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2012年07月30日

戦国のあいち(5)

愛知県陶磁資料館
戦国のあいち
−信長の見た城館・陶磁・世界−
 展示はおよそ3部構成で、1部は愛知県埋蔵文化財センターが主体になる「城館」というか、当時の地域支配の中心になる守護所の変遷を、歴史地理学的な復元と考古学的な発掘成果による展示。
 第2部は愛知県陶磁資料館が主体になる「陶磁」の展示。窯業の現場である窯跡の説明とグローバルに東アジアの窯業の概観。
 第3部は愛知県立大学が主体になる「世界」観の提示。寺院の什物による仏教的世界観と、宣教師の見た日本像の復元。
 まあ第1部の守護所総覧をメインにして2部・3部で補強する感じと捉えればいいのだろう。ただ、寺院の什物に対するライティングが少々痛々しい。
 リニモ沿線の研究機関や、沿線の展示施設、愛知県の教育系組織が連携して、展示活動・啓発活動をおこなう事は、もっと活用されてもいいように思う。
 陶磁器に関係なくても、中世の仏教儀礼や天皇の即位儀礼に関する展示・シンポジウムなども今後、可能性があるのではないだろうか?
 愛知県史を語る会なんかも、もっとやって欲しい。

愛知県陶磁資料館
愛知県の遺跡発掘調査の成果
 特別展示室を半分に分けて、朝日遺跡の遺物を中心にした展示と愛知県埋文センターのクロニクル的なパネル展示。
 南館の2階にも埋文センターによる展示があるので関連して見ておきたい。

「愛知県陶磁資料館」の新名称【募集】
http://www.pref.aichi.jp/0000053033.html

愛知県陶磁資料館
戦国のあいち
−信長の見た城館・陶磁・世界−
同時開催
愛知県の遺跡発掘調査の成果
2012.0728〜0930

2012年07月27日

俳句

思い出す 事の多き哉 玉の汗
車窓から 電照菊見ゆ 夏の宵

2012年07月21日

難ありな3題(4)

トヨタテクノミュージアム 産業技術記念館(栄生)
巡回展
ノーベル賞を受賞した日本の科学者
 国立科博によるパネル巡回展。貴重な資料も多い事から複製品が多いが、日本のノーベル賞受賞者の研究内容、人となり、後進の子供たちに対するメッセージが簡潔にまとめられている。
 企画展示室での展示かと思ったら、自動車館のワンフロアーのこぢんまりした展示。夏休み期間は子供の入館が無料になるので、電力のピークカットやノーベル賞の展示のみの見学はすすめないが、産業館としての雄であり、現役で動く機械が間近で見られる機会は貴重という点からオススメ。
 おしむらくはアプリケーションとして図録や関連の読み物などがショップにあるとよかったとも思うが。
 常設展示や(以前行われた)企画展示の図録やミュージアム・グッズも充実しているので、その点では期待してよい。

NHK名古屋放送局
『平清盛』全国巡回展
 パネル展示だとは聞いていたのだが、1番に目に入ったのが、デジタルフォトフレームだったのにビックリした。
 まあ、こういう展示は特別展として予算が付くわけではなく、大河ドラマ制作に関わる広報の一環として予算が組まれているのだろうから、目くじらをたてて怒る性質のものではないが、こういうものが唯一の「ブンカ」だと思われると困るのは確か。
 逆に文化力だして、ドラマの調度と出土品を比較展示されても「誰得?」的な雰囲気になるのでは?
 まあ、栄・オアシスの付近にお立ち寄りの場合に、放送事業への関心の表示として立ち寄るという向きにオススメ、、、、、、しとこう。

