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たまには上半身でモノを考えてみる

 どうも、そうは、いかないようだ。
「ピカソになれる可能性はないわけではない」
 とか、
「オレはピカソを超えた」(伝聞なので不確か)
 とか、ピカソに誤解がありそうなので、管見で少し書いてみる。

 ピカソは一種のトポロジーだから、数学の知識がないとよく分からない。よく分からないというか、数学の知識があった方が楽しめる。だから、絵画に数学的な思考を取り入れたというところで「新しい」のであって、その時代の潮流がピカソを支持したことが、現在の「絵画といえはピカソ」的なステレオタイプにつながっている。
 それを横目で見ていた2人の人物を登場させよう。

 まず、藤田嗣治。藤田はピカソの絵を見た後、バイオリンを買いに行き、ノコギリで分解し、その静物画を描いた。その絵は、あたかもピカソの、それに似ている。
 しかし、藤田の画業はピカソを超えた云々ではないだろう。
 あの乳白色。それは、あたかも、そのずっと先に生産されるジャパニメーション。マンガを思わせる。つまり、藤田の画業は、それのピカソとの乖離に真価があると言っていいだろう。
 もう1人は、ル・コルビュジエ、彼もピカソに影響を受けたであろう絵を描く。(以前指摘した気もする)
 やはり彼の主要な業績を挙げようとすれば、それは絵画ではなく、建築となろう。しかし、彼の絵画がピカソの、それを離れ、彼の建築家としての部分と大きくリンクしていたであろう事は、その絵画をつぶさに見てゆけば判ることだと思う。
 まあ、ピカソをトポロジー(キュビズムと言われるのだが)の画家と考えて、それを超えているということは、ある意味、トポロジーの破れで、はたして「トポロジーの破れた絵画」に存在理由があるのだろうか?
 こっからは、僕の問題。はたして「トポロジーの破れた絵画」に存在理由はあるのだろうか?
 たとえて言えば、「オン字教」あれは、あえて破ってあるね。そういえば、、、
 ここから構造主義、云々にいくんだけど、構造主義、云々は、また、後日。