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浜崎氏は〈孤独〉なのか?

「あゆ素人なので、タイトルもわかりません。歌詞をちゃんと覚えることができなかったのですが、愛したい愛されたいと思ったときにはその人はいなかった、というような、誰かが遠くへ御隠れになったような悲しさを秘めた歌でございました。」
 たまたま、手元にあった『女性自身2010年8月31日号』の辻仁成氏の1文に目が止まった。「その人はいなかった」の所を「その人の〈心的現象〉が壊れた」つまり「その人は〈病理〉を発病した」としたらどうだろう?
 この1文で浜崎氏の、どの歌なのか見当もつかないし、辻氏が音楽倫理に、どの程度の造詣を、お持ちなのかは置かなければならない。
 しかし「あゆ素人」が行った歌詞の要約が音楽倫理にジャストフィットしていることは見逃してはならない。
 音楽倫理の問題が筆者の単なるミスリードではないことの傍証になるであろう。
 辻氏の文章の中で「孤独」というのがキーワードになる箇所があるが、はたして浜崎氏は「孤独」なのだろうか?
 ドフトエフスキーとか埴谷雄高が孤独だというのは、なんだか判る気がする。なんていうの、思想や哲学の頂点にいる。その難解さ、そのものが孤独なんだよね。
 しかし、浜崎氏の「孤独」といわれるものは、ようは二人称に対する否定でしょ。これは以前、指摘してないか?
「あなたは私の認めた何かではない。だから私は孤独だ!」これって本当に孤独なのだろうか? やっぱ、こういう書き方をすると、白痴は孤独になってはいけないと聞こえるかもしれないが、浜崎氏の孤独は、ともすれば商売になっているのである。文学でありエンターテイメントでなければならないハズだ。孤独の質が問われるのは、かえって当たり前である。
 浜崎氏の〈無謬(むびゅう)性〉を信じて、浜崎氏の歌詞世界に溺れるのは自由である。しかし、浜崎氏の「〈あなた〉を認められない」という〈孤独〉という特異性に着目して歌詞を資料操作するのも、また独特な味わいがあるであろう。
 また某氏に先んじて書いてしまった。