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奥州

西行は能因の跡を慕って奥州へ旅行し、芭蕉は西行の風雅を追って『奥の細道』を書いた。(p114)
西行は二度奥州へ旅をした。最初は二十六歳から三十歳ごろまでで、学者によってさまざまの説があるが、二度目の方ははっきりしており、文治二年(一一八六)、六十九歳の時であった。(p147)
奈良の僧、とがの事によりて、あまた陸奥国へつかはされたりしに、中尊と申所にまかりあひて、都の物語すれば、涙流す、(西行の詞書きp155)
が、二度目に来た時は、東大寺再建のための勧進という重大な役目を帯びていたから、藤原氏の勢力を、しかと見定める必要があった。(p157)

 白洲『西行』
 西行は平家によって焼かれた東大寺大仏の勧進のため奥州へ行っている。
 奥州は、また、渥美窯製品の一大消費地でもある。あるは、西行は渥美窯製品とともに海路、伊良湖経由で奥州へ向かったのかもしれない。
 と、思うと、西行を調べずにはいられなかった。
 3つ目の西行の詞書き『西行』では、1度目の奥州行きの時、罪人である南都の僧と面会したと考えているが、大仏炎上が「とがの事」で、勧進のために多くの南都の僧も奥州にやってきた所だったと理解できなくもない。(考えすぎか?)
 ちゃんと言葉書きの前後も読む必要があるな。