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2010年03月08日

生きることの残酷さ

 エンターテイメントと学術の共通性は、エンターテイメントの頂点を「アカデミー」と呼ぶことからも判るように、、、と、回折格子が止まらなくなってるのだが、あの「入り江」が血に染まっているところで、一変される。
 あの入り江が血に染まった映像を「残酷」だと思う?
 屠畜場(とちくじょう)では、もっとたくさんの血が毎日流れているのに……
 牛はステーキになるために飼われているから残酷ではなくて、イルカは天然に生きているものだから残酷だという議論が解らない。
 生きると言うことは残酷で、ゴマ粒2つにだってタマシイがあって、そのタマシイを自分の糧にすることが生きると言うことだ!
 ゴマ粒を食うなとか、牛を食うなということが言えるのだろうか? いえるのは、アイツだけだ。こういう議論が見えなくなるのは「都市化」のせいでもあって、何を食べるのにも、その食べるものが発した「断末魔」を聞かなくても済むという不思議な状況がそうさせている。
 昔「弥生体験」というのがあって、石器で食材を切ってみようというのがあった。野菜は、まあ当たり前。でも、肉や魚は、変な言い方だが、わずかながら「アンモニア臭」がする。魚屋さんのそれ、といってピンとくる人も、少なくなっているだろう。まあ、不愉快なにおいが、そこにはあるんだわな。
 最初「やっぱ野菜、切ってた方が不快ではない」と思ったんさ、でも、それは愚かな考えだと思う。つまり、「生きることは残酷」なのである。
 逆に「鶏をつぶす」くらいのことをやって、初めて「弥生体験」なのではないか? と思うようになった。(と、いいつつ、つぶした鶏は食べたことがないな。釣った魚は食べたことあるけど)
 そう考えたときに「入り江」のパロディーとしての「柵(さく)」という屠畜場をあつかった映画は、相応にパンチのある映像だと思う。(結局、ドヤ終わりなのか、、、)
 昔『もぐタン』みたいな科学系アニメがいっぱいあって、その中で、水産業も「栽培漁業」に転換すべきで、その中でイルカはシープドッグ的な役割を果たすのかもしれない、というような内容の番組もあったんだよ。
 イルカには、言語もあるし芸もできる。その「芸」について異論を差し挟むことは、そのような可能性もリジェクトしてしまう行為であるということに、本当に気づいているのだろうか?(まあ、シープドッグが「野蛮」であるという考えもないわけではないわな)
 本当に、異文化を理解できない以上に、生半可な知識で否定する民族性って理解できないって、バリ、異文化が理解できてない、、、

2010年02月02日

ジェンダー

げ、くまちゃんに乗り換えてから、なんか心穏やかなのに気付く。
ここ2年くらいの、心の澱は何だったんだろう?
たぶん〈男〉というジェンダーを演じるのが苦手なんだろうな。かといって、それが直接的に〈女〉というジェンダーを選択することに、つながらなかったんだわな。容姿とか〈演じること〉に対する劣等感から。。。

フランケンシュタイン・コンプレックス。こんな言葉があるそうな。

まあ、ガンバれよ。くまちゃんの保護者殿。

2010年01月27日

性的倒錯

「倒錯」なんて、ありえないんだよ。
性は、もっと多様なんだよ。
異性だから好き。同性だから好き。なんて、ステレオタイプ!
たまたま、これまでが、そうだっただけぢゃん。
もっと、人間としてみた時に「好き」とか「嫌い」、、、その中で性的対象かどうか?
異性or同性で、決まるものではない。

2009年01月26日

性の多様性

とすると、同性愛者でありながら、異性の服装を(いと)う者もあれば、服装倒錯者にもかかわらず、同性愛的傾向のない人があるわけで、

『私は河原乞食・考』p281
 性の多様性・ジェンダーの多様性についての言及。

異常性欲

従って、性欲のどういうあり方、あらわれ方、満足させ方などが異常かというけじめは、ある集団やある時代によって異なり、正常との距りを決めることがむずかしい

加藤正明「異常性欲」『私は河原乞食・考』p277
 性欲は生理的な問題だが、それを正常・異常と判断するのは社会学的な問題であるということ。やっぱ、「異常性欲」とカテゴライズすること自体が現在の感覚にあまりそぐわないようにも思う。

2009年01月02日

紅白

 いや、紅白見ててサ。
 トランス・ジェンダー(性同一性障害)や同性愛への一般の理解が、この程度なんだってガクゼンとした。
 すると一昨年なんて、主催者には、相当わだかまりがあったんだろうと思う。
(と、十把一絡げに考えるのも色眼鏡だ!)
 だから、「ブラジル移民」に対する認識なんて、察するに余りあるよネ。
 まぁ、紅白自体が表番組は見つからないけど裏番組だから、それでも、いいんだろうケド、、、

2008年03月11日

福祉の本題

・障害があるから仕方がない。
・障害があるのによくやってる。
・障害があるとは思えないくらいイイでき。
 本当に冠に「障害」がつくようなカテゴライズで自尊心が満足するのだろうか?

