補遺
まあ、江戸時代から現代(大正期)までの古物商の身体検査をおこなったら、たいてい、グレーというより黒なんだから、現物を見て、形式学だったり、金石文学で整合性があるとかないとか、、、結局、鑑定眼なのか、、、
いや、話のなりゆきで、聖徳太子云々になったから「聖徳太子はいた説」を少し書いておこうか? 以前、書いたんだっけ? まあ、いいや。
結局「聖徳太子はいなかった」という説は、藤原不比等の『日本書紀』編纂に対す評価の話だから、発端は梅原猛氏の3部作にいきつく。法隆寺は聖徳太子鎮魂の寺とする『隠された十字架』、記紀神話論『神々の流竄』、柿本人麻呂論『水底の歌』が3部作。
『神々の流竄』の藤原不比等の活躍から「聖徳太子はいなかった」に発展するのなら、『隠された十字架』の存在理由がなくなって、3部作が成り立たなくなる。そのことに気づいた梅原氏は『聖徳太子』という大著を、その後なしている。『聖徳太子』の手法は、その後、梅原氏の法然論『法然の哀しみ』に受け継がれているような気がする。
「聖徳太子はいなかった説」は、すでに多くの研究者に受け入れられているので、まあ、これからの話は、マイノリティーの意見である。
とりあえず『日本書紀』に登場する「聖徳太子」の存在に嫌疑がかけられているので、『日本書紀』を用いない。
用いるのは、
「聖徳太子が不思議なありさまを示された話 第四」『日本霊異記』東洋文庫と、
「四一五」『萬葉集』である。
同様の内容が「推古二十一年十二月条」『日本書紀(四)』p126に記されている。
まあ、『萬葉集』も『日本霊異記』も『日本書紀』以後の作品であるので、『日本書紀』からの引用も考えられるだろう。しかし、中で歌われる歌謡が、それぞれ異なる。このことは、『日本書紀』を祖本と考えるより、3本に共通の祖本を想定した方が合理的だと思われる。ここから、『日本書紀』で作り上げられた「聖徳太子」像、以前に、庶民にあまねく認識される〈聖徳太子〉像が存在したことを意味しているのではないだろうか?
つまり、『日本書紀』に記される「聖徳太子」は過去にいた聖人(せいじん)を任意に誇張したのではなく、庶民に認知された〈聖徳太子〉では、なくてはならなかった! ということでは、ないだろうか?
では、その説話の内容に入っていこう。
『日本霊異記』では、聖徳太子が片岡村で病気で伏せた乞食をみつけ、衣を与える。太子が引き返してくると衣は木にかけられていた。その乞食が他所で死んだ。太子は死者をまつった。後に使いをつかわすと、墓の入り口に歌が書かれていた。「聖人は、聖人を知り、凡人には分からない」ものだ。
この話の構造を取り出せば、「身分の卑しい者の真価を見極めた」とは、ならないだろうか?
これは、「冠位十二階」の構造に他ならない。
つまり、「冠位十二階」の業績をたたえるために作られた説話ということはできないだろうか?
あるいは、蘇我馬子あたりが、自身と浅からぬ血のつながりがある聖徳太子を自身と一門の看板とするために、この説話を作ったのかもしれない。
厩戸皇子に対して思いを巡らすこと、〈聖徳太子〉信仰は、厩戸皇子の生前から存在したのではないだろうか?
少なくとも『日本霊異記』などの典籍をみるかぎり、「冠位十二階」は聖徳太子の業績である(業績と考えられていた)ということになろう。
結局、聖徳太子いた、いないって、馬子と太子の力関係の強弱だから、、、