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アーチストの殺害

 ジョンレノンの命日だから、それについて、なんか書けと言われて、、、
 やっぱ、そういう追悼文は趣味ぢやないな、、、
 ジョンレノンよりは、平山郁夫の方が身近。というと、なんか文化的背景が見えてくるかな?
「ジョンレノンが銃弾に倒れた」より「平山郁夫が事業仕分けに卒倒して倒れた」の方が、自分に身につまされるというと、分かりやすいか?
 ああ、そうかジョンレノンは殺されているんだね。犯人の思想・信条は報道されているけど、それは犯人のキャラクタリゼーションをしているのか? と言えば、否だろう。
 もっと、犯人に何がインプットされ、脳内でどんな化学反応が起こったのか? の方が興味深い。(こう書くと、白々しいか?)
 こういう犯罪が起こると、どうしても「犯人は統合失調基質で、、、」みたいにいわれて、はたして正しいのだろうか?
 例えば、寺山修司は作品の中で何度も自身の母親を殺している。しかし、彼は、その母親と同居していたとも聞く。犯罪が起こらない、けど寺山修司の体内での葛藤は確かにあったとすると、それは健全な精神だったのだろうか?

 そういえば、僕もあるアーチストを殺しているんだった。何度、殺してもアイツは生き返ってくる。何度も何度も、、、
 誰かに、そのアーチストについてどう思うか聞かれたら、僕はこう答えるだろう。
「ああ、彼女は、僕の母親のような存在だよ!」
 そういえば、そのアーチストも恋人と別れたとき、
「恋人という存在から「家族」のような存在に昇華したんだ」
 と、いっていたな。「殺してやりたいくらいに憎い存在になった」って意味にもとれるよね。ただ「金に困ったら、まとわりついてくる存在になった」と言っているようにも思える。まあ「家族」という概念は幻想の一領域だから(「対幻想」は使わない。対幻想と呼ばれるところは、個幻想と共同幻想に弁別できるはず。だから「「家族」だったら○○だ!」は存在することになる)共同体ごとに違うし個人ごとにも違う。
 逆に言えば、リアルに殺してしまえば、一度きりだけど、観念の殺人は、その構造がなくなるまで(あるいは、なくなった以後も?)何度でも、何度でもできるから、それは「恨み」が深いのかもしれない。

 まあ、余談だけど、現実的に殺人が認められるというか、有意義な殺人というのは(ジョンレノンには殺される意味はないと思う、オノヨーコ氏は否定するかもしれないけど、、、いや、犯人が有意義であったか? と言われれば、それは「すごく無駄なことをした」と言ってあげたい)自身の自身による殺害と「子孫を残さない」というネガティブな殺人。誰かの受け売りなんだけどね。。。