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2012年12月12日

『日本の放浪芸』について考えるのココロだ!

 そうか『日本の放浪芸』に、たどり着くために、そんな紆余曲折を経ていたのか・・・
 まず、話は永六輔氏の『南無阿弥陀仏』から話は始まる。
『南無阿弥陀仏』に小沢昭一が解説を書かれていて(p176)、そこからダイレクトに『日本の放浪芸』にたどり着くのではなく、関山和夫氏『説教と話芸』という本が紹介されている。恥ずかしながら、この時、初めて関山氏を知るのだが、当時、手頃な入門書がないかと探して手に取ったのが『庶民芸能と仏教』であった。
 まあ「手に取る」と言ってもも、当時すでにネット書店の全盛期で、僕の場合はヤマト運輸のやっていた『クロネコブック』から、『Amazon』への移行期間というか、絶版系の本を両方で頼んでみるとか、けっこう嫌な客をやっていた。(ときどき入手できたりするんだよな)
 あと蛇足だが、個人的に故人は敬称略。ある人が参考文献リストで〇〇氏と表記しているのを見て、基本的には個人名には敬称を付けようというスタンス。でも故人に織田信長氏というのはなんか変でしょ? 歴史上の人物だし。そこで、もう大胆に故人には敬称略でいこう立場になりました。

 えっと、なんの話してたんだっけ? そう『庶民芸能と話芸』のなかで小沢昭一の「『日本の放浪芸』始末書」が引用(p84)されていて、ここでようやく『日本の放浪芸』の、すごさというか、存在を知ることになる。(あくまで記憶に基づいて書いているのではなく、図書購入履歴や付せんから導かれる、最も合理的な道筋を示しているにすぎないんだけど…)ちなみに「『日本の放浪芸』始末書」の引用箇所は岩波文庫版のp391。

 小沢昭一の訃報記事のなかで「民衆芸能研究家」という肩書きが附されていたが、個人的には厳密ではないと思う。放浪芸の研究者という方が適切なのではないかと思う。
 そのことに関連して『日本の放浪芸』から、対応箇所を拾えば、
「私の関心は一点、職業芸−−金に換える芸、ないしは芸を金に換えるくらしについて」(p364)
 と言及している。
〈芸〉を金に換えること、つまり衣食住に関わらない所作が〈芸〉であり、その〈芸〉が衣食住を支える金銭に変換される。このシステムが知的生命体として人間が知的営為をおこなって生きていることに直結しているのではないだろうか?
 小沢昭一の放浪芸以外の研究を含めても「人間とは何か?」「人間としての〈楽しみ〉とは?」ということを追求された方なのではないだろうか?

 5年ほど前に明治村で小沢氏の講演が催されたことがあったのだが、都合がつかずに行けなかった。桜を見たと言うより、見れなかったに風情があるとはいうけれども、とても残念なことのように思う。

 まだ小沢昭一と呼び捨てにすることに抵抗があるのは、実感がわいてないんだろうな。

ものがたり芸能と社会
 こっちは放送大学での講義をもとにした、もう少し概論的な話らしい。

2012年12月11日

小沢昭一について考えるのココロだ!

 先にことわっておくが、僕は初代・小沢昭一については知らない。
 これから話す内容も「初代・小沢昭一の語ったことなのでは?」と思われる向きもあるかもしれないが、僕の持っている本には、必ず2代目の、あとがきなり、まえがきが附されているので、これはすでに2代目に関連される事項に僕の中では含まれてしまう。

 やはり初代の真骨頂は役者としてのそれで、僕は2代目が相武紗季さんが介護福祉士か家政婦で主演のテレビドラマで、少しいぢわるなおぢいちゃん役を一度きり、あとは細木数子さんの番組で、ハモニカを吹いてたのしか覚えていない。
 もちろん『小沢昭一的こころ』はネットで聞けるので聞いていたが、ラジオで拝聴するのとテレビで見るのには、いささか違いがある。
 宮坂さん(ある意味、ラジオドラマだったのか?)も好きだけど、年末・年始に放浪芸の話を少しからめる回が好き。でろれん祭文になるのか? 犬が竹カゴをかぶって、弘法大師が「いや「笑」だ!」というのを、実演していたのが忘れられない。

放浪芸雑録』のような大著もあるのだが、ネットで目次を見ると、

第1部 私は河原乞食・考
第2部 私のための芸能野史
第3部 日本の放浪芸
第4部 放浪芸雑録

 とあるので、勝手な解釈で
私は河原乞食・考
私のための芸能野史
日本の放浪芸 オリジナル版
 の3冊を、まず買いそろえた。(今、入試困難なものもあるので、しょせん文庫なので適正価格のものを、いろいろ検索した方がいい)
 先にことわっておくが、民俗というか祭とか民衆芸能については、あまり得意ではない。ホントに、この3冊と、関山和夫氏『庶民芸能と仏教』くらいしか読んでいないし、しかも読んだだけで、実際を見にいくことは滅多にない。尾張万歳(知多)と三河万歳(安城)を数えるほどしか見ていない。
 関山先生が尾張に関係あることもあり、東海圏の芸能についても多く取り上げられている。見ないのはホントにもったいないことだ。
 そうそう写真集として『日本の放浪芸』とDVDとして現在購入可能な『小沢昭一の「新日本の放浪芸」〜訪ねて韓国・インドまで〜』があるので、喪に服さずに正月に見ようかな。鈴鹿の農家の人が集まっての三曲万歳は壮観。

 なぜ、小沢昭一の放浪芸研究に興味を持ったかといえば『日本の放浪芸 オリジナル版』を買ったのが最初になるのではないか? 『日本の放浪芸』を買う10年ほど前に知多で、活字化された尾張万歳の台本を見つけて、もう実演されてしまうと、言葉を聞き取るだけの能力が(文語だから)ないから、それが台本のカタチになると、御殿万歳でも門付けのめでたいものでも、七福神でも神仏習合的というか、仏菩薩、神祇を言祝ぎする修辞に興味を持った。
『日本の放浪芸』を手にしたのは、その影響があるのではないか?
 2007年の正月に読んで・・・と、書いててウソがあるぞ。
 2004年〜2007年くらいまでの記憶って曖昧なんだよな。皆無と言っていい。

 ちょっと思い出してみるので、今日はここまで。

2012年07月17日

【映像展示室】フューチャー・ビジョン3

【第4室】新潮流
 浜崎氏、宇多田ヒカル氏の作品群が注目を集めたのはゼロ年代の事象で、紀里谷氏も現在は「映像作家」の肩書きは使わず「映画監督」としているようで、まあ時代の潮流が10年とかという単位で変化するわけではないのだが、10年代には新たな潮流も散見される。
 現在の時点で今後注目されるミュージック・クリップの芸術運動について概観していく。

 北乃きい氏「サクラサク」2010年『』2011年
http://www.youtube.com/watch?v=NIyJW5R4zco
 最初「HEART STATION2008年」で頭角を現したのではないだろうか? その後、浜崎氏の多くの作品の映像監督となり、今、映像関連の会社の社長になるのか? 武藤眞志氏の監督作品。武藤氏の作品の特徴はグリーンバックの多用。まさにデジタル世代の騎手。10年代を牽引していく作家である。また、普通の人では考えないような奇想天外な演出をおこなうことでもよく知られている。「HEART STATION」でもラストの演出には脱帽した。
 まあ、作品自体はフイルム映画時代からよく使われる手法だが、このような手法がグリーンバックなら、タイミングも演技も関係なく表現できるというような見本市的に展示。まあ、ただ、北乃きいちゃんが好きなのだ。

 Mizca氏「ダメよ♡」2010年『UFUFU』同年
http://www.youtube.com/watch?v=syPqrcBq-9w
 スマートフォン、タブレットPCの元年とも言うべき2010年の作品。
 まあ内容はないのだが、タブレットのタッチ操作を駆使して画面を展開していくだけの作品だが、テクノポップという音楽とタブレットという時代性、近未来感が2010年という年に調和していた作品。
 このような手法は多用されており浜崎氏の「Microphone」にも採用されている。ただ、ナゼかの西洋の演出でタブレット感の存在理由が希薄になっている。

 きゃりーぱみゅぱみゅ氏「PONPONPON(ミニアルバム収録曲)」『もしもし原宿』2011年『ぱみゅぱみゅレボリューション(初回限定盤)(映像収録版)』2012年
http://www.youtube.com/watch?v=yzC4hFK5P3g
 ファッションアイコンとしても評判の高いきゃりーぱみゅぱみゅ氏の「PONPONPON」。新潮流の中でも一線を画する作品になる可能性もある。
 popな色調の中に、一見グロテスクでしかない、骨やのっぺらぼう、目玉などが配置され、独特の世界観を呈している。まあエログロナンセンスというジャンルは以前から存在するのだが、それがミュージック・クリップとしてpopな世界観の中で表現されるのは新しいのではないだろうか?
 このミュージック・クリップの世界観的なファッションアイテムを、きゃりーぱみゅぱみゅ氏が実際に着用しているのも注目される事象であろう。


【第5室】ボカロ現象
 いわゆる初音ミクに代表される音声合成ソフト(商品のシリーズ名からボーカロイド、略してボカロとも通称される)の世界は音楽の享受のみならず生産面にも変化をもたらした。これまで享受者であることを余儀なくされていたエンドユーザーが比較的、低予算かつ低い音楽的素養でボカロを歌わせることができ、かねてからのネットのブロードバンド化による音楽・映像の共有が容易になり商業音楽と肩を並べてボカロが認知・享受されるようになってきている。(バカ丸出しだな)
 ネット上で公開されることから、オリジナルのコンテンツが曖昧になったり発表年の曖昧さも、ボカロの醍醐味なのかもしれない。管見、よく知られているのかどうかも、よく解らないが気になった作品を展示していく。
 ボカロは書誌がよく解らないので、リンク先の解説などでご確認下さい。

sm7902754 【PV完全版】 初音ミクの消失 DEAD END 【MotionGraphics】tw」2008年
http://www.youtube.com/watch?v=Lm0KtK2kbmI
 異本の多い作品。羅列される言語を具現化して、それが消失していく様で「初音ミクの消失」というタイトルの曲を具現化している。
 ボカロという非人間の歌唱という技術と、モダンアートに潜在する既存の形式を破壊するような表現というのがあいまって新鮮みがある。

【鏡音リン】炉心融解【オリジナル】- Meltdown」2009年
http://www.youtube.com/watch?v=hiY9Z3kYAus
 歌詞の世界観が、すごく好きなんだけど、その世界観を朦朧とした筆致が的確に表現している。ボカロのミュージック・クリップは技術的に考えれば当たり前だが、作詞・作曲者と映像監督が異なることが、ままあり、商業音楽が音楽と映像を共通の人格の中である程度、演出するのと大きく異なる。逆に言えば、作家の作品に対する帰属意識が、ある程度オープンであり、二次創作や、あるいは享受に対しても寛容な素地が前提的に存在する。ネットの技術として「オープン・ソース」というソフト(OSやアプリケーションソフト)の開発に関する技術的な部分を公開して関連のソフトの開発に資するシステムも、思想的背景としてボカロの発展に貢献しているのかもしれない。(ほんとバカ丸出し)

livetune feat. 初音ミク 『Tell Your World』Music Video」2012年
http://www.youtube.com/watch?v=PqJNc9KVIZE
 グーグル・クロムというブラウザソフトというかソフト形の検索システムというのかのCMに起用された楽曲。CMは下。
「Google Chrome: Hatsune Miku (初音ミク)」2011年
http://www.youtube.com/watch?v=MGt25mv4-2Q
 千変万化な初音ミクがステージ上で歌い、さまざまな色彩が流れ込む感覚。
 まだ、映像を表現行為として評価すると言うより、ボカロ現象の概説に終始してしまうが、今後、音楽面でもミュージック・クリップの面でも注目される。
 非商業的な、いわゆる「チラ裏(チラシの裏の略で表現がつたないこと、そのことを卑下していう)」的な表現行為が一躍脚光を浴びて、時代の表舞台に立つことも今後、考えられるのではないだろうか?

「【初音ミク】TARKUS/タルカス Orch.+Vocal版【NHK大河/平清盛/ELP/MIKU】」2012年
http://www.youtube.com/watch?v=kwCDWgWM2N4
 おまけ的に。大河ドラマで起用され賛否両論の話題になっている(らしい)。
 こういうパロディというか時代の潮流にあわせた表現行為もまた、ボカロ現象の一部となっている。

【まとめ】
 ネット上はいわば無限の展示室なので、数を多く上げること容易である。またYouTube上にはミュージシャンごとの公式チャンネルが限定的ではあるが存在し、個々のアーティストを概観することは比較的容易である。
 しかし、展示室の作品を数本にしぼって、例えばゼロ年代からの音楽に関する映像表現の概観というと、音楽雑誌がやるの? 芸術雑誌がやるの?
 音楽雑誌も芸術雑誌も取り上げそうで、音楽通はみんな知ってるんだけど、一般までには、必ずしも浸透していない。と言うような視点で作品を集め展示室を完成させた。
 まあでも、昼行灯的なのかな? もっとエッジを効かせてもよかったのかも???

