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【映像展示室】フューチャー・ビジョン2

【第3室】パロディ
 パロディと盗作とオマージュというのは出力の面で似たような体裁をとることから、パロディという行為自体を反社会的現象と見る向きも少なくないだろう。
 しかし、一見して盗作と判るような有名作品に対する、そのような行為は模写とか、それに類する芸術的営為行為と見るべきだろう。(逆に、無名の作品を自作と偽るようなカタチでオマージュするような行為は法律的にも対応されるべきだろう。まあ、最近は、この辺は「破壊的行為」として認知というか許容されるべきという運動がないわけではない)

 宇多田ヒカル氏「SAKURAドロップス」2002年『Deep River』同年
 映像は『UTADA HIKARU SINGLE CLIP COLLECTION+ Vol.3』同年
http://www.youtube.com/watch?v=mlwCZm2MQbQ
 伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」をモチーフに地球の楽園が描かれ、同じく若冲の「動植綵絵」の「老松白鳳図」なんかも伏線としてあるのではないだろうか?
 全国を巡回した展覧会であるプライスコレクション展に関連した『BRUTUS』では紀里谷氏が若冲の作品と「SAKURAドロップス」の関連についてインタビューに答えていた。

 GIRL NEXT DOOR「Infinity」2009年『NEXT FUTURE』2010年
http://www.youtube.com/watch?v=he2G8FbqGtc
 別にジャクソン・ポロックを例に出す必要もないが、ポーリングという表現方法のデモンストレーションのような作品。北野武氏の『アキレスと亀』やNHKの番組『誰でもピカソ』のオープニングでもポーリングの手法が使われている。
 しかし、芸術分野の手法を大衆の大量消費財として昇華しようとした時に、その表現自体がpop(軽妙)であるかどうかは、重要な評価基準になるのではないだろうか? 例えば後に紹介する「PONPONPON」が1つの到達点を示すように芸術と大衆文化、カワイイとグロいが混在する世界から比べれば「Infinity」は通過点であるということが十分理解できるだろう。この辺は「平板なpopアート」に詳しい。

 浜崎あゆみ氏「About You(アルバム収録曲)」『MY STORY』2004年
http://www.youtube.com/watch?v=3Ut8c2HwFGA
「SAKURAドロップス」「Infinity」が外部参照というかミュージック・クリップ以外の芸術作品からのイメーヂの流用であるのに対して、先行のミュージック・クリップから参照を試みたのであろう作品が「About You」。
 意見が分かれるかもしれないが「FINAL DISTANCE2001頃」からのインスパイアがあることは明確だろう。「FINAL DISTANCE」が距離をテーマに〈自己〉の外界にある〈他者〉に対しての見えない壁を表現しているのに対して、「About You」が〈自己〉の完結性というか外部接続が困難な〈自我〉を表現するために見えない壁を登場させている。
 ここで注目されるのが、見えない壁の質感だろう。個人差はあるだろうがガラスと考えるよりプラスチックに近いのではないだろうか? これがゼロ年代の歌姫の特質というと語弊があるだろうか? ガラスの質感の特徴は温度の保持、つまり触れた瞬間は冷たく、触れ続けると逆に温もりを感じる特性があり、プラスチックは冷たさも温もりもなく、ただ透明な物質として、そこに厳然と存在するのだ。ナウシカが王蟲(オウム)の抜け殻を運ぶシーンがあるが、王蟲の抜け殻もプラスチックに近い感触なのではないだろうか? それが何を意味するのか? 宿題にしておこう。
 また、浜崎氏が、まだ評価の定まらない時期(ファンからの評価は即時に下されるが世間的な評価は少し遅れる。たとえ評価が定まっても時間的距離を取ってパロディが生まれるのが常識)に「FINAL DISTANCE」をオマージュする必要があったのか? それは宇多田ヒカル氏にとって「FINAL DISTANCE」が決定的な作品であり、その〈決定的〉性を浜崎氏が必要とした側面が強い。この「〈決定的〉性」とは何か? それを、まだ、うまく説明できないんだな。
 しかし、フルバージョンの2つの作品を見比べれば、自ずと、その共通性と偏差としての差異が見つけられるハズ(まあ、どんなに似ていない作品でも、それはあるのだが)で、ごちゃごちゃ書くのは鑑賞の補助でしかないのだ。


【第3+1室】ダンス部門。あるいは韓流(はんりゅう)に就いて
 いや、ダンスというと舞台芸術の一部として考えられてきたが、ヒップホップ系のダンスについては、アートの側面からは正確に評価されてないのではないだろうか?
 ミュージック・クリップを芸術として評価する場合、これまで一過的な舞台芸術の一部と見なされていたダンスという行為が、肉体を通した表現行為として、また、動画として定着されることによって、新たな表現行為の〈場〉が形づくられるのではないだろうか?
 一方で、韓流(はんりゅう)という流れは、ゼロ年代の〈歌姫〉現象、10年代のAKBグループによる現象と同様に、日本国内での音楽享受史のなかで動かざる地位が存在する。
 韓流のポップス = K-POP(ケーポップ)というと、洋楽的な曲調と日本的なプロモーション活動とオリジナリティーの欠如が指摘されているが(まあ、前評判なんてのは、そういう話を聞いてK-POPを聴きたくなければ聴かなければいいし、好きで聞いているのに、そういう評判で心証を害するのであれば批判を無視すればいいものなのだが)、ことダンスという面においては、オリジナリティーを認めてもいいように感じる部分もある。
 今回は、あくまで日本におけるK-POPの位置づけという観点に立ち、韓国での事象は、補助的に関連する部分のみ取り上げる事にする。