名古屋パルコ 西館7F・特設会場
映画「へルタースケルター」パネル展&ミニショップ
「特設」という意味があれで正しいのだろうか?
 西館と東館の連絡通路にA4?サイズの写真が展示されていて軽く物販がある感じ。
 なんか経営主体が「PARCO」という看板のあつかいに苦慮している感じなのかな?
 季節的な関係なのかギャラリーの場所に水着が陳列されていたり、映画館がなくなっていたり(ゴメンナサイ、映画館は東館の8階でした。単館系の非常に優れた映画館なので是非訪れてください!)、なんていうの「PARCO」っていう看板にあるアングラなサブカルチャーの巣窟的なイメーヂが払拭されている。
 PARCOはPARCOなんだから、パッセをねらっても、パッセではないんだから失敗するんだと思う。
 個人的には、PARCOやパッセがトリエンナーレの会場として「営業展示」的なショーケースにならないか? と思う。
 その中で、PARCOの映画館でミュージック・クリップの展示や、ファッションアイコンによるキュレーションやトーク・ショーなど考えられないのだろうか? 建築の専門家なので、テキスタイル・ファッションのアート性とか、ポップカルチャーは門外漢なのだろうか?
 そのような事は、前提的にPARCOやパッセが商業的に成功している事が必要なわけで、トリエンナーレの予算云々以前に、そういう文化事業に近い商業活動に対して行政として、もう手の打ちようが存在しないのだろうか?
 普段生活している中で、単館系の映画館が消えたり、サブカルチャーのギャラリーの展示回数が減ったり、博物館・美術館の特別展・企画展の内容が予算的に見劣りするような感じになる中で、
 アイチ・トリエンナーレというのが、いったいいくら使って、何を目指しているのか?
 多分、それは僕の普段の生活とは隔絶した「美の祭典」なのではないだろうか?
 そんなに商業的に成功している芸術(音楽やミュージック・クリップ。歌舞伎や相撲。商業映画)がいやしい媒体なのだろうか?
 長者町で利益とは関係ない(あるいは金にならない)芸術的営為をおこなう事が美しい事、文化的向上に値する事なのだろうか?

 まあ、行政の事業といっても、誰かに対しての利益誘導で、それを引き出すためには、大きな声による陳情が必要になるのは、当然の事と理解しなければならないのだが。。。

トヨタテクノミュージアム 産業技術記念館(栄生)
巡回展
ノーベル賞を受賞した日本の科学者
2012.0714〜0902

NHK名古屋放送局
『平清盛』全国巡回展
2012.0720〜0729

名古屋パルコ 西館7F・特設会場
映画「へルタースケルター」パネル展&ミニショップ
2012.0705〜0722

2012年07月17日

【映像展示室】フューチャー・ビジョン3

【第4室】新潮流
 浜崎氏、宇多田ヒカル氏の作品群が注目を集めたのはゼロ年代の事象で、紀里谷氏も現在は「映像作家」の肩書きは使わず「映画監督」としているようで、まあ時代の潮流が10年とかという単位で変化するわけではないのだが、10年代には新たな潮流も散見される。
 現在の時点で今後注目されるミュージック・クリップの芸術運動について概観していく。

 北乃きい氏「サクラサク」2010年『』2011年
http://www.youtube.com/watch?v=NIyJW5R4zco
 最初「HEART STATION2008年」で頭角を現したのではないだろうか? その後、浜崎氏の多くの作品の映像監督となり、今、映像関連の会社の社長になるのか? 武藤眞志氏の監督作品。武藤氏の作品の特徴はグリーンバックの多用。まさにデジタル世代の騎手。10年代を牽引していく作家である。また、普通の人では考えないような奇想天外な演出をおこなうことでもよく知られている。「HEART STATION」でもラストの演出には脱帽した。
 まあ、作品自体はフイルム映画時代からよく使われる手法だが、このような手法がグリーンバックなら、タイミングも演技も関係なく表現できるというような見本市的に展示。まあ、ただ、北乃きいちゃんが好きなのだ。

 Mizca氏「ダメよ♡」2010年『UFUFU』同年
http://www.youtube.com/watch?v=syPqrcBq-9w
 スマートフォン、タブレットPCの元年とも言うべき2010年の作品。
 まあ内容はないのだが、タブレットのタッチ操作を駆使して画面を展開していくだけの作品だが、テクノポップという音楽とタブレットという時代性、近未来感が2010年という年に調和していた作品。
 このような手法は多用されており浜崎氏の「Microphone」にも採用されている。ただ、ナゼかの西洋の演出でタブレット感の存在理由が希薄になっている。