2012年07月06日

【映像展示室】フューチャー・ビジョン2

【第3室】パロディ
 パロディと盗作とオマージュというのは出力の面で似たような体裁をとることから、パロディという行為自体を反社会的現象と見る向きも少なくないだろう。
 しかし、一見して盗作と判るような有名作品に対する、そのような行為は模写とか、それに類する芸術的営為行為と見るべきだろう。(逆に、無名の作品を自作と偽るようなカタチでオマージュするような行為は法律的にも対応されるべきだろう。まあ、最近は、この辺は「破壊的行為」として認知というか許容されるべきという運動がないわけではない)

 宇多田ヒカル氏「SAKURAドロップス」2002年『Deep River』同年
 映像は『UTADA HIKARU SINGLE CLIP COLLECTION+ Vol.3』同年
http://www.youtube.com/watch?v=mlwCZm2MQbQ
 伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」をモチーフに地球の楽園が描かれ、同じく若冲の「動植綵絵」の「老松白鳳図」なんかも伏線としてあるのではないだろうか?
 全国を巡回した展覧会であるプライスコレクション展に関連した『BRUTUS』では紀里谷氏が若冲の作品と「SAKURAドロップス」の関連についてインタビューに答えていた。

 GIRL NEXT DOOR「Infinity」2009年『NEXT FUTURE』2010年
http://www.youtube.com/watch?v=he2G8FbqGtc
 別にジャクソン・ポロックを例に出す必要もないが、ポーリングという表現方法のデモンストレーションのような作品。北野武氏の『アキレスと亀』やNHKの番組『誰でもピカソ』のオープニングでもポーリングの手法が使われている。
 しかし、芸術分野の手法を大衆の大量消費財として昇華しようとした時に、その表現自体がpop(軽妙)であるかどうかは、重要な評価基準になるのではないだろうか? 例えば後に紹介する「PONPONPON」が1つの到達点を示すように芸術と大衆文化、カワイイとグロいが混在する世界から比べれば「Infinity」は通過点であるということが十分理解できるだろう。この辺は「平板なpopアート」に詳しい。

 浜崎あゆみ氏「About You(アルバム収録曲)」『MY STORY』2004年
http://www.youtube.com/watch?v=3Ut8c2HwFGA
「SAKURAドロップス」「Infinity」が外部参照というかミュージック・クリップ以外の芸術作品からのイメーヂの流用であるのに対して、先行のミュージック・クリップから参照を試みたのであろう作品が「About You」。
 意見が分かれるかもしれないが「FINAL DISTANCE2001頃」からのインスパイアがあることは明確だろう。「FINAL DISTANCE」が距離をテーマに〈自己〉の外界にある〈他者〉に対しての見えない壁を表現しているのに対して、「About You」が〈自己〉の完結性というか外部接続が困難な〈自我〉を表現するために見えない壁を登場させている。
 ここで注目されるのが、見えない壁の質感だろう。個人差はあるだろうがガラスと考えるよりプラスチックに近いのではないだろうか? これがゼロ年代の歌姫の特質というと語弊があるだろうか? ガラスの質感の特徴は温度の保持、つまり触れた瞬間は冷たく、触れ続けると逆に温もりを感じる特性があり、プラスチックは冷たさも温もりもなく、ただ透明な物質として、そこに厳然と存在するのだ。ナウシカが王蟲(オウム)の抜け殻を運ぶシーンがあるが、王蟲の抜け殻もプラスチックに近い感触なのではないだろうか? それが何を意味するのか? 宿題にしておこう。
 また、浜崎氏が、まだ評価の定まらない時期(ファンからの評価は即時に下されるが世間的な評価は少し遅れる。たとえ評価が定まっても時間的距離を取ってパロディが生まれるのが常識)に「FINAL DISTANCE」をオマージュする必要があったのか? それは宇多田ヒカル氏にとって「FINAL DISTANCE」が決定的な作品であり、その〈決定的〉性を浜崎氏が必要とした側面が強い。この「〈決定的〉性」とは何か? それを、まだ、うまく説明できないんだな。
 しかし、フルバージョンの2つの作品を見比べれば、自ずと、その共通性と偏差としての差異が見つけられるハズ(まあ、どんなに似ていない作品でも、それはあるのだが)で、ごちゃごちゃ書くのは鑑賞の補助でしかないのだ。


【第3+1室】ダンス部門。あるいは韓流(はんりゅう)に就いて
 いや、ダンスというと舞台芸術の一部として考えられてきたが、ヒップホップ系のダンスについては、アートの側面からは正確に評価されてないのではないだろうか?
 ミュージック・クリップを芸術として評価する場合、これまで一過的な舞台芸術の一部と見なされていたダンスという行為が、肉体を通した表現行為として、また、動画として定着されることによって、新たな表現行為の〈場〉が形づくられるのではないだろうか?
 一方で、韓流(はんりゅう)という流れは、ゼロ年代の〈歌姫〉現象、10年代のAKBグループによる現象と同様に、日本国内での音楽享受史のなかで動かざる地位が存在する。
 韓流のポップス = K-POP(ケーポップ)というと、洋楽的な曲調と日本的なプロモーション活動とオリジナリティーの欠如が指摘されているが(まあ、前評判なんてのは、そういう話を聞いてK-POPを聴きたくなければ聴かなければいいし、好きで聞いているのに、そういう評判で心証を害するのであれば批判を無視すればいいものなのだが)、ことダンスという面においては、オリジナリティーを認めてもいいように感じる部分もある。
 今回は、あくまで日本におけるK-POPの位置づけという観点に立ち、韓国での事象は、補助的に関連する部分のみ取り上げる事にする。

BoA(보아)氏「VALENTI」2002年『VALENTI』2003年韓国語版『miracle(2.5集)』2002年
映像は『8 films & more』2003年(日本語版)
https://www.youtube.com/watch?v=qwNz_anqd2U
 韓流の先駆けというか、ゼロ年代の歌姫現象の一部と考えてもいいのかもしれないが、BoA氏の存在は、その後の韓流の台頭を考えれば先駆的。
「VALENTI」は2002年に日本語の歌詞で発表されるが、当時、まだ韓国国内で日本語詞の歌を歌うことが法律で禁じられていたため、韓国語詞版がBoA氏の訳詞によって発表された。映像は日本語詞のモノと変わらないのでは?
Jewel Song(日本語2002→韓国語?)」のように映像表現によって感動を与えるタイプのミュージック・クリップもある中、ダンスがメインのミュージック・クリップであることに注目。
 90年代からゼロ年代のコーラスグループを概観すると、デビュー当時はダンスをメインにしたプロモートがおこなわれるが、一定の時期が過ぎ知名度が安定すると、ダンスが軽減されたりする傾向があった、日本では。
 BoA氏の場合、比較的最近の曲「COPY&PASTE(韓国語版がオリジナル2010年)」でも、ダンスメインの構成となっており、その後の韓流の歌手やグループもダンスを多用する傾向があることから注目されるのでは?

KARA(카라)「ミスター(MR.)」2010年『カールズトーク』2010年。映像は『KARA BEST CLIPS』2011年
https://www.youtube.com/watch?v=s2EQm6WPMHs
 いわゆる「ヒップ・ダンス」とか「カラ・ダンス」と呼ばれて一世を風靡したミュージック・クリップ。
 脱退騒動とか著名な俳優によるテレビへの韓国文化の急速すぎる流入に対する苦言などの問題から、小康状態の感が否めないが、忘年会でKARAをやるか少女時代をやるかとかで世相の一部になっていたのは、紛れもない事実なのではないだろうか?
 過去の経験を反省して失敗のない未来を考えるのもいいが、ゴリ押しが問題だったから世相的な現象までが「なかった事」になるのは不自然だと思う。
 KARAは韓国国内ではフェミニンな楽曲で、ある程度の人気を得ていたが、KARAの存在を決定的にしたのは「LUPIN(루팡)2010年」ではないだろうか?って、韓国語はわからないので、日本語情報なのだが。。。

少女時代(소녀시대)「Gee」2010年『GIRLS' GENERATION』2011年
http://www.youtube.com/watch?v=mpoKx48WmEM
http://www.youtube.com/watch?v=U7mPqycQ0tQ(韓国語版)
「Gee」の歌詞くらい優れた多言語化の作例を管見、見つけ出せていない。
 脚韻を踏みながら「回避せよ」「恋(こい)ハセヨ(恋なさいませ)」「応答せよ」「バイブレーション(vibration)」と言葉遊びに満ちている。韓国語詞の該当箇所を見れば、「Gee」の歌詞が日本に対して宛てて書かれている事が十分理解できるだろう。
 韓国では「ポピポピ2011年」とか「ウラララ、ラララ2012年」など擬音語・擬態語を越えたような無意味な語彙を羅列して楽曲を成立させる動きが顕著で、韓国国内でも、その運動には賛否両論が存在する。日本で言うところの日本語の変化に対する「間違っている!」という批判に近いのかもしれない。
 この2つの現象は、一見ちぐはぐなように見えて、同根の事象に僕には見える。例えば「恋ハセヨ」と音で聞いた時に恋は日本語読み、名詞にハを付けて恋ハ-ダという動詞にして、しなさいの「セ」、丁寧語の「ヨ」をストッパーに付けて「恋ハ-セヨ(恋なさいませ)」になるという文法解釈を、日本の多くの人はおこなわない。
「恋ハセヨ」の恋が理解できれば、「回避せよ」の「せよ」と似た感覚で受け取っているのではないだろうか?
 このことは逆に、語彙から完全に意味が喪失しても発音学的な色彩のニュアンスのようなモノとして楽曲の語彙が捉えられるのでは? という運動につながる。
 洋楽やK-POPに親しんでいる日本人で楽曲を聞く中で歌詞の世界観まで享受する人は少ないだろう。韓流ドラマでも訳詞がテロップで流れるから曲の切なさと相乗効果を起こしているに過ぎない。

 こう書くと韓国文化に日本の大衆文化が侵されている感覚におちいる人もいるのかもしれない。しかし、それは全くの誤解だ!
 例えば、ゼロ年代の〈歌姫〉の歌詞には共感を抱く人も多く「7回目という回数が絶妙!」という有名な絶賛文も存在するのだが、松任谷由実氏の歌詞に比べて実態が欠如しているとか、具体的な事物に対する言及に乏しいという批判も存在した。しかし、それ以前の歌詞の世界観を改革した事は間違いないだろう。
 また10年代に入ると、ゼロ年代の〈歌姫〉の歌詞の世界観は重厚すぎるが故に敬遠される傾向にある。テクノポップなどの編曲側の特徴に、みんな目を向けるようになり、歌詞は二の次に目されるようになる。90年代がTKサウンドと呼ばれコンピューターで作ったような歌詞と揶揄された傾向の再来とも言える。
 このループって元を正すと、芸術活動で言えば、印象派からポスト印象派、ピカソからジャクソン・ポロックを20世紀、21世紀の初頭をとおして無限ループしているだけだったりする。
 長くなったので、もう、やめよう。

2012年07月05日

【映像展示室】フューチャー・ビジョン

【イントロダクション】
 博物館の要件というのは展示品と、それを並べて陳列する、いわゆるキュレーションと呼ばれる編集行為だろう。
 デジタルミュージアムでは、結局、展示品をデジタル化して現物ではないものを展示するしかないというジレンマがあるが、
 逆に、現物がデジタルデータのものであれば、液晶絵画としてリアルな展示室に展示することも可能だが、図録のような媒体から考えれば、デジタルミュージアムとしての強みを生かせる展示行為がおこなえるのではないだろうか?
 今回はYouTubeのデーターを利用して、大衆芸術(popカルチャー)としてのミュージック・クリップ(PVはプロモーションビデオの略だがビデオというとフイルム式のモノを想像しやすいしプロモーション(販売促進)以上にアート性を高く評価していい場合もあり「ミュージック・クリップ」で統一。商標とかぢゃないよね?)を取り上げてみたい。

 まあ、好きとか印象に残ったミュージック・クリップのまとめ行為である。


【第1室】イコノグラフとモティーフ
 ミュージック・クリップの中でイコノグラフ(図像性)やモティーフ(象徴事物)を多用するアーティストとして浜崎あゆみ氏が挙げられるだろう。(ちょっと映像監督を調べる能力がないので監督ソートではなくアーティスト・ソートで失礼します。)

 浜崎あゆみ氏「Voyage」2002年『Rainbow』同年。
http://www.youtube.com/watch?v=R6VCCQnMH6o
 長編ドラマ『月に沈む』と対をなす作品で行定勲氏の監督になるのではないだろうか?
 サナトリウムで療養中の女性のもとに前世の因縁のある男が現れるというようなストーリーだったような。前世の姫君の名前がズバリ、モティーフになっていたりする。手に入れるには中古になるのか? 再販とか、なさそうだし。

 浜崎あゆみ氏「No way to say」2003年『Memorial address』同年。
http://www.youtube.com/watch?v=PKw-ESc5GW8
 サンタがティッシュ配りしてて、特別な絵柄のティッシュを特定の女の子にあげたいんだけど、、、といったストーリーだったような。公式にあげられている作品はトレーラー(予告編)というかティーザー(じらしのような心理的効果を意図した広告行為)というか、ショートバージョンなのでオチというか結末が思い出せないのだが、こういう全編を通して1つのストーリーの中で提示していく作品が多いのが浜崎氏の特徴。後で述べる宇多田ヒカル氏のストーリー性の欠如と好対照。

浜崎あゆみ氏「Rule」2009年『NEXT LEVEL』同年。
http://www.youtube.com/watch?v=OMBg1VA6xVE
 関係ないけど、ギターのリフがカッコいいよね。
 ストーリー性はないのだが、いわゆる浜崎氏の「一座」という表現が適当な作品。あっ、カギは浜崎氏の作品を通してのモティーフになっているんだな。
 日本式の演出は日本の作品のリメイクの外国映画の主題歌だから、輸出を考えたのではないだろうか?
 浜崎氏の映像美の頂点をなす作品(まあ、これからこれ以上の作品が出るかもしれないが・・・)だと、個人的には思う。