BoA(보아)氏「VALENTI」2002年『VALENTI』2003年韓国語版『miracle(2.5集)』2002年
映像は『8 films & more』2003年(日本語版)
https://www.youtube.com/watch?v=qwNz_anqd2U
 韓流の先駆けというか、ゼロ年代の歌姫現象の一部と考えてもいいのかもしれないが、BoA氏の存在は、その後の韓流の台頭を考えれば先駆的。
「VALENTI」は2002年に日本語の歌詞で発表されるが、当時、まだ韓国国内で日本語詞の歌を歌うことが法律で禁じられていたため、韓国語詞版がBoA氏の訳詞によって発表された。映像は日本語詞のモノと変わらないのでは?
Jewel Song(日本語2002→韓国語?)」のように映像表現によって感動を与えるタイプのミュージック・クリップもある中、ダンスがメインのミュージック・クリップであることに注目。
 90年代からゼロ年代のコーラスグループを概観すると、デビュー当時はダンスをメインにしたプロモートがおこなわれるが、一定の時期が過ぎ知名度が安定すると、ダンスが軽減されたりする傾向があった、日本では。
 BoA氏の場合、比較的最近の曲「COPY&PASTE(韓国語版がオリジナル2010年)」でも、ダンスメインの構成となっており、その後の韓流の歌手やグループもダンスを多用する傾向があることから注目されるのでは?

KARA(카라)「ミスター(MR.)」2010年『カールズトーク』2010年。映像は『KARA BEST CLIPS』2011年
https://www.youtube.com/watch?v=s2EQm6WPMHs
 いわゆる「ヒップ・ダンス」とか「カラ・ダンス」と呼ばれて一世を風靡したミュージック・クリップ。
 脱退騒動とか著名な俳優によるテレビへの韓国文化の急速すぎる流入に対する苦言などの問題から、小康状態の感が否めないが、忘年会でKARAをやるか少女時代をやるかとかで世相の一部になっていたのは、紛れもない事実なのではないだろうか?
 過去の経験を反省して失敗のない未来を考えるのもいいが、ゴリ押しが問題だったから世相的な現象までが「なかった事」になるのは不自然だと思う。
 KARAは韓国国内ではフェミニンな楽曲で、ある程度の人気を得ていたが、KARAの存在を決定的にしたのは「LUPIN(루팡)2010年」ではないだろうか?って、韓国語はわからないので、日本語情報なのだが。。。

少女時代(소녀시대)「Gee」2010年『GIRLS' GENERATION』2011年
http://www.youtube.com/watch?v=mpoKx48WmEM
http://www.youtube.com/watch?v=U7mPqycQ0tQ(韓国語版)
「Gee」の歌詞くらい優れた多言語化の作例を管見、見つけ出せていない。
 脚韻を踏みながら「回避せよ」「恋(こい)ハセヨ(恋なさいませ)」「応答せよ」「バイブレーション(vibration)」と言葉遊びに満ちている。韓国語詞の該当箇所を見れば、「Gee」の歌詞が日本に対して宛てて書かれている事が十分理解できるだろう。
 韓国では「ポピポピ2011年」とか「ウラララ、ラララ2012年」など擬音語・擬態語を越えたような無意味な語彙を羅列して楽曲を成立させる動きが顕著で、韓国国内でも、その運動には賛否両論が存在する。日本で言うところの日本語の変化に対する「間違っている!」という批判に近いのかもしれない。
 この2つの現象は、一見ちぐはぐなように見えて、同根の事象に僕には見える。例えば「恋ハセヨ」と音で聞いた時に恋は日本語読み、名詞にハを付けて恋ハ-ダという動詞にして、しなさいの「セ」、丁寧語の「ヨ」をストッパーに付けて「恋ハ-セヨ(恋なさいませ)」になるという文法解釈を、日本の多くの人はおこなわない。
「恋ハセヨ」の恋が理解できれば、「回避せよ」の「せよ」と似た感覚で受け取っているのではないだろうか?
 このことは逆に、語彙から完全に意味が喪失しても発音学的な色彩のニュアンスのようなモノとして楽曲の語彙が捉えられるのでは? という運動につながる。
 洋楽やK-POPに親しんでいる日本人で楽曲を聞く中で歌詞の世界観まで享受する人は少ないだろう。韓流ドラマでも訳詞がテロップで流れるから曲の切なさと相乗効果を起こしているに過ぎない。

 こう書くと韓国文化に日本の大衆文化が侵されている感覚におちいる人もいるのかもしれない。しかし、それは全くの誤解だ!
 例えば、ゼロ年代の〈歌姫〉の歌詞には共感を抱く人も多く「7回目という回数が絶妙!」という有名な絶賛文も存在するのだが、松任谷由実氏の歌詞に比べて実態が欠如しているとか、具体的な事物に対する言及に乏しいという批判も存在した。しかし、それ以前の歌詞の世界観を改革した事は間違いないだろう。
 また10年代に入ると、ゼロ年代の〈歌姫〉の歌詞の世界観は重厚すぎるが故に敬遠される傾向にある。テクノポップなどの編曲側の特徴に、みんな目を向けるようになり、歌詞は二の次に目されるようになる。90年代がTKサウンドと呼ばれコンピューターで作ったような歌詞と揶揄された傾向の再来とも言える。
 このループって元を正すと、芸術活動で言えば、印象派からポスト印象派、ピカソからジャクソン・ポロックを20世紀、21世紀の初頭をとおして無限ループしているだけだったりする。
 長くなったので、もう、やめよう。