23 尾張国府跡
国府は国の政治を行う場所(政庁)や国司の住居という中心的な国衙(こくが)と呼ばれる部分と、その周辺の都市を形成する部分に分けることが出来ます。
参考ですが江戸時代には、西は矢合や法花寺の先(儀長・井堀)、東は青木川の川筋沿い(下津)、南は北島の辺りまで「国府」と呼ばれていたようです。
国衙については江戸時代の終わり頃にかかれた絵地図には松下の祠(ほこら)の辺りとされています。
平安時代には国府宮神社の附近にあったことが推定されてはいますが、国司がかわるごとに住居はかわったかもしれませんし、政庁も時期によって移るでしょうから、現在でも考古学的には尾張国衙址のはっきりしたことは分かっていません。
漠然と国衙を考える場合、江戸時代には国府宮のみ国衙と呼んでいたとする記録もあることから、少し広く国府の南の鎮守という伝説を伝える高御堂・吉祥寺を南、西を稲葉・禅源寺、東を長野・萬徳寺、北を東畑廃寺(他の寺と時期がずれるので稲島・菩提寺、法成寺と考えた方がいいのかもしれません)と考えてみるのはどうでしょう?
*国府、国衙、府中などの言葉は地域によって使われ方が異なります。
上に書いたような国府・国衙の説明は、あくまで尾張の地名や伝承から思い描かれることと考えてください。
20 律令の時代
21 須恵器の変化
22 国の寺の登場
1 東畑廃寺
2 尾張国分寺
23 尾張国府跡
24 匡衡と赤染衛門
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歴史に対する私観ですので正確なところは学術書でご確認ください。
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