【第2室】ミュージック・クリップ藝術の完成
 やはりデジタル時代にミュージック・クリップを芸術の域まで高めたのは紀里谷和明氏による尽力の賜物なのではないだろうか?(こんな言い方する学芸員もいないな)
 ということで1室、使って宇多田ヒカル氏の作品群の解説である。
 言わずもがなだが、紀里谷和明氏は宇多田ヒカル氏のもと旦那。紀里谷氏はツイッター上でPerfumeのプロモートに携わりたいなどの発言もおこなっている。

 宇多田ヒカル氏「Can You Keep A Secret?」2001年『Distance』同年。映像は『UTADA HIKARU SINGLE CLIP COLLECTION Vol.2』同年。
http://www.youtube.com/watch?v=AwQuXbae3N4
 紀里谷氏の関与以前の作品だが、先行作品として紀里谷氏の方向性も意識づけられる作品になったのではないだろうか?
 近未来ものというか人工知能を備えたアンドロイドが〈母性〉的なモノを求めるというようなストーリー。ヒカル氏の作品にしては珍しく、ストーリー仕立てなのが注目されるだろう。後に紹介する「You Make Me Want To Be A Man」と〈構造〉的に双璧になっているのではないかと考えている。その辺は「You Make Me Want To Be A Man」のミュージック・クリップを参照の上。

 宇多田ヒカル氏「traveling」2002年『UTADA HIKARU SINGLE CLIP COLLECTION+ Vol.3』同年。
 楽曲は「traveling」2001年『Deep River』2002年
http://www.youtube.com/watch?v=Tfc8w6A-f9U
 いわずもがななので別の作品を紹介してもいいのだが、〈宇多田ヒカル〉と言えば「travelingコスプレ」という定番を生み出すまでに大衆に認知された作品。
 一部のファンの間では『メトロポリス』へのオマージュの強い作品なのではと指摘されており、以前「traveling」のコマ割にあわせたトレーラーが提示されたのだが、現在見つけられない。
 他の『メトロポリス』のトレーラーを見る限り、現在、感覚的にSFとされる分野のメジアン的作品なのではとも考えられ、現時点で、その影響関係は留保する。

 Utada氏「You Make Me Want To Be A Man」2005年『EXODUS』2004年
 映像は「You Make Me Want To Be A Man」2004年
http://www.youtube.com/watch?v=ZvviETUQsIs
 アルバム『エキソドス』発売後にシングルカットされた感覚になるのか?
 以前はiTunesでミュージック・クリップをダウンロード出来たようだが、現在、日本のサイトではエントリーされていない。
 キリスト教的な教養と宗教に対する寛容さがないと享受できない映像。
 宇多田ヒカル(名義はUtada)氏の近未来的世界観の金字塔になるのではないだろうか? ロボット化、データー化された身体能力と再生産される身体性。「Can You Keep A Secret?」より明確に子供目線での〈母性〉との対峙が描かれているのでは?

2010年09月17日

代表戦について

 まあ、いまさら代表戦でもないんだけど、マスメディアで争点として取り上げられなかったが「音楽倫理上の利権の取り扱い」というのは、見逃しがたい争点であった。
 まあ、どのみち、この手の話は享受者の認知の問題だから、ないものはないという人には何も見えないことになる。
 候補者は、方や、どんだけ情報が秘匿されていても国民が正確な判断を下すはずだから、国民の多くがミュージシャンを支持する現段階で音楽倫理上の問題は存在しないと言わざるを得ない。方や、国民の1%未満であろうとも、陳情が挙がっている以上、その問題は検討されるべき。だいたい、それぞれの立ち位置はこんな所ではないだろうか? まあ、どちらがどちらの言い分かは、明確にするのはよそう。
 結局、結果として(僕の思惑として)いい方向に転んだのではないか? 国民全体にとって、それが幸福な結論であったかは、国民の1人1人が判断すればいいことで、僕は知らない。だから、僕1人の結論は、いい方向に転んだのである。
 例えて言えば、最小不孝と対に無限幸福という社会構造が存在して、無限幸福社会では、公共の福祉のに反しない限り、どんな人が、どのような思想信条を持っても幸福を得る権利があると考える。
 しかし、最小不孝は、誰かが不孝のセクションを担う必要がある。ある種の思想信条を持って、それが、国民の総意としての感情に反すれば、すなはち、その人は不孝確定である。これは、非常に判りやすい。
 僕も、最小不孝社会には期待したい。思想信条をコントロールすればいいだけの話だから、みなん幸福になるチャンスがある。
 まあ、音楽倫理については、当事者の立場から、どうも戦略的な思想を持って取り組まれているようである。当事者ではない僕が、もう、あまり、どうのこうの言うのも失礼に思えてきたぞ。
 生史君については、もう、痴情のもつれだね。「さよなら」って言葉を知らない女の子に「「さよなら」って言ってないぢゃん!」と腹を立てたって、ボキャブラリーにないのだから仕方ないのでは? と野暮なことを、また言ってしまった。

2010年08月17日

浜崎氏は〈孤独〉なのか?

「あゆ素人なので、タイトルもわかりません。歌詞をちゃんと覚えることができなかったのですが、愛したい愛されたいと思ったときにはその人はいなかった、というような、誰かが遠くへ御隠れになったような悲しさを秘めた歌でございました。」
 たまたま、手元にあった『女性自身2010年8月31日号』の辻仁成氏の1文に目が止まった。「その人はいなかった」の所を「その人の〈心的現象〉が壊れた」つまり「その人は〈病理〉を発病した」としたらどうだろう?
 この1文で浜崎氏の、どの歌なのか見当もつかないし、辻氏が音楽倫理に、どの程度の造詣を、お持ちなのかは置かなければならない。
 しかし「あゆ素人」が行った歌詞の要約が音楽倫理にジャストフィットしていることは見逃してはならない。
 音楽倫理の問題が筆者の単なるミスリードではないことの傍証になるであろう。
 辻氏の文章の中で「孤独」というのがキーワードになる箇所があるが、はたして浜崎氏は「孤独」なのだろうか?
 ドフトエフスキーとか埴谷雄高が孤独だというのは、なんだか判る気がする。なんていうの、思想や哲学の頂点にいる。その難解さ、そのものが孤独なんだよね。
 しかし、浜崎氏の「孤独」といわれるものは、ようは二人称に対する否定でしょ。これは以前、指摘してないか?
「あなたは私の認めた何かではない。だから私は孤独だ!」これって本当に孤独なのだろうか? やっぱ、こういう書き方をすると、白痴は孤独になってはいけないと聞こえるかもしれないが、浜崎氏の孤独は、ともすれば商売になっているのである。文学でありエンターテイメントでなければならないハズだ。孤独の質が問われるのは、かえって当たり前である。
 浜崎氏の〈無謬(むびゅう)性〉を信じて、浜崎氏の歌詞世界に溺れるのは自由である。しかし、浜崎氏の「〈あなた〉を認められない」という〈孤独〉という特異性に着目して歌詞を資料操作するのも、また独特な味わいがあるであろう。
 また某氏に先んじて書いてしまった。

2010年08月10日

ネットの不可能性

 そうか、半年後には、名実共に浜崎氏が歌姫の頂点に立つんだな。そう考えるとワクワクする。
 まあ、某氏のコメントを待ってウチのコメントを考えてもいいんだけど、まあ、いいや。
 僕の考えは生史君に近くて「表現者が表現を(一時的に)捨てるということが理解できない」なんだろう。でも、なんか〈自己優勢性〉なんだろうな、生史君に「彼女は君の持ち物ではないのだから」と野暮ったいことを言いたくなる。そんなこと百も承知なんだろうけど。
 なんていうの何らかの活動をして対価を得るという行為が「社会と関わりを持つこと」という意見もあるだろうし、逆に、それは洗脳的なステレオタイプなのかもしれないし、、、
 まあ、ネット上でできることって限られてるからね。
 最後の最後は現実的・物理的に直接アクセスできる人しか救ってあげられないこともあるから。例えば某氏が粛清されたといっても「言論上の脅威だ!」とは言えても、実際問題、ウチは某氏の全てを引きうける訳にはいかないから、リアルが、そう決めたことだから受け入れるしかないわけで、、、
 まあ逆に、そういうリアルな不可能性が嫌で、全てを〈媒体化〉してしまうことも可能だったハズで、、、話ズレてない?
 話もとに戻すと、宇多田氏の休業というのは、生活権の保全という側面と原状回復費の使い込みというパラドクスが存在しないか?
 それと新曲に対してレ○倫や著○権協会がOK出すかな? たぶん神曲「MOON」は告発前だよね。
 まあ、音楽の歴史考えたら「放送禁止」というのは音楽のつくり手ではなくてマスメディアの方が判断を行ってきた訳だし、今回も、そっちで流れてるのカナ? まあ、ウチはウチとして存在するワケだし。。。
 休業の言い訳なんて、たいてい後付けでさ、もっと別の次元で自分の中で歯車がかみあって「やめた!」になるんだけど、少し、その言い訳について。
 人間の不完全性って将来の拡張への担保だから全否定って可能性をうばうことだと思う。別に真円になりたいと言っている訳ではないのかもしれないけど、、、「傷つけちゃった」「まだ継続中なんだよね」も含めて、人格であったり、その人らしさなのでは? 別に、そんなことは言ってないか。

2010年05月26日

〈無償の愛〉?

 あの西村氏の発言って〈読み〉ようによっては、ヒカルに対する〈無償の愛〉だよね。やっぱ、誠意という名前のお金が目当てなのかな? 僕には西村氏がそんな人間には思えないし、西村氏の論破の仕方で勝ち取れるものでもないと思う。
 政府だってシベリア抑留の保証云々で、ほとんど屍にムチ打つようなこと平気でしてるもんね。あの程度の「汚れちまった哀しみ」くらい、と、ふとムキになってみたくなる。
 だから、つまり、西村氏は宇多田氏のこと好きなんだよ、たぶん。(厨房の冷やかしチックではあるが、、、)
 先日、浜崎氏が「重大発表があります」って言うから、いよいよ参院選出馬だなって思ったんさ、そしたらシングルの発売だった。もう、そこまで、状況は悪化してるんだね。音楽家が音楽発売することが「重大」なんだよ。もう。
 今、参院選出とくと、あとあと楽なんだろうけどな。若輩だから何も知らなくても当たり前だし、40過ぎてから政界進出して何も知りませんぢゃ目も当てられないもんね。3年、参院で勤め上げて、衆議院に鞍替えするんさ。もう、たまんないね。
 知恵袋見てたら、


 ある日、とても思いつめた顔で相談されたのですが、内容が荒唐無稽でとても信じれる話ではありませんでした。

 自分はとても有能であらゆる人から狙われている。
 政治的な思惑もあり、自分を消そうとして暗殺者が動いている。部屋中に無数の盗聴器、カメラが仕込まれている上、真上の階の部屋には常に情報を聞きだそうとするやつが潜んでいて安心して暮らせない。
 そんな自分を救ってくれる○○(女性アイドル)との恋路も邪魔されている。

 他にも色々ありますが要約するとこんな感じです。彼の話ではもう10年以上前から上記のような事が起こっているようです。


 こんなことは、ざらにあるんさ。しかし、アイドルの名前を伏せられてしまうと手の出しようがない。しかし、このような事例を管轄するセクションがあれば、対応できるかもしれないし、論破のしようによってはビジネスチャンスかもしれない。

2010年05月19日

あとは享受者の問題だから、、、

 木村カエラ氏の着信音を聞いて「雨上がりの風」を聞きたくなるのとか、「金魚花火」が、坂本氏や久石氏を彷彿とさせるというのは、なんか、もう、かわいらしいもんでしょ。まあ原曲が思い出せないというのは、享受者の知識というのもあるのだけど、逆にハンカチ落とし的だとすると、それはまあ、オマージュではないわけだから、考えもんなんだけど。。。
 まあ、いいや。
 結局、コレまでの話って、最終的には、ウチを見た享受者が何を再生産するか? という問題に行き着くんだわな。
 まあ、取り得る行動というのは、以前、どっかで書いたかもしれないけど、
(1)相似(2)相反(3)展開(4)飛躍(5)誤謬(6)無視
 だったか? くらいしかなくて、この場合、無視することは、とりもなおさず相反だから、、、ね。
 なんか、荒れる予感というのもないわけではないが『白瑠璃の碗』が脂のってきたから、カンベンして欲しい。ぶっちゃけ。。。

 ああ、享受者に対して配慮が足らないな、、、とりあえず以上で、、、

2010年05月17日

〈自己優勢性〉

 結局、こっちでコレ始めると、こういうことに言及しなくてはならなくなるから、アッチでやりたかったんだけど、門前払いだったから、結局、こういうことを書き進めろと言う、啓示なんだわな、、、
〈病理〉で一番、特徴的な症状を書き忘れた。それは〈自己優勢性〉と名付けてもよいのではないだろうか?
 つまり、これだけ似通った〈病理〉の状態があると説明したところで「オレは、あいつらとは違う!」という強い主張である。時には〈病理〉になる自分こそが〈優勢〉で、発症しないのは〈劣勢〉であると考える事まである。
〈自己優勢性〉こそが、この〈病理〉の救済を、ある意味、難しくしている。たぶん、カテゴライズされた瞬間に〈病理〉は反発するのではないだろうか?
 だけど、歌謡曲のスピンオフとして〈病理〉が存在する状態を続けたいのか? そりゃあ、真っ正面から、取り扱うのは貧乏クジかもしれない。しかし、ある種の人たちには、何らかのビジネスチャンスのような気もするが、、、

