「信仰」の問題?
空海の生涯は、宝亀五年(七七四)から承和二年(八三五)であり、その後の「空海」の名を借りた事跡のほとんどは、弘法大師信仰のなかで語られている。しかし、この、宗教の内にあったカテゴリーとしての信仰は、偽書や疑文書、仮託といったテクニカル・タームを得ることによって意味分節化され、実体と信仰を離れた仮託者「空海」としての性質を得たといえる。
『中世王権と即位灌頂』p364
結論から言ってしまえば「弘法大師信仰」というものがいかなるモノか? 逆にこのような問なのではないだろうか?
まず、「信仰」という言葉がひっかかる。例えば法然の描いた阿弥陀仏に対する思いと、九条兼実の描いたそれとが全く同じであると言えるのだろうか?
全く同じと言えない中で「信仰」というタームを振り回すのは乱暴にすぎると思うのは僕だけなのだろうか?
それらがなにゆえに「偽書」とされたか、ということは、それぞれの場合によって違うだろう。
彌永信美氏「偽書とはなんだろう」『中世王権と即位灌頂』p370
「信仰」が多様なモノを、半ば乱暴にひとくくりにしているのと同じように、「偽書」も多様である。
僕が思うのは、今ひとたび、テキストその物に立ち返り、個々に吟味していくことが大切なのではないだろうか?