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核心3題

 まずは、歌詞の解釈学から、、、
「You were...」


 ねぇ、あっくん。
 今も、覚えているよ。
 あなたの語った夢。
 (@^ω^@)ドゥルルル、、、忘れられないよ。。。

 ねぇ、あっくん。
 もう、1号がいるんだもんね。
 あなたなら、なんて答える?
「私は何を思えばいいの?」

 でも、、、まだ、忘れられないの。


「夢」であるとか「口ぐせ」とか、もろヒットしてるんだよね。宛てずに、本当に、このような歌詞が書けるのだろうか? と思ってしまう。

「BALLAD」


 もう終わったことだから、思い出を書き足すことはできない。
 現在が満たされてないから、思い出は色あせない。

 今、あっくんの夢、見てたの。
 どうしてだろう。涙。解ってるハズなのに、、、
 どんなに遠くても、あっくんのこと思ってる。

「いかないで」「そばにいて」、、、そんな言葉、もう、あっくんには、きれい事でしかないよね。

 この夕映え見てる? あの月影の下にいるの?

「あっくん、どうして? この構造から、解き放ってくれないの!」
 ただ、独り、そっと、つぶやいてみる。

 この詞(うた)が、あっくんに届くといいな(ハート)


 この歌詞で問題なのは、構造からの解放を訴えていることで、実は、そのような内容は一部の人間の反社会性を引き出さないだろうか?

「RED LINE~for TA~」


 有り難い先達のお導きを、いつまでも、大切にしてゆきたい。

 あなたが儚く祈った祈りでも、
 ほら、私が祈り返してあげるよ。
 そしたら、その祈りは、もう虚しくない。きっと叶うから。

 そう、みんな同じ十字架を背負った迷える衆生。

 ねぇ、あっくん。あなたは心を折らないで!
 あっくんの見ている風景。それは昔、誰かが見た風景なのだから、、、


「祈る」は「信じる」行為そのものを指している。信じれば、その祈りは叶う。その確信が、このような歌詞になっている。まあ隠喩的になんだけど、、、

 まあ、popミュージックなんだから、二人称がいて、一人称が二人称に何かを求める、あるいは、与えるという構造は陳腐と言えるくらい一般的なのかもしれないが、それが、ある種の現実とリンクしてしまっている場合、特殊な環境の下にあれば健常な人間でも〈病理〉的な行動をとってしまうかもしれない。このようなことを全否定できるのだろうか?
 ビデオクリップで特に注目されるのは「BALLAD」であろう。
 沢山の送られない手紙は、閲覧されないブログのように見えるの筆者だけではあるまい。「閲覧されないブログ」と表現した瞬間に、そのブログは閲覧されているという不思議なパラドクスを含むことになるのだが、、、いや、宛てて描いてるとしか思えないんだけど。。。