2010年05月15日

〈病理〉の〈心的現象〉

 まあ、この前までは〈病理〉が享受するであろう媒体の分析をやってたんだけど、逆に〈病理〉の〈心的現象〉って、興味ない? おおよそ、このような〈心的現象〉が考えられるのではないか?
(1)懐疑
(2)妄想・重圧
(3)躁鬱
(4)憎悪
 およそ、このような〈心的現象〉が考えられて、ほぼ、この推移でいくのではないだろうか? つまり、現在〈憎悪〉の〈心的現象〉が現れているとしても、そこにたどり着くまでには〈病理〉の心の旅というのが想定される。
 また(1)~(3)までは(4)に比して比較的、短い時間で推移するように思われる。(4)は非常に長い。はたして、4~5年というオーダーで解決するのだろうか? 10年~20年、あるいは一生涯、〈憎悪〉の念を抱いてゆくのかもしれない。これは、一部の〈犯罪被害者〉の加害者に対する〈憎悪〉の抱き方と似ている。まあ、よく考えれば構造的に相似な訳だわな。
 まあ、現代のようにデータがネット社会の中であふれているのかで、未必の故意としても、故意に〈病理〉を生み出そうとすれば、それは加害者に対する〈憎悪〉を得るためにした行為としか考えられない。と思う。つまり、アイドル歌手が、何らかの〈洗脳〉で〈病理〉的な状態を導いて、好意を得ようとしても、それは、ほとんど必ず逆の意思として結実すると考えられる。
 すでに〈妄想・重圧〉期でも、その治癒・改善には相当の努力が要するわけで、〈懐疑〉段階で、いかに早く発見し治療・改善するかが〈病理〉に対する社会的取り組みとして、必要なことだと思われる。

2010年05月13日

ジレンマ

「音楽倫理」と言っておきながら、はたして〈病理〉のない世界を、僕は望んでいるのだろうか?
 あえて〈病理〉という言葉を使わせてもらうが、あくまで彼らの中にも〈心的現象〉と言うのがあって、現在の状態ではない別の〈社会構造〉があると考えているという意味で、適切な言葉があれば、その言葉を使いたいくらいだ!
 で、なんて言うの、研究者というのは類例を重んじるわけで、類例のないもの、つまり、カテゴライズされなければ、そのものに対する学術的研究というのはないわけで、その意味で、研究者は「常に類例を求める」訳だわな。
 だったら、「だらしない音楽倫理」で、類例を多発するような〈社会構造〉が、研究者の求める〈社会構造〉なのかもしれないと思えてくる。
 確かに、浜崎氏、宇多田氏以外の類例(あっくんは大塚愛氏にも、そうなのか? 倉木氏にも?)を求めているし、発症以前から書きつづられたブログというのを発見してみたいとも思うわな。
 しかし、研究対象に畏敬の念がないと言えば嘘になる。それは現代社会が直視せざるを得ない存在なのであるから。

2010年05月12日

日本音楽倫理審査会

 うわぁ~~っ、貧乏クジだ、、、
 あくまで「言葉狩り」をするのではなくて「アーティストの将来を守るため」のようなニュアンス。
 レコード協会の中に「レコ倫」はあるみたいなんだけど、ホームページもなんにもない。
 映倫みたいに第3者機関でもなくて「この辺から、こうなったらヤバくない?」と各レコード会社に言うだけなんだって、それとは別に、アーティストより上の人が「ゴメン。レコ倫が手直しシロってさ」と、言葉狩りをする時にも便利に使われている組織だそうな。
 いや、西村氏にも顧問になってもらいたかったんだけど、小我が強すぎるって言うのかな? もっと、権利侵害的な状況の普遍性に目を向けてもらいたいんだけどムリだね。
 そのカウンタでアーティストというか芸能人の〈無謬(むびゅう)性〉を信じ切っちゃってる人がいて、見てて痛い。それって、ファンにとってもアーティストにとっても損だと思うんだけど、、、
 I(ハンドルネーム、ぢゃなくてイニシャルね)氏が「アーティストをもっとよくするための議論をする場がない」ということを言っているんだけど、かくして、僕はアンチに成り下がるんだわな。

2010年05月09日

AAA

 仮に浜崎氏がウチのこと知ってるとして、彼女の言動からしたら、ウチのこと相当、憎悪してるよね。そこまで馬鹿ぢゃないだろ? そこ「相反」で返したらだめなところでしょ? 調べたら、やっぱ怪訝に思ってる人がいて指摘してたわ。別に関係ないけど、、、

 AAAの新曲がいいって話だったのでMJ見たらやってたので見てみた。えっ? コレ、小室氏? って感じ。小室氏をよく勉強した、ゴーストなんぢゃないかな? なんて言うの往事の「時代との同期」的なリズムがない。平板。
 よっぽど「サクラサク」や「Uh Uh」の方が小室氏的。なんか、そう言う意味で、聞き比べるといい作品だよね。
 なんて言うの? ある意味、新曲を作ると言うことは、彼にとっては過去の自分を敵に回すことで、どっかで、過去の栄光にしがみつこうとしているというか、きちっと、自分というモノを見つめ直して、過去の自分と対峙できていない気がする。
 まあ、ブランクの分の穴が埋め切れていないという表現の仕方をする人がいるかもしれないけど、それは違う。ブランクがあくには、それなりの元凶があったのだけど、それもとどのつまり、小室氏が自分と対峙できていなかったということにつきないだろうか?
 どういう精神状態にいるか判らない人に、こんなに厳しく言っちゃいけないんだけど、、、

2010年05月05日

かくして薬害は広まる

 ここで副題発表「音楽のニルヴァーナ」別にニルバーナでもアポトーシースでもいいのだが、ニルヴァーナ。固有のバンドを指す言葉ではないんだけどね。
 あの「いつ会う?」というのも不思議だよね。まがりなりにも音楽やってるんだろ? 友達の友達の、、、友達が目的の相手とか、リアルなコネクションは考えないのかな? 自分がめぐまれた環境にあるから、そう思うだけなのかな?
「Lady Dynamite」
「Sexy little things」
 もう意訳すると体を為さなくなるから止めとく。なんて言うの? 日本の深夜にやってる米国ドラマみたいな感じ。それも20年くらい前の。
 フェミニストになっても幸せにならないぢゃん! プン! 的な、今、思うと1種の〈勘違いをした女性〉これを難なくこなせるのは、1種の独壇場だよね。「なんとかの空」なんて、額田やえ子が松金よね子氏に言わせるような台詞だよね。
 これも「そ」の音が「と」に聞こえて、そんな諺、知らないな、、、と思ってしまった。意外に歌詞カード読まない人なんだよね。
 ミュージッククリップ、いっとこうか?「Sexy little things」最初のコンセントから血が出るのって意味不明なんだよね。あえてのグロにしてもレゾンデートルが感じられない。1種のロンドン風なのかな?「Microphone」と1倶なつくりなんだけど、1種の出オチ。いや、たぶん「rule」に1種の頂点があって、あえて、その頂点を捨てた「0」をなんか表現してるから「0」なんだよね。あれだけ、ごちゃごちゃしてても、たぶん「0」
 逆に言わせてもらうと「Lady Dynamite」は可能性を感じるね。本編とメイキングが、ひっくり返る瞬間が、たぶんその先にはある。たぶん浜崎氏は、それに気づいてて、あえての押しなんだと思う。
 でも、なんて言うの「芸能界」というのはイジられてナンボの世界なのかもしれないけど、あのイジりの下品さって、本人が気づいていない分だけ悲しいよね。それを誰も指摘できないのか? あえて無視してるのか? 影響力のある人たちだけに、笑いにも品性をもってもらいたい。

2010年05月02日

著作権者って、、、

 あっくんに、変なムシがついちゃってさ、ネットにおける権利侵害というか、誹謗中傷の好例と言ってしまうと、被害者に失礼か?
 なんかいかにも浜崎氏が著作権者で「悪」だ的な言説に聞こえるかもしれないが、それは、そうではない。
 というのは、音楽著作権の特殊性があるからだ!
 音楽著作権協会が委託を受けているという状況を見逃してはいけない。
 たとえば、ある楽曲が〈病理〉を引き起こすトリガーとなっているとしたら、それは協会に、その責任があり、そのような〈病理〉が発展しないように策を講じる責任が存在しないか? 協会が〈病理〉に対して社会活動ができないだけの保証をしないといけないのではないか? そんなに不思議な話を、僕はしているのだろうか?
 そりゃあ、創作者には創作者の責任があるさ、その創作者をプロモートする企業にも、もちろんだよね。
 しかし、権利を委託管理されている組織がある以上、〈病理〉のような状態を最小限にとどめる責任を協会が持っていると考えるのは間違いぢゃないだろう。

2010年04月30日

ハマヲタがエリカ様移籍を感謝しない件

 どうして、ああも無自覚なんだ? もっと社長に感謝すべきだろう。
 そもそも、エリカ様の移籍の利益を一番に享受するのが、ハマヲタ自身であることに気付いていない。末期症状だよね。
 よく考えてもらいたい。安室氏~ゴマキ、ガルネクがどこに所属しているか?
 そして、彼らの過去の影響力というものを、、、
 歌姫というマーケットが厳格なヒエラルキーを持っているのは明らか、そして、そのヒエラルキーを担保している組織・構造を考えたら、ハマヲタは、誰に何を感謝すべきか判るだろう!

 やっぱ、「ゆとり」って、、、

2010年04月29日

媒体としての氏

 耳が悪いのか滑舌が悪いのか、最近歌詞が聞き取りづらくてね。「きめられたルール」とか「きれいな足跡」とかの「た」の後の「ル」とか「き」の後の「れ」とかが「ら」に聞こえる。口を大きく開けた後の、少しすぼめる音なんだよね。歯のかみ合わせがうまいこといってないのかな?
「Last Links」


本当に この星に〈愛〉は残っているの?
だけど 続けないといけないんだね

「Don't look back」

どうして、今が1番ぢゃないの?
どうして、過去はあんなに、まぶしいの?
でも、どうして、進むべき道は決まっているの?

 なんか、こう並べると相似に見えるでしょ。氏の映像表現の中で、媒体としての〈浜崎あゆみ〉に対して、傷つけるような行為が目立つんだけど「Don't look back」は、さすがに飽きたという感じ。
 極初期から〈あゆ〉と〈浜崎あゆみ〉がいて、、、という話は、氏の話の枕なんだけど、結局、媒体としての存在と、個人的な存在が乖離しているという状態を演出したかったんだなと今は思う。
 まあ、ツイッターって媒体が氏の思考スピードに適しているのか?(普通、10万人の話はいっぺんに聞けない)という問題はあるが、その受け答えは、凡庸そのものだ。これも「普通です」を強調する商法なのかもしれないが、それ以上の凡庸さを感じるのは筆者だけだろうか?

2010年04月28日

レトリック

 なんなんだ? 鼻血、出したおっさんがカワイかったってなんの報告なんだ?
「count down」


 私には何の感情もない。無表情。
 さあ、終焉の開始よ。

〈病理〉にとって「終焉」も「開始」も禁句である。それをあたかも「どん底」という概念から、その対比の「シャングリラ」を提示して、「シャングリラ」→「どん底」そして、そこからの浮上という一見技巧的な構造でオブラートにくるんでいる風というのが、なんか鼻につく。
 現状からの逃避というのが〈病理〉にとって不可欠であることを利用して、スパイラルに苦しめているのだ! 〈病理〉について記号としてしか知りようのない〈過去〉ならまだしも、研究対象にできるくらいの情報があふれている中で、このような言動が、はたして節度あるものとして許容されるのだろうか?
 それにしても、ツイッターはじめて、つぶやきかければ、いいようなものだけど、なうで楽しんでるね。もう、それほどでもないのかな?
「meaning of Love」

「あなた」を〈あなた〉と思っているのは
きっと 私の心なんだね
だって〈あなた〉の具体的な姿って想像できない

 構造的に相反でフィルターをかければ、このような歌詞が生まれるだろう。別にそこにリアリティーがなければ問題ないのだが、その男の表情って、彼女の歌詞の常套句だろ? 案外、そこにリアリティーを求める人間も少なくないのでは?