 きゃりーぱみゅぱみゅ氏「PONPONPON(ミニアルバム収録曲)」『もしもし原宿』2011年『ぱみゅぱみゅレボリューション(初回限定盤)(映像収録版)』2012年
http://www.youtube.com/watch?v=yzC4hFK5P3g
 ファッションアイコンとしても評判の高いきゃりーぱみゅぱみゅ氏の「PONPONPON」。新潮流の中でも一線を画する作品になる可能性もある。
 popな色調の中に、一見グロテスクでしかない、骨やのっぺらぼう、目玉などが配置され、独特の世界観を呈している。まあエログロナンセンスというジャンルは以前から存在するのだが、それがミュージック・クリップとしてpopな世界観の中で表現されるのは新しいのではないだろうか?
 このミュージック・クリップの世界観的なファッションアイテムを、きゃりーぱみゅぱみゅ氏が実際に着用しているのも注目される事象であろう。


【第5室】ボカロ現象
 いわゆる初音ミクに代表される音声合成ソフト(商品のシリーズ名からボーカロイド、略してボカロとも通称される)の世界は音楽の享受のみならず生産面にも変化をもたらした。これまで享受者であることを余儀なくされていたエンドユーザーが比較的、低予算かつ低い音楽的素養でボカロを歌わせることができ、かねてからのネットのブロードバンド化による音楽・映像の共有が容易になり商業音楽と肩を並べてボカロが認知・享受されるようになってきている。(バカ丸出しだな)
 ネット上で公開されることから、オリジナルのコンテンツが曖昧になったり発表年の曖昧さも、ボカロの醍醐味なのかもしれない。管見、よく知られているのかどうかも、よく解らないが気になった作品を展示していく。
 ボカロは書誌がよく解らないので、リンク先の解説などでご確認下さい。

sm7902754 【PV完全版】 初音ミクの消失 DEAD END 【MotionGraphics】tw」2008年
http://www.youtube.com/watch?v=Lm0KtK2kbmI
 異本の多い作品。羅列される言語を具現化して、それが消失していく様で「初音ミクの消失」というタイトルの曲を具現化している。
 ボカロという非人間の歌唱という技術と、モダンアートに潜在する既存の形式を破壊するような表現というのがあいまって新鮮みがある。

【鏡音リン】炉心融解【オリジナル】- Meltdown」2009年
http://www.youtube.com/watch?v=hiY9Z3kYAus
 歌詞の世界観が、すごく好きなんだけど、その世界観を朦朧とした筆致が的確に表現している。ボカロのミュージック・クリップは技術的に考えれば当たり前だが、作詞・作曲者と映像監督が異なることが、ままあり、商業音楽が音楽と映像を共通の人格の中である程度、演出するのと大きく異なる。逆に言えば、作家の作品に対する帰属意識が、ある程度オープンであり、二次創作や、あるいは享受に対しても寛容な素地が前提的に存在する。ネットの技術として「オープン・ソース」というソフト(OSやアプリケーションソフト)の開発に関する技術的な部分を公開して関連のソフトの開発に資するシステムも、思想的背景としてボカロの発展に貢献しているのかもしれない。(ほんとバカ丸出し)

livetune feat. 初音ミク 『Tell Your World』Music Video」2012年
http://www.youtube.com/watch?v=PqJNc9KVIZE
 グーグル・クロムというブラウザソフトというかソフト形の検索システムというのかのCMに起用された楽曲。CMは下。
「Google Chrome: Hatsune Miku (初音ミク)」2011年
http://www.youtube.com/watch?v=MGt25mv4-2Q
 千変万化な初音ミクがステージ上で歌い、さまざまな色彩が流れ込む感覚。
 まだ、映像を表現行為として評価すると言うより、ボカロ現象の概説に終始してしまうが、今後、音楽面でもミュージック・クリップの面でも注目される。
 非商業的な、いわゆる「チラ裏(チラシの裏の略で表現がつたないこと、そのことを卑下していう)」的な表現行為が一躍脚光を浴びて、時代の表舞台に立つことも今後、考えられるのではないだろうか?

