« 2010年07月 | メイン | 2010年09月 »

2010年08月28日

2題

 ツイッター始めようと思って、概説書を読んでたの。ツイッターの使い方は、なんとなく理解できたんだけど、ツイッター社が、どうやってお金儲けしているかは、立ち読みした、どの概説書にも書いてないの。すごく「?」なんだけど、結局、アプリケーションを、またぐことが多いからセキュリティーとか気をつけないといけないよね。
「#hakururi」と「#shiosai03」みたいなことをやってみたくて、もう音楽倫理はツイッターでやりたくないな。。。「#hakururi」は「博物館ぐるりめぐり(「博」と「る」と「り」に傍点)」の造語で、博物館・美術館の3行レビューを書こうと思うの。ここと何が違うんかいな? と思いつつ。「#shiosai03」は『潮騒トライアングル』というツイッター小説。高校生の男女と大学生の男が主人公。ある日、僕(大学生)が「海の見える街」にやってくる。って所から始まるんだけど、どうなるんだろ?

斎宮歴史博物館
海-伊勢と志摩の海-
 文書や木簡などの歴史的資料から立ち現れる伊勢や志摩の海産物。それを現在の伊勢湾沿岸の海産物と比較するような展示。
 自然科学的な内容を文系の人がきちんと咀嚼した感じがする。目録に軽く解説がついているけど、せっかくの写真なんかがパンフや図録になっていない。少し惜しまれるところだ。

刈谷市美術館
自然を愛した日本画家の饗宴
川合玉堂+現代日本画展
 山下清を見に行こうかと思ったけど、川合玉堂にした。そうか現代の日本画とセットだったか。
 川合玉堂のものは所蔵が一宮市博物館になっていて疑問を感じた。どこで保管するかと、どこの所有かは別な気がする。まあ、あり得ないことだろうけど、市が分裂するようなことになると問題になる。まあ、もっと別の事情なのかもしれないけど、、、ちゃんと聞いてくればよかったな。

斎宮歴史博物館
企画展
海-伊勢と志摩の海-
20100731~0829

刈谷市美術館
自然を愛した日本画家の饗宴
川合玉堂+現代日本画展
20100718~0829

2010年08月22日

集落に住めない人々

 いかん。どうも枕にひっかかってしまった。
 内裏の女房に代表されるように、宮という官衙に住まう人間というのは少なからずいるわけで、まあ、その人たちには集落遺跡に「実家」がある。と言われれば、そうなのかもしれないが、、、
 寺院なんかにも、もちん僧坊はあるわけだし、例えば堀内花ノ木遺跡で寺の南端の南にある竪穴建物群。「集落遺跡が、ここまで近接している」という意見もありそうだが、善光寺の参詣曼荼羅(だったか?)なんか見ると、どうも、病人とか貧民とか「公からの救いを求める人」というのが立ち現れてこないか? まあ、こういう人にも「実家」はありそうだが〈公〉との結びつきを考えたら、実家との結びつきは稀薄だったといわざるをえない。
 まあ、こういうイレギュラーをあげつらうと「網野史学に偏りすぎ」という、そしりも、まのがれないのだろうが、寺院や官衙の役割と、そこに定住する職員や利益享受者。官衙にだって修理(しゅり)的な機関も存在しただろうし、そこの職能民は、かよいだったのか? 官衙内に定住していたのか? 国司の居館は官衙と認知されるのか? 首長集落と認知されるのか? その辺の、細やかな細分類があって、弁別されるべき「集落遺跡」が存在するような気がする。
 散布地から「官衙・寺院」とは認められない遺跡を「集落遺跡」として集合論的に必要十分なのだろうか?

2010年08月21日

せっかくなので行間を読んでみる

「あふ。恭子ら〜〜ん。らめ〜〜っ!」
「へぇ〜っ。ひかパイは、ここが気持ちいいんだ」
「ねえ、ひかパイって、私の胸のこと? それとも私のこと?」
「もちろん、あなたの事じゃない。だって、コレがなかったらあなたじゃないでしょ?」
「ふげ! 痛ったたた。はふ、はふ、、、ん、んん!」
「ほら。ないと困るでしょ。じゃあ、あなたは、誰?」
「ひっ、ひっ、ひっ、ひかパイれす。た、たんにんしてくらさい」
「よくできました!」
「ところで、ところてん。なんで私は全裸で、恭子は服着てるの?」
「主従関係? ようは、あなたは私のペットって事。人間活動がペット活動になっちゃうね」
「そのオチは、カンベンしてくらはい」

2010年08月17日

浜崎氏は〈孤独〉なのか?

