中世神話としての尾張 II
〜史観から大江匡衡を問う〜


「中世神話としての尾張」 縁起としての尾張

 大江匡衡が「東のこと」、東琴、吾が妻、東国(尾張)を知ることによって、男になって行くストーリー。「匡衡和哥事・赤染衛門事」『古本説話集』はそのように読み直すことができるのではないだろうか? 匡房が男になることは、つまり大江家の誕生(あるいは中興)であり、そのような説話を流布させることは周囲の大江家に対する認知につながる。


「大日本国図」『拾芥抄』 認知された神話

『日本古代道路事典』表紙の行基式〈日本図〉よく見てみると興味ふかいことがわかる。まず、近江と美濃が東海道の国になっていること、つぎに、美濃の不破関から伊勢へ行く道、尾張へ行く道が分かれている。
 もっとすごいのは、近江(上:1 下:0.5)美濃(上:4 下:2)尾張(上:7 下:10)三河(上:10 下:6)遠江(上:15 下:8)……都からの「のぼり」「くだり」の日数。
 尾張以外を見ると、上りの方が下りより日数がかかるということ。そして、注目は尾張の下りが10日であること。

 宮こいてでて けふここぬかに なりにけり とうかのくにに いたりてしがな

「赤染衛門事 第五」『梅沢本 古本説話集』岩波文庫(p29)  

 尾張に下るのに10日、「とおか(10日 = 当稼)の国に来たものだ、、、」匡衡と衛門の会話。『赤染衛門集』をひもとくと、美濃経由(鵜飼を見て)なのに馬津を経由している。
 馬津(まつ)は、津島市街北西方の松川とする説が有力である(『日本古代道路事典』p61)佐織町には町方新田という地名もありマチカタはあるいは馬津潟の訛ったものかもしれない。潟が存在したと考えれば地理的な広がりを考えなければなるまい。町方新田から佐屋川によって津島市街をC字状にかこみ津島市老松あたりまでを馬津として推定できるのではないだろうか? それ以上に、津島神社(牛頭天王)の存在を指摘しなければなるまい。手向けを行ってから通行することが広く行われたのであろう。直接、墨俣から松下へ入ってもいいはずなのに、馬津を経由しなければならない。
 馬津→三宅川→尾張国衙というのは、やっぱ本道なのかもしれない。
 大幅に横道にそれたが、注目すべきは『拾芥抄』の〈日本図〉のなかで匡衡と衛門の「とおか」の国という歌が享受され再生産されていることだ。


くり返される歴史

『太平記〈よみ〉の可能性』

 兵藤裕己著 講談社学術文庫を読むと『平家物語』を下敷きとして『太平記』がつくられ、『太平記』が読まれることによって新しい歴史がつくられていくという歴史観を感じ取ることができる。
 同じような構図の歴史を何度となくくり返していく。。。前近代的な歴史観が人々の行動規範さえ制御してしまうということもあろう。

『中世神話の煉丹術』

 深沢徹著 人文書院は大江匡衡の子孫、大江匡房の物語である。
 ここで注目されるのは大江匡房の太宰権帥としての振る舞いであろうか? 太宰府と中央のあつれきの中でうまくたち振る舞ったと思われる匡房。
 匡房の大江家の出身という背景にその原動力があるのではないだろうか?

道真と匡房

菅原道真系図
清公
尾張介
是善道真
太宰権帥
大江匡房系図
匡衡
尾張守
挙周成衡匡房
太宰権帥

   (ともに『人物叢書』より作成)

 突拍子もなく菅原道真を引き合いに出すが、この比較に興味ふかさをおぼえずにはいられない。
 尾張国での先祖の活躍が原動力になって子孫の繁栄につながる。
 また、道真という御霊の系図との類似性を示すことで匡房自身の御霊性というか、奉らなければ害をなすような性格づけがなされるのかもしれない。
『古本説話集』の説話がつくられる理由として匡衡が男になるという意味の向こうに匡房の成功、あるいは成功しなければならないという意気込みを感じてしまう。


尾張安楽寺の可能性

 もし、尾張で活躍した菅原清公の子孫、菅原道真という図式が広く享受されたものであったとすれば、尾張国にも道真の霊を慰める施設である安楽寺が存在したのかもしれない。あるいは、尾張国衙周辺でそのような時代に再整備される寺院があるとすれば、その目的もあったのかもしれない。

『尾張国郡司百姓等解文』に代表されるように尾張国は中央から治めづらい地域と認識されていたのではないだろうか? そのような尾張国をうまく治めることは氏族としての誉れとして意識されたのかもしれない。
 とくに菅家(菅原氏)や江家(大江氏)のような非藤原氏は、そのようなことにも敏感であったのではないだろうか?


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