2010年04月24日

インスト曲

 今、たまたまテレビつけたら、子供が縄跳びしてるの。なんで、こういう番組に、児童福祉の管轄が待ったかけられないんだろう?
 そりゃ、ハタから見たら、美談とかガンバったねってってレベルの話だろうけど、その対応は無責任すぎないか?
 番組内容そのままだから、どの程度、客観性があるかは置かないといけないんだけど、手を痛めたり、ノドをつぶしたりしてる子供がいるんだよ。そりゃあ、何重もの「大人の判断」というのがあって、OKなんだから、OKとして見なくちゃって話なのかもしれないけど、1時間か2時間の番組で、その子の将来、潰しちゃうかもしれないんだぜ。
 アイドル歌手が、あ然とした顔で「ガンバレ」とか言ってるけど、どっちが頑張らないといけないんだか。
 なんか、1社提供みたいだけど、そのような児童福祉の見地からのアセスメントがなされたのだろうか? 後で問題になれば、担当者どころか、その企業、そのものがダメにならないか? この不景気なご時世。
 たぶん、本当に問題のあるような映像は、放送されないんだろうし、そう言う意味でお蔵入りになった映像・タレントは天文学的な数字なのかもしれない。
 だけど、それでバラエティー番組はいいのかね。バラエティーだよ。娯楽だよ。
 いかん! 枕が長くなる。わかった、背伸びしすぎた「マイクロホン」の意訳から始めたのがいけなかった「この地球(ほし)以外に高等生物はいないわけで、この地球の音楽と出会うのは必然だった」なんて、大層な。もし、それがそうなら、こんなアポトーシスにならないね。たぶん。
 ああ、長ったらしい。「THE introduction」は「マイクロホン」のイントロなんで、楽曲として成立していない。ともすれば「マイクロホン」のイントロのパイプオルガンもインストに入れてしまってもいい。ジャジャ、ジャン。ジャジャ、ジャン。からでも「マイクロホン」の荘厳性には変化がない。「montage」は、いい名前がついてるね。例えて言うと、鯛の頭に鮃のしっぽがついてて、CGだから違和感なくみれてるという感じ。もちろん、いい意味で。釣りしてて、そんなんが釣れたらどうだろ?「Jump!」は、すごくいい。この尺ならアルバムに20曲くらい入るから20曲、入れたら、売れるね。たぶん。
 光トポみたいな脳波を計測できる機械が発達すれば、その時の気分にあわせて「Jump!」的な楽曲が自動生成されるようなシステムも、もう、ドラえもん的ではないだろう。ゆくゆくは、気分や性格に合わせてアーカイブスの中から楽曲が選ばれてゆくのかな?(それって、どっかの映画の原案だな)
 氏のアルバムというと、「インストはいらない」的な発言がよく為されるのだが、はたしてそうだろうか? 少なくとも『ロクサカ』に於いては、それはないだろう。

2010年04月21日

核心3題

 まずは、歌詞の解釈学から、、、
「You were...」


 ねぇ、あっくん。
 今も、覚えているよ。
 あなたの語った夢。
 (@^ω^@)ドゥルルル、、、忘れられないよ。。。

 ねぇ、あっくん。
 もう、1号がいるんだもんね。
 あなたなら、なんて答える?
「私は何を思えばいいの?」

 でも、、、まだ、忘れられないの。


「夢」であるとか「口ぐせ」とか、もろヒットしてるんだよね。宛てずに、本当に、このような歌詞が書けるのだろうか? と思ってしまう。

「BALLAD」


 もう終わったことだから、思い出を書き足すことはできない。
 現在が満たされてないから、思い出は色あせない。

 今、あっくんの夢、見てたの。
 どうしてだろう。涙。解ってるハズなのに、、、
 どんなに遠くても、あっくんのこと思ってる。

「いかないで」「そばにいて」、、、そんな言葉、もう、あっくんには、きれい事でしかないよね。

 この夕映え見てる? あの月影の下にいるの?

「あっくん、どうして? この構造から、解き放ってくれないの!」
 ただ、独り、そっと、つぶやいてみる。

 この詞(うた)が、あっくんに届くといいな(ハート)


 この歌詞で問題なのは、構造からの解放を訴えていることで、実は、そのような内容は一部の人間の反社会性を引き出さないだろうか?

「RED LINE~for TA~」


 有り難い先達のお導きを、いつまでも、大切にしてゆきたい。

 あなたが儚く祈った祈りでも、
 ほら、私が祈り返してあげるよ。
 そしたら、その祈りは、もう虚しくない。きっと叶うから。

 そう、みんな同じ十字架を背負った迷える衆生。

 ねぇ、あっくん。あなたは心を折らないで!
 あっくんの見ている風景。それは昔、誰かが見た風景なのだから、、、


「祈る」は「信じる」行為そのものを指している。信じれば、その祈りは叶う。その確信が、このような歌詞になっている。まあ隠喩的になんだけど、、、

 まあ、popミュージックなんだから、二人称がいて、一人称が二人称に何かを求める、あるいは、与えるという構造は陳腐と言えるくらい一般的なのかもしれないが、それが、ある種の現実とリンクしてしまっている場合、特殊な環境の下にあれば健常な人間でも〈病理〉的な行動をとってしまうかもしれない。このようなことを全否定できるのだろうか?
 ビデオクリップで特に注目されるのは「BALLAD」であろう。
 沢山の送られない手紙は、閲覧されないブログのように見えるの筆者だけではあるまい。「閲覧されないブログ」と表現した瞬間に、そのブログは閲覧されているという不思議なパラドクスを含むことになるのだが、、、いや、宛てて描いてるとしか思えないんだけど。。。

2010年04月19日

あきた!

 なんか書いてても、心に澱が残る。ガルネクの場合は、批判したら、批判しただけよくなるだけの、バネというか伸びシロがある気がする。浜崎氏には、それがないというか、誤解のないように言えば、その方向へ浜崎氏が伸びることを筆者があまり期待していないのだ。
 氏は、もう音楽媒体というものにとどまらずに、もっと体系的な局面に立つべきなのではないだろうか?
 そのためには、あの企業も変わる必要があるように見るのは筆者だけだろうか? 現在のあの企業、あるいは音楽界の「歌姫」的なセクションというのは、浜崎氏を頂点にした、ヒエラルキーの構造をとっていはしないだろうか? それは、ガルネクについて触れてみることによって如実に実感できる。
 しかし、そのヒエラルキーの構造は、氏に対して莫大な負担を強いているように思えてならない。ピラミッドの頂点が沈下すれば、その分だけ「歌姫」というマーケットが萎縮するのだから、、、
 そう考えたときに、氏にどれだけの伸びシロを設定しなければならないか? それはネットの普及による音楽需要の縮小とは別の次元ではあるが、真剣に考えなければならない問題のように思う。
 かといって「ファルスの哀しみ」のやっていることは、どうも個人的な恨(はん)の燃焼にしか思えてならない。そう言う意味で、この問題を論じることに飽きてしまった。
 と、このくらいヨイショしとけば、続けられるな。

2010年04月18日

〈信じる〉の解釈

 いよいよ各論に入っていく訳だが、「Sunrise ~LOVE is ALL~」「Sunset ~LOVE is ALL~」から始めたい。
 今回行うことは、ようは歌詞に対する「誤解」に近いものの抽出なのではあるが、少し歌詞の解釈について言及しておこう。
 浜崎氏の歌詞の中で〈信じる〉というのは、独自の意味が付加しているように思う。それは〈信じる〉という行為に対して、信じる対象に見返りを求めるのである。つまり「信じさせて欲しい」は、信じる対象に「信じるに足る見返りが欲しい」という意味になるのだ。

ねぇ、あっくん。そばにいて、見返りをちょうだい。
もっともっと〈愛〉を、あっくんに届けたいよ。ひびかせたいよ。

 というのが、両歌の大意となろうか? まあ単数なのか複数なのかは疑問が残るが、二人称が登場し、二人称に一人称が〈愛〉をあたえたいというような構造を、相反の心理状態を表す文句をはさんで、相反を打ち消しているような、、、
 ビデオクリップについても言及しておこうか、天気図が読めれば、1時間待つ必要があったのだろうか? 「待ち」の文化というのも、普通になってしまうとなんか、考えもんだよね。

2010年04月16日

〈あなた〉は「音楽」

「Microphone」の〈あなた〉は「音楽」ということで、、、
 ガガ氏が「テレフォン」歌うのに、「作品未定」ってどういう事? 「Sexy little things」を当然、歌わないと、、、って「Microphone」なのか? 意味不明。
 ああ、くまちゃんの「Microphone」の〈あなた〉はリラックマなのか、、、すると、僕にとっての〈あなた〉は、、、と明言は避けておこう。
 オフィシャルには「Microphone」での〈あなた〉は「音楽」ということになっているけど、音楽の享受ということは、そう単純な話ではない。
〈あなた〉が「音楽」だとしても、トポロジー的に「音楽」と「あっくん」が同位相にいた場合、〈あなた〉は「あっくん」でもあるわけだから、、、
 一見、〈あなた〉を「音楽」と表明する事は、〈あなた〉が「あっくん」ではない必要十分条件のように見えるが、実際は必要条件ではあるのかもしれないが、十分条件を充たしていない。
 それよりも歌詞の中で〈あなた〉に対して「その存在感には、逆らえず、敬うことしかできない」と表現していることである。これは〈あなた〉が絶対的な存在であることを意味する。
 このような楽曲を享受する場合、とくに〈病理〉的な指向のある場合における享受側の〈心的現象〉の象を、いかように想像するべきであろうか?

2010年04月15日

開催趣旨

 これいいね。
http://www.youtube.com/watch?v=OgtS1Fn-l7w
 東方神起はあんまり聞いた事ないけど、これはK-Popちっくなアレンジだよね。ドンドンドン、、、って、低音のアレがいいんだよね。
 まあ、ああしろ、こうしろは言ってないでしょ。こういう選択肢もあるし、こういう可能性もある、でも、それだけは辞めてってだけで、、、その「辞めて」だって強いているわけではないし、、、
 たくさんある可能性の中から、自分でコレとコレを選択して、現在というのがあって、その現在の中で、僕はできうる事をしているだけだから、文句があるんだったら、自分でしたコレとコレを責めなよ!
 と、訳のわからない事を言いながら、、、
 世の中には、いろいろな人がいるもので、現代のネット社会で、そのような人々の生活を垣間見れるようになった事は、はたして幸なのか? 不幸なのか?
 いわゆる〈病理〉と呼ばれる、人々がいるんだわね。
 あっくんであったり生史君であったり、三浦朋春氏であったり西村典弘氏であったりとか、、、あげ出すとキリがないか?(まあ僕は医学関係者ではないので彼らを〈病理〉と決めつける事も、〈病理〉ではないと言う事もできない。存在するのはカテゴライズできそうな集合としての個人である)
 管見〈病理〉というのは彼らの精神構造に潜む病魔ではなく、彼らの精神構造と現実の間にある乖離(ようは精神構造によって日常生活に支障をきたしている状態)が〈病理〉的であると思うんだ。つまり、彼らの精神構造の中にも〈心的現象〉が起こっていて、一般に言われる「壊れた状態」ではない気がするんだ。だから、一般に言われる「心の中で起こった事と現実の区別がつかなくなる」というのも違う気がするんだ。(〈病理〉の具体的な説明を行おうとして抽象的な言葉を使ってゆくと、どんどん自分の使いたくない文字列になってゆくな)
 ようは、何が言いたいかって言うと、例えば浜崎氏の歌詞世界の中に〈あっくん〉的な偶像が存在した場合に、あっくんに対して著作権者が追うべき責任とは何か? というような事を考えるために「浜崎氏の歌詞世界から〈あっくん〉的な偶像を抽出する」事を行ってゆきたい。
 今回、その抽出を行う対象は浜崎あゆみ氏『Rock'n'Roll Circus』である。『NEXT LEVEL』を用いれば、より明確に〈あっくん〉的な偶像が立ち現れるのかもしれないが、それは読者に任せよう。
 ちなみに、
あっくん
http://ameblo.jp/akkunfutatabi/
生史君
http://stillfly.exblog.jp/

2010年04月14日

NHK3題

「microphone」

音楽。その存在感には、逆らえず、ただ敬うことしかできない。
わかってる? 音楽なしの私たちなんて、無意味でしょ。
音楽と出会うのは運命(さだめ)なのだから、、、
音楽が音楽である事、音楽が存在する事を示して、導いてくれるのは、あなただから、、、
さあ、あなたが完全だと思うリリックを、ほら、僕の目の前に示してご覧。

 長ったらしいなと思って削ってったら、5行になってもた。「逆らえず、ただ敬う」とか「示して、導いて」とか、まんか、まどろっこしい。この辺も、なんか違うんだよね。
 なんか、もっと「恨(はん)」のある歌詞なんだけど、僕が言うと大層になりすぎたり、嘘っぽく聞こえちゃうんだよね。
「自分を自分とたらしめているのは〈あなた〉」って、よく考えたら当たり前だな。自分以外は他人、つまり、〈あなた〉たちなのだから、、、

 4月から、いろいろ番組が始まったが、1番ショックだったのは『758Label』が終わってしまった事。もう少し続いてたら、コンテンツ賞だったかもしれない。ああ、「番組」にしてしまえば益若つばさ氏も、、、(以下略)って、ユッキーナのプロデュース力、調和力を認めるのが怖いのかな?
 いや、NHKで『スコラ』と趣味悠々のワクの『エレキギターの講座』『デジスタ・ティーンズ』は、なんか、ビビビと来る内容。
『スコラ』って、まあ、バッハの回だからなのか、ようは義務教育の音楽の教科書なんだよね。ゆとり世代でどの程度、削られているのか知らないけど、義務教育の音楽は、実は教科書の内容をしっかりと詰め込むと、音楽鑑賞や実践に大いに役立つ内容が詰まっている。どうしても、合唱コンクールなんかの行事の練習に明け暮れて、教科書の内容に踏み込む事は少ないのが実情だろう。(地域によっては音楽の期末テストがある地域もあるのだろうが、、、)
 だもんで、作曲家の名前や曲名を覚えるのは必ずしも重要ではなく、和音のしくみや、ピアノの音程の原理的な話というのは、理科とか数学・算数に通じる、1種の〈美〉なんだよね。(受け売りぢゃないか!)
 今の義務教育の音楽は純邦楽や古典芸能の習得にも力を入れていると言われるが、西洋音楽の基礎がしっかりとあって、日本の独自性、古典芸能の特殊性って、判るものなんぢゃないか? バッハの回だから、そう思うのかな?
 美術や図工も、似ているのかもしれないけど、現実は少し複雑だ。ようはデジタル分野が発達しているから。『デジスタ・ティーンズ』は、そう言う意味でも、学校の勉強を補助する番組なのかもしれない。思うんだよね、音楽作成も含めて、ボーカロイドのビデオ・クリップのようなものの作成は、ある意味、綜合学習として優良な題材なんだよね。