「【初音ミク】TARKUS/タルカス Orch.+Vocal版【NHK大河/平清盛/ELP/MIKU】」2012年
http://www.youtube.com/watch?v=kwCDWgWM2N4
 おまけ的に。大河ドラマで起用され賛否両論の話題になっている(らしい)。
 こういうパロディというか時代の潮流にあわせた表現行為もまた、ボカロ現象の一部となっている。

【まとめ】
 ネット上はいわば無限の展示室なので、数を多く上げること容易である。またYouTube上にはミュージシャンごとの公式チャンネルが限定的ではあるが存在し、個々のアーティストを概観することは比較的容易である。
 しかし、展示室の作品を数本にしぼって、例えばゼロ年代からの音楽に関する映像表現の概観というと、音楽雑誌がやるの? 芸術雑誌がやるの?
 音楽雑誌も芸術雑誌も取り上げそうで、音楽通はみんな知ってるんだけど、一般までには、必ずしも浸透していない。と言うような視点で作品を集め展示室を完成させた。
 まあでも、昼行灯的なのかな? もっとエッジを効かせてもよかったのかも???

2012年07月14日

3題(3)

高浜市やきものの里 かわら美術館
愛と正義と勇気をうたう
やなせたかしの世界展
 1階がアンパンマンで、2階がアンパンマン意外のやなせたかし氏の仕事展。
 個人的には2階から見て欲しい。やなせ氏というと『アンパンマン』はもちろん『詩とメルヘン』の編集や「手のひらを太陽に」の作詞、震災の時に「アンパンマンのマーチ」への大量のリクエストがあったこと、そのことに感動した、やなせ氏が「奇跡の一本松」という曲を作詞・作曲したことなど、現在でも現役な影響力があり、やなせ氏の絵本作品には、にじみ出るメランコリーがあったり、とてつもなくがらんどうな虚無感が伴っていたり、もちろんユーモアもあるのだが、どうしても悲劇を高く評価してしまうのは、僕の癖(へき)だ。
 2階の『やさしいライオン』の原画、読んでて泣いてしまった。ライオンが「どう猛」であると見られる色眼鏡と〈母性〉と〈母性を求めるウブな子供心〉が、もう、ヒリヒリして何とも言えない。1種、70年代のニヒリズム的な世相の産物ではあるのだろうが、『やさしいライオン』1つとっても、その時、その場所にやなせ氏が存在したと言うことの証であると同時に、その作品に共感した僕たちは、どこかで義兄弟的なのだ。
 1階は日テレ系でアニメーションにもなったあの世界観の展示。館としては木曜の午前中に限定しているようだが、お母さんやおばあちゃんが、子供に読み聞かせをしてあげるのがオススメ。僕が行った時も読み聞かせしてる人がいたよ、ほほえましかった。
 どうしても美術館というと「お静かに!」というイメーヂがつきまとうが、笑ったり、突っ込んだりしながらボソボソ言いながら見るのが好き。美術館にあんまり慣れていない人の方が、かえって、そういう行為に怪訝(けげん)にしたりする、そういうものだったりする。
 図録がないのだが、あの分量を図録にすると、逆に高価な画集的なモノになってしまいかねないので、グッズが充実しているので、お気に入りのグッズや絵はがきなどを思い出にして欲しい。

半田市立博物館
企画展
知多の古窯
 12世紀中頃からになるのか? 知多半島の古窯が操業しだすのが。
 ちょうど藤原道長から平清盛の時代の焼き物が、めじろおし。
 清盛時代の窯業に興味があれば田原市博物館の「渥美古窯展」と2つ併せてみると、よりイメーヂが深まるのではないだろうか?
 時代劇の酒器の器種がイメーヂによってどんだけ、ねじ曲げられているのかが、よく判る。
 おしむらくは図録がないのだが『愛知県史 別編 窯業3 中世・近世・常滑系』
http://www.pref.aichi.jp/0000045461.html
 が刊行されているのか。。。

