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開祖という集合名詞

実際に活躍したのは成尊、範俊、義範といった弟子たちであるが、いずれも仁海という山脈の前には微細な存在感しかない。小野流といえば直ちに仁海が想起されるような時代にあっては、弟子たちの人格は仁海一人に統合されていく現象が起こるわけである。(中略)これまでの論述をまとめるならば、『渓嵐拾葉集』説話に登場する仁海は、必ずしも仁海その人を指すのではなく、院政期に活躍した小野流僧の総体を表す一種の集合名詞であった、
『外法と愛法の中世』p265  ある集団の活躍が、その集団の祖となる人に集約されていく。このように一般化してしまうのは危険なのかもしれないが、多かれ少なかれ、あるような気が、、、

偽書の生成の1ファクターだよね。たぶん、、、

投稿者 ほおづき : 2007年04月08日 22:30