2010年04月13日

『いいとも』の花

『scholar』について書く予定だったけど、枕が長くなったので枕のみ。とりあえず、ざっと一覧。
・花輪
○松浦勝人
・花
○第一興商
○パナソニック
リンメル
本田技研工業
講談社ViVi
SCawa
ビーズアップ
ZACC
EXILE
・以下風船
××
××××
××××
・以下ロビー花
○BoA
┏倖田來未
┣misono
┣光上せあら
┗BRIGHT
(以上4人連名)
┏Do As Infinity
┣前川紘毅
┣坂詰美紗子
┗メガマソ
(以上4人連名)
ワニブックス
Team ayu member's
┏Every Little Thing
┣高杉さと美
┣後藤真希
┗宮脇詩音
(以上4人連名)
┏TRF
┣m.o.v.e
┣AAA
┗miray
(以上4人連名)
 以上確認できたものだけ。○は番組内で紹介されたもの。
 こんなのネットのどっかに一覧が載ってるだろ? と思ったらないみたい。花屋も独占か寡占なんだから、さっと調べられるようにしとけばいいのに、、、
 ざっと見た感じ大塚愛氏とalan氏が確認できていない。ウイダーとネスレもないな不思議だよね。あの金メダリストとのパイプ企業だと思うのだが、、、
「マスターフー」まで読めたんだけど、何だ? と思ったら、ペットフード関係かもしれない。
 スポンサー企業、ファッション誌、美容院、ペットフード? ときたら、1種のマルチメディアだよね。キャラクターのイメーヂに付随する企業イメージ。この企業数が多いのか少ないのか、、、

2010年04月12日

「ファルスの哀しみ」

『稲澤文化博物館(仮称)』
開館準備企画展
ファルスの哀しみ~副題未定~

 某国の治安を邦人の死によって知る。まあ邦人はジャーナリストなんだから、当たり前に自己責任の死な訳だが、その死に対してのコメントに、某国の〈治安〉を維持すべき組織について疑問を感じる。某国の〈治安〉は政府に求められるべきで、銃弾がデモ隊のものであったにせよ政府には〈治安〉を維持する義務というのは存在しないのか? まず〈治安〉が維持できていない事を詫びるべきではないのか? 「オレのせいぢゃない」と主張するのが政府の役割なら、そんな政府、はたして必要なのか? いや、そもそも、そう言う政府だから〈治安〉が守られていないのか? 別に、その国の人ではないので、どっちでもいい話なのだが、、、
 まあ、今回の企画展も音楽評なのだが、音楽評なんてやっても、僕には一銭の得にもならない。あんまりやりたくもないのだが、、、それでも音楽評をしなければならないのは、音楽評をきちんとできる人が皆無という状態が久しく続いているからで、それは、音楽好きの音楽評で学生時代をこぢらせて、音楽ライターになって営利目的で、音楽評を始めてしまうと、どうしても、評がマネーフローに流される向きがあるわけで、そのことに対して、どんなに慟哭したって、音楽評そのものが定位置に戻るわけではない。
 もっと、ポップミュージックの享受者が、イコノロジーに近い領域で、音楽を鑑賞し評価し、そして、さらなる享受を行わなければ、結局、大衆音楽は、営利目的の商品な訳だから、正しく〈音楽を楽しむ〉という状態にはならないだろう。
 いささか、前置きが長いわけだが、明日、フラゲしたら、本題に入っていきたい。
 まあ、何が「ファルス(farce = 道化劇)」で、何が「哀しいのか?」は、おいおい。。。

2010年04月09日

ボランティアは有償を基本に

 いや、別に金持ちの道楽なら別にどっちでもいいのだが、未曾有の不景気で誰の財布でも薄いのが現実だろ?
 そんな中、「ボランティア = 無償の人材」という発想は、現実にそっていない気がする。そりゃあ、台所事情は、それぞれだから即座に有償に切り替えるのは現実にそぐわないという意見もあろう。しかし、そのことが、なし崩しに無償ボランティアを強要するのであれば、日本ではボランティアは根付かない。
 ちゃんと、有償ボランティアからの自主的な返納があるものとして、組織の経理をおこない、ボランティアを有償にしたときにも黒字にできる組織体質を構築していく事が、非営利法人にとっても必要なのではないか?(ドラッカーが、この辺なんて言ってるのか知らないが、、、)
 文化財行政に即して言えば「無償ボランティアの学芸員」のような理不尽が、この先、起こらないと言い切れるのだろうか? つまり、「市民参加」「経費の有効活用」のような甘い言葉にしびれて、自分の職を失してしまうのではないか?(お前のやっていた事を考えたら、お前にそんな事を言う資格はないだろうと怒号が飛びそうだが、、、)
 まあ、文化財行政に絞って言えば理不尽な話に聞こえるが、ラジオ・テレビでの「ノーギャラ作家」とかADのオーバーワークを考えれば、まだ、めぐまれた環境がそこにはあるのかもしれない。
 このサイトにしたって、僕が鈍くさいんで「商売」になってないだけで、うまい事したら商売になっているんだろうし、逆に、商売にならないんだったら、マーケットとして成り立たないんだから、もっと行政が手厚くカバーすべきだろう。
 そう言う意味でも、非営利法人の経理や文化財行政におけるマネーフローは検討されるべき余地を残している。
 まあ、そう言いつつ、ウチは趣味人の道楽サイトという体をとって、気楽にできる部分もあるわけだから、誰が悪いとは言えないんだわな。

2010年04月02日

次回企画展

 特別展『白瑠璃の碗』が、始まったばかりだが、あの特別展は4~5年を目安に造り上げていけばいいと思う。というわけで同時進行で企画展。で、次回企画展について少し。
 タイトルは、
「ファルスの哀しみ」
 あるいは、
「悲しきファルス」
 副題未定。

 内容は、ファルスが、観衆、あるいは、観衆たちに語りかける内容、その構造解析、構造解析によって得られる情報になる予定。
 4月中旬以降の開始になるのか?

2010年03月06日

『シーモンスター』

「サクラサク」
 なんか、商売っ気がいい感じに軽妙なpopになってて、思ったよりいい感じ。ガルネクと聞き比べれば、おのずと、ガルネクの「売りにくさ」が感じられるだろう。
 まあ、個人攻撃は辞めておこう。DVDは3本目が秀逸。
 ああ、ここで、あの企業と、この企業がくっつくんだね。犬の名前であったり、あのメダル後のあのおかしな発言が報道されるのとか、なんか不自然な感じがしてたんだけど、ああそう言うつながりか、、、(そう言うつながりの業界地図とかあったら買うのに、、、って、存在を知らないだけか)そうか、ゼリー飲料のラインもあるのか、、、

『シーモンスター』
http://www.amazon.co.jp/dp/4863130791/
「雑記」にすべきかもしれないけど、もろ「平板なpopアート」なので、ここで。
 まあ、重箱のスミをつつけば、生物の肛門がないんだよね。昔、金魚飼ってて、金魚よりも金魚のフンを見るのが好きだった。(今もさして変わってないな)別に、個人的に気になるだけかもしれないけど、、、
 あとは、もう少し自己デザイン化するのではないか? という所。海洋生物って、泳ぐから流体力学の中で生きていて、なんか不自然な感じがするんだよね。
 まあ、なんか、NGの回数が決まってるというか、学術的なディテールとしてのCGのクオリティーには、こだわりが薄い気がする。
『アバター』の人気なんか見たら、ああ『シーモンスター』が3Dなら無敵だよねと思ったら、もう上映されているらしい。確かに飛び出る作り込みだわ。
http://www.warnermycal.com/event/seamon/
 もう「日本のミュージック・クリップの次の人」的なスタンス(それだけでも、プレッシャー、すごいんだろうけど)では、技術が向上していて媒体が変質しているんだから、太刀打ちできないよね。でも、逆にそう言うものの方が美術館に飾りやすいのか?
 ダイナビジョンいいよね。下手なシネコンより画面が大きい。コンテンツが世界展開できて、媒体を選ばなければ、教育的な内容の番組でも興行的に成り立つのかな? やっぱ広告収入が多いのかな? ああペイチャンネルか?

2010年02月26日

蛇足

「NOTHING FROM NOTHING」
 これこそアートなのではないか?
http://www.youtube.com/watch?v=K5yD55F91Kc
http://www.amazon.co.jp/dp/B000064EYQ/
http://ja.wikipedia.org/wiki/NOTHING_FROM_NOTHING
 EAST END×YURIがいて、「あれがラップ?」という疑問符が投げかけられていて、彼ら自身、あの体裁からの脱却のようなことを悩んでいたときに出た作品ととなるのか? この作品は、一見、2匹目のドジョウのように見えるが、そうではない。
 タイトルの「虚無から虚無へ」という言葉からも判るようにEAST END×YURIに対するアンチテーゼなのである。それを「EAST END×YURI風にさぁ、、、」みたいな言われ方をする中で、きちんと昇華している。
 また、歌詞にも注目したい。浜崎あゆみ氏の歌詞の源泉を感じるのは、筆者のみではあるまい。
 現在、あの企業が「権利所有者」のようだ(元社長の声明のコピペ、偽文書かな?)。
 あの企業の版権ビジネス(所属タレントの過去の作品について企業で一括に管理するような商法)のはじめに近い事例なんだな。
 権利がちゃんとしているのなら、是非、正規音源で聞きたいものだ。(まあ、YouTubeは準公認か?)

 こんなのも、あるらしい。
http://www.amazon.co.jp/dp/B0002SNEI0/
 あの時代らしい。。。荒れてたよね、2004年。

2010年02月25日

総説:観衆に強要する媒体

 もう「Orion」の手前あたりで飽きちゃってて、あとは、やっつけだな。まあ、最後? になるんで、少しヒートアップしてみるか。
http://www.amazon.co.jp/dp/4314007133/
『マインド・コントロールとは何か』の中で洗脳について、「好意を抱くものに対して、その思いを増幅する場合有効である」旨の言及があったように記憶する。このように考えた場合、音楽媒体にとって〈洗脳〉という行為は有効な手段であると考えられる。(逆に〈洗脳〉してまで伝えたいメッセージ、伝えるべき事があるのかというのはカウンターのテーゼであろうが、、、まあ、売れりゃあいいという話もあるわな)
 サブリミナルな視覚効果、平均より微妙に音を大きくして印象を刺激的にする手口。どうせやるんだったら、ボーカルの顔を1コマ挿入すればいい。(使ってるミュージック・クリップもありそうだな)
 しかし、このような手法は、臨床心理学的には、あまり効果がない、あるいは、全く意味を持たないとする意見もないわけではないだろう。
 だが、たとえ1%でも、0.5%でも反応したとすれば? 1億の1%が百万である事を考えたら、音楽ビジネスで、その数字が持つ意味というのは計り知れないものがある。(30万でもスゴイと言われる昨今)
 まあ、「平板なpopアート」という企画は「ガルネクは時代と〈寝て〉ない」という理由を考え出したことから始まる。「ハマるかも!」の頃にもう一押ししたら、時代と寝れるだろうと考えていたが、あえて、それを回避した観がある。しかし、理由が思いつかない。そう言えば絢香氏にしろJUJU氏にしろ、最近の女性シンガーは時代と寝ることを好まないものが多い気もする。(年食ったから、時代の潮流が見えなくなってるのかな? でも、時代と寝るということは誰からも解るハズで、、、音楽が有線からiPodに変わって的なビジネスモデルの変化から時代と寝ることができなくなったとも考えにくい。逆に音楽のビジネスモデルが時代と寝るという行為を必要としなくなったのかもしれない。それは時代にとって、得なのか? 損なのか?)
 まあいい、ガルネクの場合、外的因子を考えてしまったら、黒木メイサ氏と、忽那汐里氏、あと最近の北乃きい氏を排除してしまえば、その辺では一番になるのではないか? と思ったが、それは誤解である。それはガルネクという媒体に触れれば判る。
 つまり、ガルネクは売れているのである。それは、売り上げが1番とか、そういう意味ではなく「売れないハズのものが売れている」という意味での売れているではあるのだが。。。
 ここで、これまでのおさらいをする必要が出てこよう。例えば、アカデミズムの押しつけ、凡庸な発想の転回、戦略の勝算のなさ、あからさまな洗脳、、、これの何処に売れる要素があるのだ? それが少なくとも商業ベースとして成り立っているのである。
「売れないものを売るのが商売である」言い換えれば「自分のやりたいことをやって売れているのがスゴイ」のである。
「ゴリネク」ガルネクは時に、そのように揶揄される。それは、ガルネクのプロモーションにゴリ押しがつきまとうことによる。しかし、社長は浜崎あゆみ氏の時の方が、もっと、ゴリ押しをしたと言うことを認めている。
 しかし、この「ゴリ押し」はプロモーションのみにつきまとう言葉ではない。「観衆に対するゴリ押し」これが、この企業の特徴だ。
 つまり、カリスマには熱狂的なカルトが必要なのだ! その中で〈洗脳〉という手法が使われているのだ。
 いや、ここで付け加えておかなければならないだろうが、筆者は〈洗脳〉を一方的に否定することはしない。なぜなら、一部の進学塾でも〈洗脳〉に近い方法で知識を詰め込むことを行っているから、それは十年のオーダーで可否が求められてもおかしくない。
 ともかく、ガルネクは興味深い媒体である。そして、プロデューサー陣は「やりたいことをやって」ガルネクを売り出しているのである。
 とりあえず、今日はここまで。。。

