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肉の性差、媒体の性差

 媒体の性差、あるいは、媒体としての性差というのは難しいのかな?
 ようは、享受する側にあるものなのかもしれないけど、、、
 媒体の性差は、肉と内面の両方からつくられるものだよね。
(なんか変な文体だな!)
 つまり、私は、媒体の性差というものがあって、ある意味で肉の性差以上に重要な意味を持っているような気がするの。
 それは、ある性(「男」でも「女」でも、それ以外でもいいのだけれども、、、)であることを人文学・社会学的なものにしてくれるんだと思う。
(接続詞が多いのは内容がない証拠よね)
 肉の性差と同じように媒体の性差も多様性を保証するカタチで、多様に存在してもいいのではないだろうか?