生きることの残酷さ
エンターテイメントと学術の共通性は、エンターテイメントの頂点を「アカデミー」と呼ぶことからも判るように、、、と、回折格子が止まらなくなってるのだが、あの「入り江」が血に染まっているところで、一変される。
あの入り江が血に染まった映像を「残酷」だと思う?
屠畜場(とちくじょう)では、もっとたくさんの血が毎日流れているのに……
牛はステーキになるために飼われているから残酷ではなくて、イルカは天然に生きているものだから残酷だという議論が解らない。
生きると言うことは残酷で、ゴマ粒2つにだってタマシイがあって、そのタマシイを自分の糧にすることが生きると言うことだ!
ゴマ粒を食うなとか、牛を食うなということが言えるのだろうか? いえるのは、アイツだけだ。こういう議論が見えなくなるのは「都市化」のせいでもあって、何を食べるのにも、その食べるものが発した「断末魔」を聞かなくても済むという不思議な状況がそうさせている。
昔「弥生体験」というのがあって、石器で食材を切ってみようというのがあった。野菜は、まあ当たり前。でも、肉や魚は、変な言い方だが、わずかながら「アンモニア臭」がする。魚屋さんのそれ、といってピンとくる人も、少なくなっているだろう。まあ、不愉快なにおいが、そこにはあるんだわな。
最初「やっぱ野菜、切ってた方が不快ではない」と思ったんさ、でも、それは愚かな考えだと思う。つまり、「生きることは残酷」なのである。
逆に「鶏をつぶす」くらいのことをやって、初めて「弥生体験」なのではないか? と思うようになった。(と、いいつつ、つぶした鶏は食べたことがないな。釣った魚は食べたことあるけど)
そう考えたときに「入り江」のパロディーとしての「柵(さく)」という屠畜場をあつかった映画は、相応にパンチのある映像だと思う。(結局、ドヤ終わりなのか、、、)
昔『もぐタン』みたいな科学系アニメがいっぱいあって、その中で、水産業も「栽培漁業」に転換すべきで、その中でイルカはシープドッグ的な役割を果たすのかもしれない、というような内容の番組もあったんだよ。
イルカには、言語もあるし芸もできる。その「芸」について異論を差し挟むことは、そのような可能性もリジェクトしてしまう行為であるということに、本当に気づいているのだろうか?(まあ、シープドッグが「野蛮」であるという考えもないわけではないわな)
本当に、異文化を理解できない以上に、生半可な知識で否定する民族性って理解できないって、バリ、異文化が理解できてない、、、