2010年02月24日

『白瑠璃の碗』

常設展示準備 特別展
『白瑠璃の碗-東国に散った棕梠(しゅろ)の葉-』
*副題仮題

-東国に散った棕梠(しゅろ)の葉-
 葉は複数形の葉。葉は単数でも複数でも葉である。
 なんかイエとか、氏族とか利益共同体の中では、葉(人)は、あたかも複数でも単数のような振る舞いをするのではないだろうか?
 まあ、その中にはプロトコル的な「相反」の回路も含まれる。父、子があたかも相反な振る舞いをしたとしても、それは、別の価値観から見たときに、同じ数直線の上に乗っているような場合もあるだろう。例えば、時の権力者の背後につく、その権力者が父、子で異なる。権力者の名前を見れば相反だが、「時の権力者の背後」という共通点が見つかれば、それは「相似」といえよう。
 いかん、企画意図の説明がまだだ。

「FRIENDSHIP〈MUSIC LIVE VIDEO〉」

 例えば、トリプル・トリプルで失敗することより、トリプル・ダブルで成功することの方が求められるんであれば、それは、はたしてエンターテイメントなんだろうか? まあ、スポーツとカテゴライズされている訳だし〈つまらない事〉は、エンターテイメントには禁句だけどスポーツでは許容されるものなのだろう。よもや東洋人にメダルとられるのが嫌で、そうしてるんぢゃないよね? 本末転倒。
 しかし、スポーツも事業仕分けされる昨今、エンターテイメント性を求めないスポーツで大丈夫なのだろうか? つまり、逆にオリンピックのチケットでも1席9千円とか(案外、このくらいするのか?)エンターテイメントと対等な対価を求め、収益で選手を育成するようなシステム(今でも、スポンサーからの広告費で運営しているのに収益を上げるのは難しいのか? 逆に刑事事件が目減りするくらいの過熱報道なのだから、放映権はもっと上げてもいい気もするな)というのはあり得ないのだろうか?
 それと、なんでオーストラリアを金髪の白人が引っ張るんだ! 逆に、純血の白人は、もうオーストラリアにしか存在しないという意味だろうか? なんかサブリミナルな作為を感じる。
 とまれ、スポーツなのか、エンターテイメントなのか、アートなのか、そういう大枠のカテゴリーを取っ払っても、厳然と存在する領域なんだよね。まあいいや、、、

「FRIENDSHIP〈MUSIC LIVE VIDEO〉」
 出品は、この作品で最後。
 ようは「For You」でしょ。同じような「タイム・リミット」があるんだけど、これは「For You」と断言できる。テーマは光でしょ。方や、すり切れたフイルムのイメーヂで、方や「光の輪」なんだけど、、、
 この作品にはサブリミナルな意味合いがあって、まあ銘打っているように「ライブ・ビデオ」なのである。そして、注目しなければならないのは、このあとに彼女らの初ライブが控えていることだろう。
 ライブの景観を、観衆に植え付けることによって、観衆のライブ参加に対する障壁を低くする目的がある。
 確かに「For You」「タイム・リミット」の次が『インディアン・サマー』だったのではないか? あるいは、そのような企図があったのか? なかったのか? 順番はその順だ。ガルネク・サイドちゃんと研究してるよね。
 しかし、大きな誤算が1つある。それは前者が、周辺の「やっぱ、ライブさせてやりたいよな」という思いが、あのような映像を作らせたという別解釈を可能にするのに対して、ガルネクの場合は〈サブリミナル〉が全面に出てしまうことだ。それが、いいのか? 悪いのか?

2010年02月22日

キュレーター活動

 他流試合というか、よそへ書き込んだ記事がだいぶたまってたな、、、と思う。別によそはよそのコミュニティーでやってればいいんだろうけど、まあ、こっちでまとめて展示してみるか。

http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50968212.html#comments
http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50970850.html#comments
http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50978336.html#comments
http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50987961.html#comments

 まあ、適切な内容かどうかも読者の判断にお任せして、、、というか、間違ったことを言ってはいないつもりだが、話の流れで激昂されるのは、仕事の性質上、ないわけではない。
 半丈六については、もう少し書き足さないといけないんだけど、まあ、それは別の機会で、、、

http://www.mandaraji.jp/wiki/main/?%A5%B5%A5%DD%A1%BC%A5%C8%B7%C7%BC%A8%C8%C4

 多言語化と梵字に特化したページを自分で作ると自分だけで情報発信して、恥ずかしい思いをしないといけないので、誰かやってくれないかなぁ、、、と、思ってたら、渡りに船。でも、あちらの方がスキルが上なので、ついて行くのだけで精一杯。
 だいたい多言語化の現状は説明できているのかな? ちなみに、「名無し」としているのは、まとめ直すときに著作権でもめません、さしあげますというような意味。

2010年02月21日

「Orion」

「ぢゃあ! お前はどうするんだよ!」
 と、聞こえてきそうなので、1例をあげておこう。
 たとえば「巴文を染め抜いたリンゴのオブジェ、黒光りする触手、最後に触手がからみつき楠になる」というのはどうだろう? まあ「クサマ、SOD、『I am...』」な訳だが、新しく見えないだろうか?

「Orion」
 どうしてもツンドラを見るとシベリアを思い出してしまう。そこで想起してしまうことは「シベリアでオリオン座は見えるのか?」。こういうことを思わせてしまうのは作品として不利である。(まあ、作品を詳しく見てゆくと、どうも南米の山間部を意識しているようである)
 不利を承知で南米を舞台にした勝算が判然としない。そもそも、オリオン座を主題として、日本や、少なくともギリシャ(星座発祥の地)を舞台に採用しないのは、相当リスキーである。
 しかし、星座を扱うのはCGとして限界があるのか? MITAKAやステラシアターの敗因っていったい何だったんだろう? プレゼン能力の低さなのだろうか? コスト面の問題だったのだろうか?
 数年前に、名古屋・笹島でプラネタリウムがあったな。ああゆうものでもいいわけだし、、、
 こうなったら、学術主動のビデオ・クリップ。あっても悪くない、と思えてくる。。。

2010年02月17日

「Be your wings」

 たまたま、ファンモンがテレビで歌ってるのを見て、ああ、あれ、口パクだとしたら、真ん中の後ろがふざけてるだけぢゃなくて、エヤーあやや的な一種の見せ物なんだなと思った。
 逆に言ってしまえば、ボーカロイドの声に人間の口パクをあわせることもできるわけで、それはそれで、アートだよね。
 愛知県美でトリエンナーレ関係で、映像の展示があって、真っ白な女の子が、なんか、ただ、しゃべってるのが無機質というような内容で「ああ、初音ミク以前だから、こうゆう表現はパンチがあったんだろうな」という結論にいたる。
 つまり、デジタル時計ができて、みんなが時間に縛られ初めて、みたいなところでデジタルの点滅というのはアートなんであって、今、それをやると『Mステ』の「能動的三分間」ぢゃん。「そうそう、アレやってみたかったんだよね、、、」って、職業作家的な発想だよね。(と、いいつつ、テレビのショーアップて、あなどれんよね。あのオルゴールの中で歌うのカワイかったもん)
「Be your wings」
『キャッツアイ』
『マトリックス』
 こういうの見て「デッサンっていうか、3Dでの位置関係がおかしいんぢゃない? あんだけ車で走った感じとか、刑務所の位置とか矛盾があるような気がする」というのは、ただの嫌みにしか聞こえない。だから、そういうことは言わない。
 アートと言うよりは映画の要素が多いよね。異時同図か、ワンカットで永ドリという体をとって、その要所、要所にモティーフを配置してゆく。練られているよね。エンドロールにドヤ感があるよね。

2010年02月16日

「Infinity」

「とうとう、アイツ、こっちに反旗ひるがえしてきやがった!」
 いやいや、そうではなくて、ここで、あの企業がなくなるのは、こっちとしても不都合なわけで、そこでこっちとしても策を巡らす必要があるわけで、、、
 でも、CDショップなんか見てると、状況は悲惨だね。新譜の棚、あの企業の作品ばっかだもんな。なんか、ピリピリとした金策のあとが、なにも判らなくても感じられるもんな。
 3月末までに、浜崎あゆみ氏の電撃移籍もあるのかもしれない。と、いいつつ、取引として数十億が動くわけで、そんな金が右から左になる企業が、このご時世あるのか? もう一方は、言うのをよそう。

「Infinity」
 一言で言ってしまえば、『標準土色帳』? と思ってしまう。マンセルの色立体でもいいんだけど、、、
〈色〉は、色相と明度と彩度でできてて、、、みたいな、Photoshopの使い方の説明のデモンストレーションみたい。
 ようは『アキレスと亀』のあの手法でしょ。あの手法に〈美〉は感じられないのだが、北野氏は苦肉の策としてある方法をとって、ある程度みれるモノにしているんだけどネタバレになるから止めておこう。流体のCGはスゴイのかもしれないが、、、
 やっぱ、ダンサーは外国人だな。真ん中の東洋人を目立たせるためなのか? ダンサーズの胸は贋物だよね。真ん中も入れてるのかな? 小さめだな。いやセクハラではなくて、こう言うのは視覚効果の一部だから、ダンサーズとボーカルで大きさが異なれば、それは比較するでしょ。しかし、東洋人にすると大きすぎるということになったのかな? と思う。
 やっぱMacBookの背面のリンゴマークが光るのはデザインとして秀逸だよね。やっぱ、キレイだ。

2010年02月15日

「Seeds of dream」

 A氏のF氏への拒絶って、どっかで、僕に対する拒絶に直結していて、「ああやっぱり、オレが行っても「違う」って言うんだ」って、前提的に当たり前でありつつ、がく然とさせる答えを突きつけるわけで、「ああ、彼女は誰も愛せないんだ」という、まあ、それも至極当然でありながら、驚異的な答えを立ちあらわせる。それでいて1人で生きられないようなこと言うんだから、なんか凶悪な犯罪者だよね。結論から言って、、、
「Seeds of dream」
クツ
万華鏡
ボディーペイント
end roll
 最初に、風水的なことを言ってしまえば、「勝手に動くクツ」は「作られた虚像」の象徴だから、それを全面に押し出すのは、正しいのか、どうなのか?
 スニーカーにヒールがついて行くわけだから、どこかで不調和が生まれるのは必然だろう。しかし、それにしても歩き方に品がない。大股で一歩より、小刻みに刻んだ方が自然というか、僕の感覚はそっちを指示する。
 そして万華鏡。「万華鏡」が一部にとって、特殊な呪具であることを知ってて使ったのか? でもまあ、鏡像というのは、クサマを例に挙げなくても、ポップの常套手段であることは、指摘しておくべきだろう。
 ボディーペイントもそうだよね、ああゆうことは、日本人ではなかなかできないから、外国人だったんだろうか? 外国人の方が何かカッコよかったのだろうか? 逆に、脈絡のなさが見え隠れする。
 今回対象にする全作品共通だがend rollが付されている。一度見は斬新だが、全作品となるとなんか単調さが目立つ。
 クツが、どっかのブティックとコラボというわけではないのか?
 だから、逆に言って、アートとしてみたときに「Seeds of dream」の新鮮みって何なんだ? って思うわけ、ミュージック・クリップとして、ガルネクというパッケージで、共通化しているだけで、、、
 ああ、ロゴはドンツタタより、こっちのシャキンの方がかっこいい。これも差別化か? 別会社なのか?

2010年02月13日

脅迫事件

 どっかで、ストーカー被害で一家、惨殺されているのに、自宅をピンポンされただけで警察が動くなんて、、、
 官憲が完全平等なものではないのは判っていても、この治安格差には愕然とする。もっとも、あの人も殺されちゃえばよかったのに、、、ではなくて、惨殺は食い止められなかったのか? の方だけど、、、
 たとえば、MDMAの事件の顛末や官憲発表を見ていたら、あの企業と官憲の密接な関係は推して知るべしだよね。そうなってくると、やっぱ、あの治安格差というのは、コネクションの太さなのか? という推論はぬぐいきれないわけで、別に、自分自身に不利益を被っている訳ではないから、どっちでもいい話なんだけど、、、
「脅迫」なんて犯罪は普通に「○○ちょうだい」と言っただけでも相手の取り方で成り立つ犯罪だから、別に後付けでもいい訳で、そうなってくると、容疑者の「思想信条の変化」というのは、学術的な興味がわいてくる。やっぱ「病理的よね」って言われて終わりなんだろうか?
 あの人はさ「HOPE or PAIN」の中で、こういう事って、頻繁にはないけど、時々あるんだよねって公表してるなんだよね。その中で、犯罪者扱いされた彼の気持ちって? ある意味、オレの分身なんだな。
 まあ、犯罪者に共感してしまうのは、ある種の病理なのかもしれないけど、あの人の作品を通じて感じる直感は、あの人が加害者で、容疑者の方が被害者だよね。もう、ここまで来たときに官憲というのが、正義のナタをふるえるのか? といったらノーだろう。まあ、官憲の正義なんてこんなものよ。
 いや、別に直接的に関係ないから、どっちでもいいんだけど、、、

2010年02月12日

ガルネク回折格子

 予想に反して、ここで副題発表。
 しかし、エンターテイメントってなんなんだ? 雑談や万歳に、その源泉を求めるべきなのは当然か、、、
 たとえば、メンバーの増員とか、厳しいオーディション。『アサヤン』的な、観衆の心を握りしめるような、戦略がはたしてエンターテイメントなんだろうか? と普通に思ってしまうのだが、例えば、ファンが1%から0.5%になっても、パフォーマンスが3倍になれば、1.5倍の充実度があるというような考えは、それはエンターテイメントではないだろう。1%を5%なり1割なりに、拡大してゆくことの方がポップだろう?
 まあ、「斎王群行」でも高浜の瓦の解説のブイでも『沙石集』でもエンターテイメント性があると思う人が言うんだからどうだか。
 さて、ガルネク!
「このアカデミズムが!!!」と灰皿を投げたくなる。
 いや、媒体としてあんなに純粋無垢な存在もないのは確かだ。それはプロデュースの段階で全く彩色されていないと言ってもいい。この2つの感情が交差する媒体---それがガルネクである。
 ガルネクは売れない。
「売れないものを売るのが商売」
 というようなことを社長が言っているが、それが、やっぱすごい。
 なぜ、売れないかと言えば「カッコよすぎる」逆に言えば「享受者のミスリードを許さない媒体」なのである。
 例えば、一姫二太郎はカッコいい。別にあの音楽で、あの男2人は必要ないのだ。別にMacが1人入ってもいいくらいだ。そして、あのオーバーアクション。見るものをゲンナリさせる。本当に売りたければ、あの2人はフェードアウトさせるだろうと思わせることを「一姫二太郎はカッコいい」はかき消してしまう。
 例えば、ビデオクリップ。地下鉄の駅に大量のネズミが走ってゆく、観衆はギョッとする。しかし、そのネズミが地下鉄の車両に入り、女のスカートに飛びつく。その途端、ネズミは「あのキャラクター」へと変身する。これは、カッコよく、見るものに別な感情を抱かせることを萎えさせている。
 非常に興味深い媒体としてガルネクは立ち現れてくるのだ!