「あゆ素人なので、タイトルもわかりません。歌詞をちゃんと覚えることができなかったのですが、愛したい愛されたいと思ったときにはその人はいなかった、というような、誰かが遠くへ御隠れになったような悲しさを秘めた歌でございました。」
 たまたま、手元にあった『女性自身2010年8月31日号』の辻仁成氏の1文に目が止まった。「その人はいなかった」の所を「その人の〈心的現象〉が壊れた」つまり「その人は〈病理〉を発病した」としたらどうだろう?
 この1文で浜崎氏の、どの歌なのか見当もつかないし、辻氏が音楽倫理に、どの程度の造詣を、お持ちなのかは置かなければならない。
 しかし「あゆ素人」が行った歌詞の要約が音楽倫理にジャストフィットしていることは見逃してはならない。
 音楽倫理の問題が筆者の単なるミスリードではないことの傍証になるであろう。
 辻氏の文章の中で「孤独」というのがキーワードになる箇所があるが、はたして浜崎氏は「孤独」なのだろうか?
 ドフトエフスキーとか埴谷雄高が孤独だというのは、なんだか判る気がする。なんていうの、思想や哲学の頂点にいる。その難解さ、そのものが孤独なんだよね。
 しかし、浜崎氏の「孤独」といわれるものは、ようは二人称に対する否定でしょ。これは以前、指摘してないか?
「あなたは私の認めた何かではない。だから私は孤独だ!」これって本当に孤独なのだろうか? やっぱ、こういう書き方をすると、白痴は孤独になってはいけないと聞こえるかもしれないが、浜崎氏の孤独は、ともすれば商売になっているのである。文学でありエンターテイメントでなければならないハズだ。孤独の質が問われるのは、かえって当たり前である。
 浜崎氏の〈無謬(むびゅう)性〉を信じて、浜崎氏の歌詞世界に溺れるのは自由である。しかし、浜崎氏の「〈あなた〉を認められない」という〈孤独〉という特異性に着目して歌詞を資料操作するのも、また独特な味わいがあるであろう。
 また某氏に先んじて書いてしまった。

2010年08月14日

無茶ブリぢゃないか?

荻須記念美術館
文化財特別公開 萬徳寺の絵画

 愛染明王(密)、釈迦十六善神(顕)、両部曼荼羅(密)、三月経曼荼羅(顕)、『覚禅鈔』(密)と顕密の取り合わせが、いい感じ。
 なんていうの、マンダラって、結局、1+2とか、1+4というヒエラルキーで、16とか10というのは「群像」的な、まとまりとして捉えなくてはいけなくて、まあ、それはそれでマンダラな訳で「仏像QS」的なとっかかりって、やっぱ、ハードル高いのかな?  まあ、言い方悪いが蒙昧のカオスというのも、学術的な興味も感じてしまうのだが、それってフェアーなのか? と感じてしまう。

 ところで、文化財講演会の講師って無茶ブリぢゃねえ? 演題見て「こりゃあ講師、自前だよね」と勝手に思ってしまった。
 尾張国分寺と川って、そうとうハードルが高い。
 東畑廃寺なら、篠岡から河川交通で瓦を運んでて、下津高戸あたりが流通拠点だろうなとか、見当がつくが(と言っても、相当な独善な訳だが、、、)三宅川の川港って遺跡としてつかめていない。
 木曽川が氾濫して国分寺がどうとか、という、史料で、どこまで何が言えるんだろう。
 案外、講師はその道の大家で僕の知らないだけなのかな?

2010年08月12日

行間の読めん女だな

「ファストフードにも行けず、繁華街にも立ち寄れず、、、」
 って、僕の知るヒカルをたちあらわせる枕なんだけどな。
 まわりの人たちが変わっちゃって、マスコミに追い回されて、、、
 と、続いて、なんかフィルムの貼ってある後部座席から東京の街並みを眺めているようなイメーヂに続く。。。
 まさに『点』や『線』を、たちあらわさせるフレーズなんだよね。

 あれなのかな? もう『点』や『線』は過去の〈自分〉で、今は、もう、別のOSがインストールされてて「今の私は、あなたの知らない色」的なニュアンスなのかな?
 なんか、ネトラレヂャナイカ、ネトラレヂャナイカ、、、

 でも、三宅氏の中で「彼女から〈普通〉を奪ってしまった」というトラウマや、ヒカルに対するイメーヂが、その時点で止まっているとかぢゃなくてよかったな。ちゃんと聞けて、よかったね。

