2題
鈴鹿市考古博物館
企画展
須恵器-自然釉の妙-
鈴鹿市域の須恵器ではなく、全国から自然釉のかかった須恵器を集めている。もう6世紀のある段階で陶邑系か尾張・猿投系かを云々するのは意味のないことのように思う。陶邑に産業センターのようなのがあって、技術のないところには陶邑から派遣する。猿投は必要がなかったから独特の形式を用いるというような感じなのではないだろうか?
自然釉に関しても、付着のさせ方が自然に近いだけで、比較的早い段階で技術的に完成しているのではないだろうか?
例えば、永仁の壺と尾張一宮・法圓寺の瓶子と見比べると、釉薬に微妙な違いが見られる。法圓寺の瓶子というと黄瀬戸のはしりのように考える向きもあるようだが、自然釉に近い、燃料として生木を用いて、ガラス成分を窯内に送り込むような仕組みを採るのではないだろうか? 永仁の壺は釉薬の垂れ方が厚ぼったい。何らかの形で釉薬を壺にかけて、それを垂れるように仕組んでいるのではないだろうか?
須恵器の場合も薪に生木を用いないといけないという、生産上の制約から、自然釉の付着に着目して、生の葉っぱを焚き込むとか、技術的な改善が、すでに古墳時代のある段階には確立するのではないだろうか? って、こんな事、キャプションに書いてあったのかな? 読んでないんで。
松阪市文化財センター はにわ館
仏教開花~花開く仏教文化~
あれだけ線違鋸歯文の瓦をみると壮観。あれだけ多くの遺跡から出土しているとは知らなかった。どうも、川原寺系統の亜種化? としてとらえられているのかな? 先日レビューしたように、線違鋸歯文には地域的な広がりと歴史が存在するので、面違鋸歯文が稜線の線鋸歯文になって、なんらかの着想で線違にしたという単純な話ではないような気がする。
外区に飛雲文や唐草文を配する、いわゆる近江系の鐙瓦が皆無ではないことから、線違鋸歯文の系譜抜きにも近江の影響というか、田村第(藤原仲麻呂邸)が七葉の飛雲文なんだな。あれ? 年代が逆になるな、、、
講演会
天武・持統の寺から聖武・称徳の寺へ
壬申の乱や聖武の関東彷徨のような国史レベルの問題と三重の白鳳~天平寺院をかみ合わせた労作。
「天武・持統の寺」と言っても、天武・持統時代の寺なのかな? と前置きしときながら、天武・持統は草壁を連れて桑名まで来ているのは大きいよね。
鈴鹿市考古博物館
企画展
須恵器-自然釉の妙-
20100911~1031
松阪市文化財センター はにわ館
仏教開花~花開く仏教文化~
20100724~0926
講演会
天武・持統の寺から聖武・称徳の寺へ 山中章氏
20100918(土) 午後1時30分~3時