半田空の科学館
プラネタリウム 一般投影
鉄腕アトムと探ろう!
~土星をまわる神秘の星タイタン~
 今、西の空に土星が出ているらしいって土星は一年中みれるのか?
 土星探査機の成果報告になるのか? 土星とその惑星であるタイタンの基礎知識が、アトムを通してすんなりと入ってくる。逆に、アトムやお茶の水博士が子供にすんなりと理解されるのかが不安なくらい。

 個人的には、こういう館と名古屋市科学館の差別化点ってなんなのか? さっぱり判らない。
 名古屋市科学館はあくまで科学館のメジアンであって、東京大学ではないと言うのが個人的な感想。
 確かに名古屋市科学館の竜巻ラボはでかくて圧倒されるが、類似の展示が空の科学館にもあって、空の科学館のもので規模的にも十分なのでは思う。それ以上に竜巻被害の啓発やメカニズム、竜巻ラボを使って、どうやると竜巻のメカニズムを調べる実験が出来るのか? 大人の側の前勉強の方が重要なはずで、「名古屋市科学館が1等なのだから、1等を見せておけば間違いがない」という大人のステレオタイプこそが、1番、子供を堕落させている!
 また、プラネタリウムにしても、名古屋市科学館とこういう館の最大の違いは、制作会社が作成したコンテンツを見せるかどうか? になってくるのではないだろうか?
 個人的には名古屋市科学館の〈1等性〉だけが一人歩きして「名古屋市科学館のプラネタリウムなら間違いがない!」と無分別に考えているだと思うのだが、
 中には制作会社のコンテンツを低く見る向きもあるのかもしれない。しかし、テレビのような商業性の高いコンテンツを見て、商業音楽を聴いて、普段、生活しているのに、こと教育にだけ「商材として流通するコンテンツ」を嫌うのは、ただのご都合主義なのでは?
 どうしても教育性の高いコンテンツではエンターテイメント性が両立しにくい(エンターテイメント性をワルウケと誤解して、教育や先端技術に存在する、先天的な知的好奇心を刺激できない)作品が、存在しないとは言わないが、館のシステムと利用可能な商材のマッチングは学芸活動の醍醐味の1つで、もしプラネタリウムに興味があれば、学芸活動への賛同の意味でも定期的にホームページをチェックして、足を運んで欲しい。名古屋市科学館以外に。

 逆に名古屋市科学館のプラネタリウムは客足が伸び悩んだ時に、起爆剤として現在の上映スタイルを採用したはずで、オープニングで混むのは必定なのだから、商材を流した方が人数調整になったのではないか? 開館して、すぐの時に文化・スポーツ族の政治家さんが、喜び勇んで「実地見学のために見てきた!」なんて話しててさ、オレまだ見てないんだぜ、ワイルドだろぉ〜! ぢゃあないや、混んでるのに並びたくないのが、自分が苦痛に耐えられないのと、自分が見ない分だけ誰かが見れるだろうという二重の意味なの。

高浜市やきものの里 かわら美術館
愛と正義と勇気をうたう
やなせたかしの世界展
2012.0714〜0909

半田市立博物館
企画展
知多の古窯
2012.0714〜0902

半田空の科学館
プラネタリウム 一般投影
鉄腕アトムと探ろう!
~土星をまわる神秘の星タイタン~
2012.0616〜1014

2012年07月08日

2題(2)

名古屋市博物館
マリー・アントワネット物語展
 音声ガイドを『ベルサイユのばら』の池田理代子先生がつとめるなど、多少、ショウライズされた展示かと思っていったが、手堅く、まとめられた展示。当時の絵画資料などを駆使してマリー・アントワネットの人物像と生涯が、まとめられている。
 展示はおよそ3部構成で、1部が時代背景とマリー・アントワネットの人となり。2部が当時の衣装の復元で、撮影可能、一部試着?も出来ると体験型の新たな試み。3部がフランス革命とアントワネットの最期。
 音声ガイドが多少盛りだくさんすぎるのかな? ワンコーナーでの説明点数が少し多め。あと末尾の空音が少し長い3秒ほどあるのでは? その時点で操作が可能ならいいが操作ができず、空音を聞くのを強いられるのはストレス。
 まあ、しかし、キャプションを、ほとんど読む必要がなく、音声ガイドを借りた方がキャプションを読むより、すんなりと展示が入ってくるのではないだろうか? と言うことで音声ガイドはオススメ。池田先生のナレーションだし特典も充実している。
 おしむらくは、あえて展示されられなかったのだろうがマリー・アントワネットに関する『怖い絵』というのが存在する。まあ、その辺は『怖い絵』で要チェック! なのかな?