 意外にこれだけなのかな?
 枝葉だが、家電量販店のデジタルオーディオのコーナーが気になる。
 普通の人が見て痛くないのだろうか? なんか痛いよネ。

やっと福祉の本題

 えっと、何、書くんだっけ? 記憶が不確かだぞ、、、
 特典DVD観てて、ギターをアンプに差し込むシーン。
「ふーん。無垢に健全なんだ」
 そんな感想。もっと、まわりが配慮してカットしてもいいようなシーンに感じた。
 すこし、敏感すぎるか?

2008年01月10日

洗脳論

 福祉は本題に入らず少し休憩して、ふたたび洗脳論へ。
 典型的な、手口を1つ。

(1) 集団が不当にしいたげられていることを示す。
((2) (1)の文章が定型句ではないことを示す精神的背景)
(3) 集団の団結をうながす結び。

 まあ、例えばこんな。
 具体的な事例がどうのこうのではなく、ただ、備忘録。
 まぁ、許せないんだけど、、、

2008年01月09日

本題に入らずに福祉について考えてみる

 タラタラン、タラタラン♪
 腹話術でもならおうかなぁ
 タラタラン、タラタラン♪
(ふかわ氏風)
 のっけから、くだらないのですが、、、

「福祉」という字を辞書で調べました。そしたら、「幸せ」と書いてありました。

(桜金造氏の演説より)
 金造氏が辞書を引いたかは置くとして、この語り口は福祉を語る上での話芸的な慣用の口上である。
 介護や福祉というと、苦労や疲労を思わずにはいられない。しかし、原義は「幸せ」とある。
 はたして、この「幸せ」というヤツもやっかいだね。

2008年01月08日

せっかくなので福祉について考えてみる

 ああ、そうだよね、、、って、思ってしまったらそこで終わりなような気がする。

「衝動かい?」があるまで、具体的に、というか歯に衣着せずには書かないとして、
 まぁ、手っ取り早く結論から先に言ってしまえば、

 心のバリアフリーとは? いったい? どんな所作なのだろう?

 で、ある。結論だけ書くとなんだか虫酸が走るような気がするのだが、、、さて、
「そんなの関係ねぇ」について禁止する親というのは枚挙にいとまがないだろう。
 でも、「フランチンでは笑ってはいけません」という親がどのくらいいるのだろう?
 僕の少し考えすぎなのかもしれないのだが、、、
 年末ぐらいから、そんなことを考えていて、年明け早々、言い方は不謹慎だが、渡りに舟。
 さっそく、福祉について考えるにいたるの巻である。
 と、いいつつ、僕自身、「頭の不自由な方」なのだからなんだか、、、
(僕が言うと冗談に聞こえないのが恐いのであるが)
 話を戻そう! フランチンについて、笑いたければ笑えばいい。
 しかし、あなた自身、出来ないことや失敗したことでフランチンの様に笑われても仕方ないと言うだけ。まあ、当たり前といえば当たり前。
 でも、反語なんだけどね。

2007年09月30日

未開と文明

これらの調査を比べてみて、二つの結論を導くことができる。白人は社会科学に頼っているが、インディオはむしろ自然科学を当てにしている。第二に、白人がインディアンは獣だと宣言しているのに対し、インディオは、白人が神かどうかを疑ってみることで満足している。どちらも同じように無知に基づいているが、後者の遣り方のほうが、明らかに、より人間に値するものであった。

『悲しき熱帯I』中公クラシックス p116
 以前、読んで気にかかっていた一文。備忘録。

2007年09月23日

ココに注目!

陰は女、陽は男である故に、胎には八葉にかたどって、八人女(やをとめ)として八人ある。(こん)には五智、男につかさどって、五人の神楽人(かぐらうど)といえるののはこの故である。

「大神宮の御事」『沙石集』『変成譜』p115

「陰は女、陽は男」というカテゴライズは金剛、胎蔵という両部の曼荼羅にもあてはまる。
 胎蔵界は女、金剛界は男というカテゴライズから、神楽の「八人女」「神楽人」の説明に発展する。

「陰は女、陽は男」というのは「陰」がネガティブイメーヂであることによる嫌悪や、このようなカテゴライズ自体を否定するような論調もあるだろう。
 しかし、東洋的な思想として陰陽和合してはじめて秩序がうまれるという考え方がある。
 つまり、、、アレ? 型ハメになるな、、、以下、保留。

2007年09月17日

肉の性差、媒体の性差

 媒体の性差、あるいは、媒体としての性差というのは難しいのかな?
 ようは、享受する側にあるものなのかもしれないけど、、、
 媒体の性差は、肉と内面の両方からつくられるものだよね。
(なんか変な文体だな!)
 つまり、私は、媒体の性差というものがあって、ある意味で肉の性差以上に重要な意味を持っているような気がするの。
 それは、ある性(「男」でも「女」でも、それ以外でもいいのだけれども、、、)であることを人文学・社会学的なものにしてくれるんだと思う。
(接続詞が多いのは内容がない証拠よね)
 肉の性差と同じように媒体の性差も多様性を保証するカタチで、多様に存在してもいいのではないだろうか?

