非高塚系古墳
古墳時代の中期の古墳って、松阪・宝塚のように1号が前方後円で、2号は前方部が萎縮する。(この萎縮を造出附円墳と呼ぶか、ホタテ貝式古墳と呼ぶか、やっぱ前方後円墳でしょとするのかは、言葉遊びだから今は保留)なんとなく、薄葬令のような上からの圧力を考えてしまう。(その端緒が『日本書紀』に描かれているとすれば注目すべきだよね)
それとは別で、造墓令ともいえる現象があるんだと思う。一般に「有力農民層」と呼ばれる人々の台頭。(雰囲気、ちと早いのか?)
具体的に言ってしまえば、尾張低地部では、海部の古道の古墳群(蜂須賀蓮華寺寺叢・南麻積富士社・込野築山)である。現状から復元できる模式図は画像のようだろう。言ってしまえば、ある尾張低地部(名古屋市内)にあるホタテ貝型の墳丘墓もこの類型だろう。
1段目と呼ばれるところはあるいは基壇と呼ばれる所かもしれない。しかし、現状目視だけで、それを限定するのには躊躇される。ここでは2段築以上の可能性があるとしたい。まあ、2段築目は富士塚としての改変が激しく、その途中に段築の存在するかどうかは特定しがたい。
周溝がどの程度の深さなのかは置くとして、1段目は地表面とさほど高低差がなかった可能性もある。造出部は1段目と同等の高さなのかもしれない。
まあ、ここで問題になるのは2段築目の高さだろう。富士塚に転用されていることから、ある程度の高まりがあったものと考えたい。(つまり「高塚系古墳」な訳だが、、、)しかし、この時代の比較的、規模の小さな古墳では墳丘を持たないものがあったことは、以前から指摘されていることである。
と、ここまで考えて、新聞記事のネット版を見たのですが、なんだ、切り合いか? 切り合いの検出状況は埋土の充填密度によって、どうとでもなるのは、考古学のいろはのいでしょ。それを記者に、うまいこと説明できてないよね。なんか、余計なこと考えちゃった。