松坂屋美術館
風の画家 中島潔が描く
「生命の無情と輝き」展
 松坂屋へよって『相棒展』を見る予定だったが、待ち時間が1時間半ほどあって、キャパがあれなのか、音声ガイドがあれなのかよく判らないが、逆にみんなが待っている中で楽しむ自信も無かったので、1階下がって『中島潔展』へ。
 もし『相棒展』へ行くのなら、『中島潔展』を見ておかないのは片手落ちというくらいよかった。まあ作風が好きかどうかはあるんだけど。
 京都・清水寺にある成就院に奉納した襖絵のお披露目がメインなのかな? ホントにスゴいの!
 中島潔氏といとうあんまりピンと来ないかもしれないが、誰でも1度は見たことがあるのではないだろうか?
 小さな男の子と女の子、少し淋しげで、時に指をくわえていたりする。美しい大自然の中に、その憂いが、とても美しい。
 それをふすま絵という大幅に、どう、はめ込んでいくか? そこを、みなさんの目で確認して欲しい。

名古屋市博物館
特別展
マリー・アントワネット物語展
2012.0707〜0902

松坂屋美術館(矢場町・南館7階)
京都・清水寺成就院奉納襖絵 風の画家 中島潔が描く
「生命の無情と輝き」展
2012.0616〜0722

2012年07月06日

【映像展示室】フューチャー・ビジョン2

【第3室】パロディ
 パロディと盗作とオマージュというのは出力の面で似たような体裁をとることから、パロディという行為自体を反社会的現象と見る向きも少なくないだろう。
 しかし、一見して盗作と判るような有名作品に対する、そのような行為は模写とか、それに類する芸術的営為行為と見るべきだろう。(逆に、無名の作品を自作と偽るようなカタチでオマージュするような行為は法律的にも対応されるべきだろう。まあ、最近は、この辺は「破壊的行為」として認知というか許容されるべきという運動がないわけではない)

 宇多田ヒカル氏「SAKURAドロップス」2002年『Deep River』同年
 映像は『UTADA HIKARU SINGLE CLIP COLLECTION+ Vol.3』同年
http://www.youtube.com/watch?v=mlwCZm2MQbQ
 伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」をモチーフに地球の楽園が描かれ、同じく若冲の「動植綵絵」の「老松白鳳図」なんかも伏線としてあるのではないだろうか?
 全国を巡回した展覧会であるプライスコレクション展に関連した『BRUTUS』では紀里谷氏が若冲の作品と「SAKURAドロップス」の関連についてインタビューに答えていた。

 GIRL NEXT DOOR「Infinity」2009年『NEXT FUTURE』2010年
http://www.youtube.com/watch?v=he2G8FbqGtc
 別にジャクソン・ポロックを例に出す必要もないが、ポーリングという表現方法のデモンストレーションのような作品。北野武氏の『アキレスと亀』やNHKの番組『誰でもピカソ』のオープニングでもポーリングの手法が使われている。
 しかし、芸術分野の手法を大衆の大量消費財として昇華しようとした時に、その表現自体がpop(軽妙)であるかどうかは、重要な評価基準になるのではないだろうか? 例えば後に紹介する「PONPONPON」が1つの到達点を示すように芸術と大衆文化、カワイイとグロいが混在する世界から比べれば「Infinity」は通過点であるということが十分理解できるだろう。この辺は「平板なpopアート」に詳しい。