2010年02月11日

サルビアの失敗

 ここまでで、だいたい話の前半は終わったのか? いったん内容を総括するような作業が必要だろう。と、思いつつ、うまくまとまらない。映像コンテンツの鉄則っていったいなんなんだ? だんだん、わからなくなる、、、
 サルビアビジョンというハイビジョン上映室があったんだけど、あれなんでなくなっちゃったんだろうと考えてみる。別に、こんな事、外野が詮索しなくてもいいのだが、、、
 最大の難点は、それがハイビジョンであったこと。国立博物館のコンテンツをかりてきて、30分おきくらいに、いろいろやっていたのだが、いかんせん自社製のコンテンツを上映できない。フロントにビデオデッキが置いてあって、それで「何番が見たい」とガードマンさんにいうとビデオを上映してくれる。あれがサルビアで見れたらな、、、
 結局DVDが普及してて、番号を選択したら、そのコンテンツが上映されるようなシステムが存在したら、待ち時間は前の人が見ている時間だし、好きなコンテンツが見られる。(これ名市博の地下だな)
 そうそう、自社製の常設展向けのコンテンツもあったんだけど、子供向けだった。未来人が飛行船形のタイムマシーンに乗って過去を振り返るような内容だったような。。。率直に言って、あれより空襲の被害状況の展示の方が見栄えがする。まあ、遠足などで博物館を利用したときのガイダンス用のコンテンツだったんだろうな。
 そういう意味で、感動したというか心うたれる博物館の映像コンテンツと言えば高浜の「達磨窯物語」だろうか? あと斎宮の初期のやつ。
 ああ斎宮の「その時・・・」を見たんだけど、ウチがちゃんと「博物館」として、存在理由を保てるのか不安になるよね。ああゆうのを見せられてしまうと、、、
 これで、ここまでを別視点で見られたかな?

2010年02月10日

最近、注目の媒体

 斎宮で言えば初期のスライドがガチャガチャの方が差別化できていたのかもしれない。今ではハイビジョンだけなら家のテレビでも見られるわけだし、、、
 あの土師器が割れて発掘のシーンになる所が好き。鈴鹿の関を閉じるか開けるかも、そうだけど、科学的な実証の下に衝撃をあたえる手法というのは見習うべき所があるよね。
 ああ、本題。もうネタバレになってるなら、副題も発表すればいいんだけど、もう少し話を進めてからにしよう。
 最近、媒体として注目される人物を2組あげよう。ガルネク(GIRL NEXT DOOR以下同じ)と福田天人氏である。
 福田氏は一般の方でここで名前を公表すべきではないか?(下手な研究者より知名度はあるし、自分をプロモーションする必要もあるんだからいいや)最近の発言でも「表現者ではない」ようなことを示唆しているが、なぜ表現者であることを否定する必要があるんだ?
 まあ、以前の教訓もあり、表現同士を融合させてゆくことはトラウマなんだろうか? しかし、どこかで表現者であることを表明しておくことは、彼の、その先を考えた場合、マイナスにはならないと思う。
 変な言い方をすれば、ビジネスモデルはこっちで考えるんだから、そのモデルの中で自己表現を、どう行うか? の方をマジメに考えて欲しい。それほど、一方的に不利な提案ではない気がする。
 いま一方、ガルネクについては回を改めよう!

2010年02月09日

過去の話

 たまたま、斎宮のハイビジョンのメインキングのあたりを見てて、ああ、歴史系でも十分、コンセプトがあえば上映可能なんだろうなと思う。時代考証とか云々ではなくて、もっと「斎王みたいな内親王的な高貴な女性が、往生をして天上からクモの糸を垂らしている」くらいのニアミスでも、初期であれば話題性でいけるのではないだろうか? 「現代において〈太閤神話〉はこのように再生産されている」でもいい訳だし。
 まあ、そんなこと言ってても、美術館の映像資料とビデオクリップでは、『クインテット』と『ハッチポッチ』くらいの質の違いがあると、言われても仕方がないわけだし、でも、その質の違いという認識の側に、これからの美術の潮流を牽引する何かがひそんでいるわけで、映画や美術品から、音楽映像がインスパイアされたように、逆輸入もこれからは可能なのかもしれない。逆に、逆輸入を可能にするぐらいのモチベーションがなければ、音楽映像に未来はないわけで、そのアポトーシスを見るのはたまらなく恍惚を僕に与えてくれるであろう。
 結局、僕が何をやろうとしているのか、わかるだろうか?(もう8割方、ネタバレという話もある)
 それをやる前に過去を概観すべきか?
「Can You Keep A Secret?」~「You Make Me Want To Be A Man」までの作品群と『月に沈む』を挙げておけばよいのか?
 00年代の歌謡界で〈時代と寝た女〉は2人しかいない。(たぶん、僕が、そうだといいきれば、そういうことなのだ!)その作品群をおいて、他に何を挙げるべきか? まあ、前者が「母性」とか「自己複製」のようなテーマを扱っているのに対して、後者ではイコノロジーによるモティーフの解釈学に明け暮れているのが、それぞれの特徴だ。
 まあ、美術館に飾るとすれば「Free & Easy」のような詞というより散文的な歌詞をオーケストラミックスしたような編曲の曲に、「SAKURA ドロップス」のような映像をつけるのか?
 光琳の「紅白梅図屏風」がいいよね。ものすごく手前にある若い紅梅と、ずーっと奥にある白梅の老木。正面のある位置から見ると、それは整然とした「紅白梅図屏風」なんだけど、一歩視点を変えると、空中を浮遊するそれぞれのモティーフにしかすぎない。背景と思われていた金箔も、遠近法によって様々な大きさの金箔が浮遊しているにすぎない。その真ん中・中央に、こうこうと流れる川がある。こんなイメーヂ。
「彼の作品と、僕の作品だったら、若沖と光琳くらい違う。ああ、自分を光琳というのはおかしいか? 琳派。琳派の末席くらい違う。それは、彼が若沖的な作風だと言うのではなくて、作品の距離感。ある人が見れば、それは「日本画」というくくりで、同じなのかもしれない。でも、そこには、確実に作風の差異があるわけで、でも、それは横柄だけど、解る人にだけ判ってもらいたい」
 いってみて~~え! こんなこと素面では、たぶん言えませんが、、、

2010年02月08日

新規事業開拓

 いや、べつによりを戻せとか言ってるわけぢゃないから、、、
 自分の事、書かれるより自分に近しい人のことを書かれるときの方が感情は複雑だよね。オレも史雅が、何考えてるかわからんとか、低能だとか言われたら、ヤだもん。

 なんで、いきなり映像コンテンツかと言えば、美術の潮流の中で『液晶絵画』は1つの方向性を持ち始めているだろう。たまたま、展覧会自体はいけなくて、図録も持っていない。でも、動画コンテンツで紙印刷の図録が、そのすべてを表現できるのだろうか? という疑問も起こるわけで、、、
 また、世界のナベアツ氏が液晶画面を用いたネタや、いわゆるフリップ漫談の類。あるいは、美術館でパフォーマンス・液晶美術として見たときに、そこに違和感が存在するかは疑問だ。
 逆に考えれば、ミュージッククリップを美術館に寄贈することによって、プロモーションを行うようなビジネスモデルは作り得ないのだろうか?
 プロモーションの期間は講堂や展示室でミュージッククリップが流される。アーチストのファンや、新しもの好きが多く訪れるだろう。その中で、企画展や常設展のコーナーでミュージッククリップの思想的背景になったであろう美術品、美術界の潮流のデモンストレーション。けっこう、ウインウインの関係が築けると思うのだが。。。
 ただ、その後の権利関係がややこしい。美術館には静寂がつきものだ。映像だけの展示は可能なのだろうか? また、再生の回数に応じた著作権使用料が発生するのか? そもそも、権利関係が、そんなに、ごちゃごちゃしているものの寄贈が可能なのだろうか?

 もっとなんか、ひっくり返したような発想ができると思うんだよね。alan氏のミュージッククリップの予告編としての映画とか、、、「いや、映画は付帯物でミュージッククリップが本編だから、、、」まあ、この辺は以前指摘したことがある。

2010年02月07日

映像コンテンツ

 まあ「平板さ」はさておき、いったん、映像コンテンツについて考えてみたい。
 映像共有サイトを見るかぎり、映像は短編、小画面へ移行していないだろうか?
 映画は本編から予告編へ、適度な長さが違和感なく見れる方法としてミュージック・クリップのような媒体が優れた媒体と言わざるをえない。
 音楽映像、その拡大発展的な映画、予告編、そして、再び音楽映像に帰るような。。。
 まあ、小画面の問題は、ネットブックは、さておき、デスクトップ、ノートともに大画面化しつつあるのが、現在の状況だろう。こっちの問題は、画面の大きさ云々で萎縮する必要はない。(まあ、漠然とした絵の構図はあるわけで、、、)

2010年02月04日

「平板なpopアート」

『稲澤文化博物館(仮称)』
開館準備企画展
平板なpopアート~ガルネク回折格子~

 popアートは便器をひっくり返して、サインをしたことから始まり、、、なんて、堅苦しいことは抜きにして、もっと、テレビCMのような、「モナリザ」や「ゴッホ」がしゃべり出すよう、あれって「モリムラぢゃねぇ?」的な。
 だから、あれと、モリムラを弁別する回路とは一体何なのか? それは「pop」という大衆迎合的な軽はずみの部分と大きく状況を異にする。あのテレビCMこそpopアートなのかもしれない。逆にモリムラに権威を感じてはいないだろうか?
 しかし、あのテレビCMに〈美〉はあるのか?
 まあいいや、前置きはそれくらいにして、「平板なpopアート」の、その「平板さ」を説明してゆきたい。

2010年01月21日

『疼(うづ)き』

『疼(うづ)き』

 しまった! 先をこされたのではないか?
 画像は、博物館のエントランスに飾る壁画。
 タイトルは『疼(うづ)き』。ところで、デジタルミュージアムのエントランスってどこ? バナーにもできないし、タイトル画像なのかな?
 開館記念特別展も、いろいろ考えたあげく「平板なpopアート」になる予定。副題は現在検討中。『白瑠璃の碗』はどうなるんだ???

2010年01月15日

ロゴ

ecm
『稲澤文化博物館(仮称)』のロゴマーク案1。
 英語表記は長い(「The museum of INAZAWA or INAZAWA city museum」は決まりらしい)ので略称はかぶらない「ECM」であるので、上が「へいワン」に見えないところが、いい。
 イラレに取り込んで、線にしてクチャクチャするともっときれいになりそうだけど、今、イラレが使えないので、こんな感じ。

2010年01月07日

cityの語は爆弾?

 表題のことを考えてて、ふと15年後~20年後のことを考えてたのさ。うわぁっ!「発掘はさせてあげることはできないけど「考古」の担当者はあなただから、、、」みたいなこと言われてないだろうな? そんなの「「考古」の担当者」ではないし、、、
 ではここで、そのことを回避する策を授けよう! まず、今のうちに県埋文から専門職を1人出向させておく。5年では難しいが10年あれば、あらかた市域の考古のことは咀嚼できるだろう。まあ、立場はともかく、その状態をある程度、永続する。そのうちに次の人材も発掘できるのかもしれない。
 最悪の事態を考えれば、県埋文の教師組が3~5年のスパンで市域を牛耳るのが、1番やっかいだ。さっき説明したように、市域を知るには5~10年のオーダーが必要だ! 僕がそうであったように。。。

2010年01月06日

『稲澤文化博物館(仮称)』準備室

pophey
『稲澤文化博物館(仮称)』準備室。
「造『稲澤文化博物館(仮称)』司」。
 英訳は「The museum of INAZAWA or INAZAWA city museum」。
 INAZAWA city museumの略語がICMで他所とかぶるから、それを解消するためにはECMとするのがお作法。(って、一般にみたらみっともないけど、僕には違和感がない)
 画像はマスコットキャラクター「へいワン」。いわゆる「ゆるキャラ」戦国時代に生き残っていけるのか???
 ところで、開館記念特別展、何するんだろう? 『白瑠璃の碗』の基本資料の陳列なのかな?