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尾張国分寺跡

 ツイッターの画像投稿して、なんで「あちゅら」って流行らなかったのだろう? といぶかしくなる。ここ借りるか、あちゅら借りるか悩んだことがあって、博物館や観光地の画像投稿をメインにするなら、あちゅらだろうと思った時期もあった。
 画像と、画像のタグになるような、つぶやきを入れて、それがゆるくバインドされたら、ツイッターより優れたツールだよね。あちゅらのアルゴリズムが劣っていたとも思えないし、よくいうガラパゴス化なんだろうな。一概にマネーフローの問題だけではないだろ? そんなんだったら不公平すぎる。
 まあ、掲示板借りても、こういう使い方もあるわけだし、ツイッター借りても、ツイッターとして使わない使い方もあるんだと思う。
 世界で1社とか言う、独占・寡占の状態がプラットホームには必要なところがあって、それではマーケットが死んでしまうという側面がある。
 とか、偉そうなこといいつつ、怖くて、あっちではネガティブなこと書けないの。

勤労福祉会館
文化財講演会
尾張国分寺跡~古代尾張と川の関わり~
 武蔵国の東海道への帰属、春日大社の奉斎が尾張国分寺の造営の時期と重なっていて、畿内の東国経営の再編としてとらえられるのではないか? というような話。
 畿内が東国を経営するのと同じように、東国(とくに尾張)の対畿内政策というのが、存在したように思えてしまう。たとえば、聖武の東国行幸の時の多治比真人の立ち位置なんて気になる。よく考えたら、広嗣の乱の九州には、防人が沢山いて、防人は東国の人だ。聖武は防人の故郷のノド元を通ることになる。広嗣の乱が成功すれば、即、聖武は尾張に攻め込んだのかもしれない。しかし、聖武が暴発すれば(あるいは、暴発を押さえるべく)多治比氏が黙っていなかったのだろう。
 なんか、1つのことが1次元的にとらえられないことは確かな気がする。

勤労福祉会館
文化財講演会
尾張国分寺跡~古代尾張と川の関わり~ 井口喜晴氏
20100912(日) 午後2時~3時30分