 浜崎あゆみ氏「About You(アルバム収録曲)」『MY STORY』2004年
http://www.youtube.com/watch?v=3Ut8c2HwFGA
「SAKURAドロップス」「Infinity」が外部参照というかミュージック・クリップ以外の芸術作品からのイメーヂの流用であるのに対して、先行のミュージック・クリップから参照を試みたのであろう作品が「About You」。
 意見が分かれるかもしれないが「FINAL DISTANCE2001頃」からのインスパイアがあることは明確だろう。「FINAL DISTANCE」が距離をテーマに〈自己〉の外界にある〈他者〉に対しての見えない壁を表現しているのに対して、「About You」が〈自己〉の完結性というか外部接続が困難な〈自我〉を表現するために見えない壁を登場させている。
 ここで注目されるのが、見えない壁の質感だろう。個人差はあるだろうがガラスと考えるよりプラスチックに近いのではないだろうか? これがゼロ年代の歌姫の特質というと語弊があるだろうか? ガラスの質感の特徴は温度の保持、つまり触れた瞬間は冷たく、触れ続けると逆に温もりを感じる特性があり、プラスチックは冷たさも温もりもなく、ただ透明な物質として、そこに厳然と存在するのだ。ナウシカが王蟲(オウム)の抜け殻を運ぶシーンがあるが、王蟲の抜け殻もプラスチックに近い感触なのではないだろうか? それが何を意味するのか? 宿題にしておこう。
 また、浜崎氏が、まだ評価の定まらない時期(ファンからの評価は即時に下されるが世間的な評価は少し遅れる。たとえ評価が定まっても時間的距離を取ってパロディが生まれるのが常識)に「FINAL DISTANCE」をオマージュする必要があったのか? それは宇多田ヒカル氏にとって「FINAL DISTANCE」が決定的な作品であり、その〈決定的〉性を浜崎氏が必要とした側面が強い。この「〈決定的〉性」とは何か? それを、まだ、うまく説明できないんだな。
 しかし、フルバージョンの2つの作品を見比べれば、自ずと、その共通性と偏差としての差異が見つけられるハズ(まあ、どんなに似ていない作品でも、それはあるのだが)で、ごちゃごちゃ書くのは鑑賞の補助でしかないのだ。


【第3+1室】ダンス部門。あるいは韓流(はんりゅう)に就いて
 いや、ダンスというと舞台芸術の一部として考えられてきたが、ヒップホップ系のダンスについては、アートの側面からは正確に評価されてないのではないだろうか?
 ミュージック・クリップを芸術として評価する場合、これまで一過的な舞台芸術の一部と見なされていたダンスという行為が、肉体を通した表現行為として、また、動画として定着されることによって、新たな表現行為の〈場〉が形づくられるのではないだろうか?
 一方で、韓流(はんりゅう)という流れは、ゼロ年代の〈歌姫〉現象、10年代のAKBグループによる現象と同様に、日本国内での音楽享受史のなかで動かざる地位が存在する。
 韓流のポップス = K-POP(ケーポップ)というと、洋楽的な曲調と日本的なプロモーション活動とオリジナリティーの欠如が指摘されているが(まあ、前評判なんてのは、そういう話を聞いてK-POPを聴きたくなければ聴かなければいいし、好きで聞いているのに、そういう評判で心証を害するのであれば批判を無視すればいいものなのだが)、ことダンスという面においては、オリジナリティーを認めてもいいように感じる部分もある。
 今回は、あくまで日本におけるK-POPの位置づけという観点に立ち、韓国での事象は、補助的に関連する部分のみ取り上げる事にする。