2010年08月10日

ネットの不可能性

 そうか、半年後には、名実共に浜崎氏が歌姫の頂点に立つんだな。そう考えるとワクワクする。
 まあ、某氏のコメントを待ってウチのコメントを考えてもいいんだけど、まあ、いいや。
 僕の考えは生史君に近くて「表現者が表現を(一時的に)捨てるということが理解できない」なんだろう。でも、なんか〈自己優勢性〉なんだろうな、生史君に「彼女は君の持ち物ではないのだから」と野暮ったいことを言いたくなる。そんなこと百も承知なんだろうけど。
 なんていうの何らかの活動をして対価を得るという行為が「社会と関わりを持つこと」という意見もあるだろうし、逆に、それは洗脳的なステレオタイプなのかもしれないし、、、
 まあ、ネット上でできることって限られてるからね。
 最後の最後は現実的・物理的に直接アクセスできる人しか救ってあげられないこともあるから。例えば某氏が粛清されたといっても「言論上の脅威だ!」とは言えても、実際問題、ウチは某氏の全てを引きうける訳にはいかないから、リアルが、そう決めたことだから受け入れるしかないわけで、、、
 まあ逆に、そういうリアルな不可能性が嫌で、全てを〈媒体化〉してしまうことも可能だったハズで、、、話ズレてない?
 話もとに戻すと、宇多田氏の休業というのは、生活権の保全という側面と原状回復費の使い込みというパラドクスが存在しないか?
 それと新曲に対してレ○倫や著○権協会がOK出すかな? たぶん神曲「MOON」は告発前だよね。
 まあ、音楽の歴史考えたら「放送禁止」というのは音楽のつくり手ではなくてマスメディアの方が判断を行ってきた訳だし、今回も、そっちで流れてるのカナ? まあ、ウチはウチとして存在するワケだし。。。
 休業の言い訳なんて、たいてい後付けでさ、もっと別の次元で自分の中で歯車がかみあって「やめた!」になるんだけど、少し、その言い訳について。
 人間の不完全性って将来の拡張への担保だから全否定って可能性をうばうことだと思う。別に真円になりたいと言っている訳ではないのかもしれないけど、、、「傷つけちゃった」「まだ継続中なんだよね」も含めて、人格であったり、その人らしさなのでは? 別に、そんなことは言ってないか。

2010年08月07日

3題

リニモで出陣!
戦国武将 スタンプラリー
 藤が丘でスタンプシートを配っていて、陶磁資料館などの入館割引なんかがあって、1日乗車券の利用での割引もあるらしい。
 藤が丘の改札の階の奥にあるスタンプを押してスタート。なんか、スタンプの場所を探すのが難しいな。
 そうか2ヶ所ハシゴしたらコンプリートか。2回に分けても、いいわけだし、、、
 陶磁資料館の絵ハガキ、けっこう「萌え」だぞ。専門家が「この絵ハガキ、欲しかったんだよな」というのもあると思う。(こういう書き方すると誤解する人がいるよね(爆))

愛知県陶磁資料館
ほほえみのかたち−やきもの人形展
 土人形とノベルティと呼ばれる景品的な陶器の人形が主要な展示で、関連して、土偶とか俑とか焼き物の人形群が展示されている。
 土人形も地域別に、あれだけ見せられると壮観とまではいかないかもしれないが「作例の違いは地域差なのか? コレクターの趣味の領域なのか?」とか、いろいろ考えさせられる。

愛知県陶磁資料館
正倉院文書が語る古代の尾張
 正倉院文書の概要と正税帳(しょうぜいちょう)、優婆塞の勤務記録などからの尾張出身の東大寺勤務者の話。
 やっぱ「部」の解釈というか位置づけをしっかりしておかないと、主従が違っちゃうようなことも、ありえなくねぇ?
 まあ「部」は忌まれるから、途中でなくなっちゃったりするんだけど、あるうちは弁別されてる訳だし、、、
 例えば知多の郡司は、古墳時代後期に移民してきた人の末裔で、移民以前のカキベの姓をそのまま使っていたとか、ぢゃないのかな?
 そうか「タフセ」と読むのか。(っていうか、マジメに文書読んでおこうよ)「田作」でタフセと読めるかな?「多(治比)」氏を「夫」に持つ「セ」とも解釈できないか? 水守夫人、土作生母説も採れるんだよね。
 やっぱ「一般的に判らないものとする」というのが学者なのかな? 小説家なのかな?
 っていうか、ウチの閲覧率の低さ、マヂ、ウケる。多治比真人 = 中央の人という一次元的な解釈が危険だと思うのは異端なんだろうか? まあ、対畿内工作員では、あるのかもしれないが、タフセの位置づけによっては水守の一族の親尾張性って、もっと言えるんぢゃないか?

リニモで出陣!
戦国武将 スタンプラリー
20100717~0831

愛知県陶磁資料館
テーマ展示
ほほえみのかたち-やきもの人形展
20100807~0912

愛知県陶磁資料館
連続講座「愛知県の古代を探る」第1回
正倉院文書が語る古代の尾張 丸山裕美子氏
20100807(土) 午後1時30分~3時