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3題

 講演会のレビューって本則、書くんだっけ? まあ、いいや、書いちゃえ。

岡崎市役所福祉会館
考古学フォーラム2010 年度研究会
『三河国造から青見評の時代 —西三河の6・7 世紀—』
 午前の講演のみの参加だったが有意義な内容。石神遺跡の木簡がメインになるのか? 飛鳥・平城から出土した木簡をもとに『旧事紀』に登場する「三河国造」を立体的に復元を行った労作。
 講師の説は『考古学フォーラム20』に詳しいので、私見を、差し挟んでおけば、
 碧海郡や宝飯郡の郷数の多さから、そこを拠点とする三河国造や穂国造は、やはり他の国造級の豪族より多くの覇権を得ていたと考えられないだろうか?
 三河国造の部曲として三河長谷部氏が考えられないだろうか? 優位豪族の使役民は、他の有力氏族との兼ね合いやトラディショナルな権威から国造並みの覇権を7世紀中頃には得るようになったのでは?
 そのような中で石神遺跡の木簡(9)は、当時の三河における番匠の組成を示してはいないか? あるいは時期的に北野廃寺なのか寺領廃寺なのかは疑問が残るが、三河の現地の大工の棟梁に当たるのかもしれない。国造級の子女のような団長を想定する(木簡の断簡や経済的に別組織であった)かは難しいが、渡来系の技術者(複数人の可能性も?)、各五十戸から赴任の人員。人員に漏れたところは米を供給するようなシステムは復元できないだろうか?
 三河の場合、○○の氏寺と言っても棟梁は渡来人と各評の部曲という組成は変化しないのかもしれない。
 そう考えていった時に、三河地域の中で1番に建立された寺院である北野廃寺は、最優位の氏族「三河国造」の氏寺である蓋然性は高い。あるいは7世紀中頃の段階で「三河国造」は「物部」あるいは「三河長谷部」を名乗っていた可能性は捨てきれない。
 まあ、逆に木簡や正倉院文書に、登場しないことが三河国造の豪族を支配し使役しうると言う優位性と考えて、北野廃寺は三河国造の氏寺と考えたい。
 あと、おもしろそうなのは、鷲取の部曲が鳥取なんだよね、たぶん。こういう言葉遊びは好き。

名古屋市博物館
はくぶつかん講座
中国の古鏡と神々の世界
 案外に、午後は名市博という人が多いのにビックリ。
 前漢鏡、後漢鏡がメインになるのかな? それを鏡の発生から霊力を失い化粧道具になるという宋以降の鏡までのクロニクルとして、よくまとまっていた。
 鏡の文様なんて、先達がいて、これは○○の絵でと教えてもらわないと、なかなか頭に入ってこないのでシリーズで何回かやって欲しいくらい。
 みんな興味があるようで、いつもより3割増しくらい? 結構な人の入りだった。

名古屋市博物館
常設展フリールーム
中国の古鏡と神々
 方格規矩鏡は覚えておくと、いい鏡なんだよね。その説明がフリールームの目録に付けられているので、実物を見れるのは、当たり前にありがたいが、この目録も価値がある。展示もねられていて、展示位置が見やすく工夫されている。
 あと、千光寺本の『覚禅鈔』が出てた。萬徳寺本も100巻というウリなんだけど、元禄?の写本が、それ以外にあって、ああ、県史が調査に入ってたな。
『覚禅鈔』は100巻説も、それ以上の巻数140~600だったか? 諸説あって、みんな、はっきりとしたことは知らないという、優れて貴重な古典籍。読めなくてもキュン死しそうな代物。

みのかも文化の森
「美濃の白隠」展
 紹介が遅れまして、大変申し訳ありません。
 みのかもです。白隠が美濃で修行していたのは知らなかった。
 禅画と文字資料。「白澤之図」ってのが、印象深い。

岡崎市役所福祉会館6F 大ホール(岡崎市役所東側の建物)
考古学フォーラム2010 年度研究会
『三河国造から青見評の時代 —西三河の6・7 世紀—』
2011.0129(土) 午前10時30分~午後4時

名古屋市博物館
はくぶつかん講座
中国の古鏡と神々の世界
2011.0129(土) 午後2時~

名古屋市博物館
常設展フリールーム
中国の古鏡と神々
2011.0126~0327

みのかも文化の森
「美濃の白隠」展
2010.1211~2011.0202