地域思想史系 尾張国分寺
尾張国分寺は空也剃髪の地(『空也上人誄』)として知られ、その場所は考古学のみならず文献学的な分野からも注目される遺蹟であろう。
今回、昭和20年代に米軍によって撮影された航空写真をもとにすることにより、比較的良好に尾張国分寺の境内地の想定案を作成することができたのでここに報告したい。
堀之内花ノ木遺跡
尾張国分寺の寺域に対しての大きな成果としては、まず、堀之内花ノ木遺跡があげらる。
堀之内花ノ木遺跡では南寺域を画するとされる溝が発見されている。
この成果は、現在、堀之内花ノ木遺跡に立て看板として示されている。
南端を中心に、南門や東南、西南の角が復原されている。
この立て看板で一番問題となるのは、塔と寺域東端の関係であろう。
近すぎると感じるのは、僕だけなのだろうか?
(このようなことを考えられたのも、立て看板があったからこそです)
後述するが、尾張国分寺周辺は南西のあたりが、現在でも比較的低く、南西の角だけがいくらか東よりに設定された、不正形な寺域を呈していた可能性は十分に考えられる。
(もし機会があれば、みなさんの目で立て看板や尾張国分寺、周辺の遺蹟を見学していただけるとうれしく思います)
堀之内花ノ木遺跡を航空写真の上にのせると、寺域の南端が当時の道路と重なることがわかる。
このことは、尾張国分寺の境内地は尾張国分寺の主要であるとされる建物群の廃絶後も意識され続けたのではないだろうかということを考えさせらる。
つまり、思想の連続性によるものだと考えたい。
連綿と受けつがれた地域の持つ思想をつぶさに見ていくことをしてみたい。
(もし、あなたが尾張国分寺の地に連続的な思想がないと考えられるのなら今回の検討は超科学的な手法を用いて行ったと考えてください)
ちなみに、今回、境内地の語を用い、寺域という専門用語を用いませんでした。
これは、寺域の判定には、現在、新たな考え方が、示されつつある途上にあります。
そのような、萌芽とは前提となる作業仮説も全く異なる中で、同一のものを追い求めることは無理であると判断し、寺域とは別物として境内地を設定します。
(現在、僕たちが訪れる社寺の範囲と漠然と感じる境内という場所という意味です)
北端の想定
堀之内花ノ木遺跡の成果から、僕たちが北と疑ってはいない「北」からは北の座を降りてもらうことにしよう。
ようするに、地図を傾けてみる。
こうすると、中椎木橋から北に延びる道が、少し北へ行ったところで垂直線と比較的重なってくることに気づく。
そして、大きくカーブを描いて、また、再び北へ向かう。
このような道が、中椎木橋の道以外に、左右に2本あることに気づく。
あれあれ? この大きくカーブする(あるいはクランクする)ところは、傾けた航空写真では、比較的水平を意識させる。
このような現象が起こるのは、それらの道が造られた時代より以前の思想に左右されているは考えられないだろうか?
(もちろん、この道が造られるときに何らかの意図を持って一直線上で道を曲げたと言うことを否定することはできません)
これを仮に境内地の北端と考える。
南北線の想定
仮に、境内地の南端が寺域の南端と重なると考えると、尾張国分寺の南北の範囲は決まったことになる。
次は東西の範囲を決めなければならない。
中椎木の南北線
中椎木橋から北へ延びる道は、最初は西へふりますが、しばらくすると垂直になる。
とりあえず、この垂直線と、堀之内花ノ木遺跡でみつかった西端の南角が、どこかでクランクしてつながると考ることにしよう。
このことは、この道が西へふってしまう。つまり、垂直線から離れてしまうということと、何かつながりがあるように思われる。
この附近にクランクがあると仮定することかができよう。
参道
中椎木橋から北へ延びる道の東の道が金堂や講堂の推定されるような場所を貫いている。
この道は、現地を歩くとよくわかるのですが、金堂をさけるように北へ延びている。
金堂の廃絶の前後はともかく、この道は金堂を避けるという思想をしている。
さて、その南側、用水のあたりから南への道は、微妙ですが垂直線上と考えてもよいだろう。
南から、金堂のある中心伽藍へ向かう道。
この道は、尾張国分寺への参詣の道なのかもしれない。
東院伽藍の想定
中椎木の南北線と北端の線を重ねると、北端の線がさらに、西へ延びていることに気付く。
そこで、仮に中椎木の南北線の東側を東院、西側を西院と呼ぶことにする。
東院はこれまで尾張国分寺の中心部分と考えられていた部分で、金堂や塔など瓦葺き建物が確認されている。
境内地の東端は寺域の東端とは異なり(!?)中椎木橋の南北線と金堂から南へ延びる道の巾を、さらに東へ延ばしたところに仮に考えよう。
それに比して、はっきりと意識されていないのが西院である。
福田院(西院)の想定
境内地の北端は東院伽藍よりさらに西へ延びていく。
また、東院伽藍の西端のクランク附近から西側は比較的高くなっている。
あるいは、このあたりに鎮護国家の実践の為の施設があったのではないだろうか?
つまり、国分寺の地を国分寺たらしめているのは、伽藍ではなく、貧民や賤民と呼ばれた人を救済する為の施設の存在によるばずでしょう。
尾張国分寺の場合、この施設が西院にあったと仮定したい。
余剰地・鈴置神社
以上のような感じで、境内地の大まかな枠組みを仮に考えることができた。
しかし、さらに大きな視点でこの周辺を見ると、尾張国分寺の北東をかすめるように、八神街道と呼ばれる道が存在することがわかる。
八神街道に仮においた境内地が触れていないので、仮の境内地の端から八神街道までの間には、余剰な空間があることになる。
また、八神街道をはさんで、鈴置神社があり、尾張国分寺の北東角の先に鈴置神社があることから、尾張国分寺に付属する装置と考えることも可能なのかもしれない。
南端の複雑さ
北側、東側には余剰地があることが考えられたが、西側、南側はどうであろうか?
西側はすぐ近くを三宅川が流れていることから、三宅川までとしてもいいのかもしれない。
航空写真上に残る尾張国分寺の東西線や南北線と平行な線の残る範囲としてもいいのかもしれない。
しかし、南側ははっきりしない。
このように南端には問題が残るものの航空写真により良好な形で尾張国分寺の境内地を想定することができた。このことをまとめるとこのようなことになろうか?
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