧によって行われる点も注目すべき。
『中世王権と即位灌頂』p293
2007年06月26日
鎌倉複雑系2
慈円は親鸞の剃髪の時の師匠であったと伝えられている。
親鸞といえば法然。慈円は法然を「陰でかばい大きく包括する思想的余裕と理論体系をもっていた」(『王法と仏法』p54)らしい。
法然の弟子筋で興味を引くのが東大寺の復興をなした重源。快慶も阿弥陀仏と自称していたとすると専修念仏と深いつながりが感じられる。
南都と言えば「興福寺奏状」を著して法然を批判した解脱上人貞慶。南都・北嶺をひとまとまりとみれば、この時代の専修念仏に対する法難はなんとも南都・北嶺の内輪もめのように感じてしまうのは、少し考え方が甘いだろうか?