大賞!
さあ、いよいよ大賞の発表です。
さあ、大賞は、今後の展示の期待も込めて、
『日本瓦の基礎知識』(高浜やきものの里・かわら美術館)
です。
有名所が出たり、お金かけた展示は、別にウチで評価しなくても、他所で評価されるだろう。しかし、機転をこらした展示や、館蔵品を新たな視点から見せる展示の評価は、ウチの得意とするところ(?)なので、、、まあ、やっぱ、『美濃の古瓦』は、見たいところですね。といいつつ、『美濃の古瓦』が見れないのは、ウチの怠惰のせいでは? という話を、、、
隋様式として山田寺系統の重圏文単弁瓦を考えてて、その隋様式の国風化として坂田寺形式の素縁単弁瓦を考えている。山田寺形式が、天智朝の瓦だから、その後続の坂田寺系統は、壬申の乱前後の瓦と考えられると思う。
だけど、坂田寺の瓦と奥山廃寺の単弁の前後関係は、もう少し坂田寺の精査が必要かな?
いや、ある意味、壬申の乱のレクイエムとして国風化された単弁瓦が生まれる気もする。
同様に、パルメット文も、重圏文を持つことから、天智朝の瓦だと考えてて(これは当たり前か、、、)666年という記年は、その年代と相反しない。
あの弥勒菩薩を考えるときに、薬師寺の尊像はものさしになるだろう。
主要な金銅仏は本薬師寺から移転していると考えていて、聖観音は足の所の左右に広がるヒダが飛鳥様式を残しつつ、その肉付きは白鳳期の、それに近い。金堂の薬師三尊は、白鳳期、つまり、天武・持統朝の段階で造られた、初唐(並行)の末的な尊像だろう。
そこに、弥勒菩薩を当てはめると、半跏思惟という形式は飛鳥的な要素で、白鳳的な肉付き。これは、記年の666年と相反しない。
逆に言って、大正期に弥勒菩薩が新造されたとすることは、当時の形式学から言って、ありえないと思う。野中寺、もしくは、その周辺に弥勒菩薩像は伝世していたと考えたい。
銘文のみを大正期に刻んだとするのも考えにくい。やはり、この菩薩像を「弥勒」と認識するのは大正期では早すぎる。大正期であれば「救世観音」と刻むのが妥当であろう。
逆に大正期に銘文を刻んだとすれば「中宮天皇」は「推古」を指すと考えられ60年前の606年の作となり、銘文が後補であることは、あきらか。
「推古」であれば、なおさら「救世観音」としないことの不自然さは顕著になるだろう。
まあ「栢寺」が何を指すのかは置くとして、弥勒像・銘文とも、当時のモノと考えた場合「中宮天皇」が誰を指すのかは気になろう。
「宮」が「大兄」の異体字とも考えられるのかもしれない。しかし、666年は天智称制の時期で「中大兄皇子」は天皇ではない。また「中宮」は「皇后」に並ぶ天皇の后の称号で「中宮天皇」は女性を指すとも考えられる。
あるいは天智の妹、天武の姉である「間人皇女(はしひとのひめみこ)」を意味するのではないだろうか?(詳しくは『天上の虹』白村江の戦い前後参照)
間人皇女は孝徳の皇后に当たる。
また、天智朝で「天皇」の称号を使うことにも、違和感があろう。
しかし、この時期の対外情勢を考えたい。白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れ、天智は内陸の近江・大津に遷都する。対外的に「天皇」のような強い字面を使えない時代だと考えたい。
しかし、法隆寺金堂の尊像の蓮華文を見る限り、単弁の隆盛の時期(隋様式期)に、その造仏のピークを考えたい。舒明~天智朝の段階で焼失以前の造仏の可能性がある。(あるいは造仏にかかわる鋳造の火の気により伽藍が焼失しているのではないだろうか?)
法隆寺の釈迦三尊、薬師如来の光背銘も舒明~天智朝の作と考えられるのではないだろうか?
まあ、「日下(ひのもと)」「天皇」のような用字は、すでに聖徳太子の時代に存在したと考えたい。
それが、天智朝の段階で自粛されるものと考える。
まあ、とりあえずアウトラインだけ、、、