2007年09月10日

テロとプロトコル

 暴力にメッセージはない。
 では、なぜ我々は911をテロというメッセージのある暴力と認めたのか?

 ここには、暴力をメッセージとして解読するためのプロトコルが必要となるだろう。

 管見、このプロトコルとして有力候補に挙げられるのは欧米の娯楽映画のようなものを思うのは中東文化に無知すぎるであろうか?
 なぜ、欧米文化をプロトコルとしてテロは選んだのか? 深く考えてみてもいいのではないだろうか?

来年までの宿題

 これを入れて、あと2つ入れたら鎮魂モードで911をむかえよう。

 カウンタとテロという分け方はテロをソトに追いやってしまう。
 つまり、ウチ(カウンタ)とソト(テロ)という図式は、テロを孤立無援にして増長させてしまう事にはならないか?
 図式を簡単にしてしまうことは、一概にいいこととは言えない。

 カウンタとテロという概念をのりこえるためには、柳宗悦の『南無阿弥陀仏』のようなのりこえ方をするのだが、まぁ、それは来年までの宿題と言うことで、、、

2007年09月09日

カウンタとテロ

 どーも、有害情報です。

 テロが存在するからカウンタ = 相手方が存在するわけではない。
 カウンタが認知して、はじめてテロは存在し得るのである。
(逆に認知しなければテロは存在しないのだが、問題発言)
 えっと、つまり、テロと呼ばれているものは暴力である。
 暴力そのものには、何もメッセージはない。

 対テロとはカウンタの認知の問題だと思うのだが、、、

2007年09月07日

1つっこみ!

 久米仙人か! (タカトシ風)

 ここ2、3日、絶不調。
 つまり、他人をおもんぱかるだけの精神的、余裕がない。

 ダメだね。1年前の記憶がよぎる。

 2006年。戦後はこの年に幕を下ろす。
 2007年、現在。我々は「ポスト戦後」(「名前はまだ無い」くらいの意味だろうか?)を生きている。
 我々の一挙一動が「ポスト戦後」レジームを決めていくと言っても全然大げさではない。

2007年09月05日

強肉弱食の証明

「あたりめ」食べてて、ふと。
うめ〜っ!

アミノ酸がうまみ成分なのは強肉弱食の証明にほかならない。
草だけ食べるならアジなんていらない。
タンパク質という不利なものを食うせめてもの救いだよね。

さて、私はいったい何学者?

2007年09月04日

適合手術

切除されて

 いや、雑誌立ち読みしてて、こんな本があることを知る。
 なんか他人事に口をつっこんでいるようで後ろめたいが、性同一性障害の人に考えてもらいたいナ。

 いづれは、オバサンかオジサンにならなければならないとして、一時かもしれないの違和感のために後の可能性を捨ててしまうこと、生物学的な神様からの授かり物を捨ててしまうことが正しいのか?
 性の多様性ってもっとあってもいいんぢゃないの? ここがネオフェミの始まりだったり、、、

2007年08月31日

9月1日だよ。

 こうやって、季節が一巡りし、また、9月1日がやってこようとする。
 一番言いたいことだけが、ただ、言えないようで、空を見上げた。
 今は、ただ、ここからこうやって伝えることしかできないのだけれども。
 でも、、、

 関東大震災 - Wikipedia

「影響」の自警団云々の記事。こんな内容だったのだろうか?
(と言いつつ、記憶は嘘をつくからね)
 何故かそこにこだわりつつも、1年前から何も進歩してないや。(恥)

2007年08月27日

鎮魂と平和

 こんなに同義の言葉のように思われていて相反する言葉は無いように思われる。
 端的には靖国問題。鎮魂のために世間が乱れるのである。
 はたして、本当に鎮魂とは平和と相容れるタームなのだろうか?

戦争と構造

 当面、テロ論をやりたいのだが少し広く、、、
 沖縄での集団自決について軍の関与があったのかどうかが教科書にいかに記載されるべきか議論になっている。
 しかし、これはさほど意味のあることには思わない。

 なぜなら、戦争というものが一視点的な構造を強要するものであるからだ。
 つまり、結果的に沖縄の人々は集団自決に追い込まれた。これは、紛れもない事実であろう。
 なぜ、自決という結論に到ったのか? それしかないように、全ての人に思われたからにほかならない。
 戦争は、極端にマイノリティーを排除するのである。
 軍の意志でも人々の意志でもないところで、構造が自決を導いたのである。
(まぁ、しかし、最終的な責任は軍が負うことになるのだろうが?)

2007年08月22日

911に向けて

911がテロでなかったとしたら?

「対テロ戦争」とは? どうなる?

そもそも「対テロ戦争」って言葉自体、事実を言い得てないよね。

さて、どうなる。