BoA(보아)氏「VALENTI」2002年『VALENTI』2003年韓国語版『miracle(2.5集)』2002年
映像は『8 films & more』2003年(日本語版)
https://www.youtube.com/watch?v=qwNz_anqd2U
 韓流の先駆けというか、ゼロ年代の歌姫現象の一部と考えてもいいのかもしれないが、BoA氏の存在は、その後の韓流の台頭を考えれば先駆的。
「VALENTI」は2002年に日本語の歌詞で発表されるが、当時、まだ韓国国内で日本語詞の歌を歌うことが法律で禁じられていたため、韓国語詞版がBoA氏の訳詞によって発表された。映像は日本語詞のモノと変わらないのでは?
Jewel Song(日本語2002→韓国語?)」のように映像表現によって感動を与えるタイプのミュージック・クリップもある中、ダンスがメインのミュージック・クリップであることに注目。
 90年代からゼロ年代のコーラスグループを概観すると、デビュー当時はダンスをメインにしたプロモートがおこなわれるが、一定の時期が過ぎ知名度が安定すると、ダンスが軽減されたりする傾向があった、日本では。
 BoA氏の場合、比較的最近の曲「COPY&PASTE(韓国語版がオリジナル2010年)」でも、ダンスメインの構成となっており、その後の韓流の歌手やグループもダンスを多用する傾向があることから注目されるのでは?

KARA(카라)「ミスター(MR.)」2010年『カールズトーク』2010年。映像は『KARA BEST CLIPS』2011年
https://www.youtube.com/watch?v=s2EQm6WPMHs
 いわゆる「ヒップ・ダンス」とか「カラ・ダンス」と呼ばれて一世を風靡したミュージック・クリップ。
 脱退騒動とか著名な俳優によるテレビへの韓国文化の急速すぎる流入に対する苦言などの問題から、小康状態の感が否めないが、忘年会でKARAをやるか少女時代をやるかとかで世相の一部になっていたのは、紛れもない事実なのではないだろうか?
 過去の経験を反省して失敗のない未来を考えるのもいいが、ゴリ押しが問題だったから世相的な現象までが「なかった事」になるのは不自然だと思う。
 KARAは韓国国内ではフェミニンな楽曲で、ある程度の人気を得ていたが、KARAの存在を決定的にしたのは「LUPIN(루팡)2010年」ではないだろうか?って、韓国語はわからないので、日本語情報なのだが。。。

少女時代(소녀시대)「Gee」2010年『GIRLS' GENERATION』2011年
http://www.youtube.com/watch?v=mpoKx48WmEM
http://www.youtube.com/watch?v=U7mPqycQ0tQ(韓国語版)
「Gee」の歌詞くらい優れた多言語化の作例を管見、見つけ出せていない。
 脚韻を踏みながら「回避せよ」「恋(こい)ハセヨ(恋なさいませ)」「応答せよ」「バイブレーション(vibration)」と言葉遊びに満ちている。韓国語詞の該当箇所を見れば、「Gee」の歌詞が日本に対して宛てて書かれている事が十分理解できるだろう。
 韓国では「ポピポピ2011年」とか「ウラララ、ラララ2012年」など擬音語・擬態語を越えたような無意味な語彙を羅列して楽曲を成立させる動きが顕著で、韓国国内でも、その運動には賛否両論が存在する。日本で言うところの日本語の変化に対する「間違っている!」という批判に近いのかもしれない。
 この2つの現象は、一見ちぐはぐなように見えて、同根の事象に僕には見える。例えば「恋ハセヨ」と音で聞いた時に恋は日本語読み、名詞にハを付けて恋ハ-ダという動詞にして、しなさいの「セ」、丁寧語の「ヨ」をストッパーに付けて「恋ハ-セヨ(恋なさいませ)」になるという文法解釈を、日本の多くの人はおこなわない。
「恋ハセヨ」の恋が理解できれば、「回避せよ」の「せよ」と似た感覚で受け取っているのではないだろうか?
 このことは逆に、語彙から完全に意味が喪失しても発音学的な色彩のニュアンスのようなモノとして楽曲の語彙が捉えられるのでは? という運動につながる。
 洋楽やK-POPに親しんでいる日本人で楽曲を聞く中で歌詞の世界観まで享受する人は少ないだろう。韓流ドラマでも訳詞がテロップで流れるから曲の切なさと相乗効果を起こしているに過ぎない。

 こう書くと韓国文化に日本の大衆文化が侵されている感覚におちいる人もいるのかもしれない。しかし、それは全くの誤解だ!
 例えば、ゼロ年代の〈歌姫〉の歌詞には共感を抱く人も多く「7回目という回数が絶妙!」という有名な絶賛文も存在するのだが、松任谷由実氏の歌詞に比べて実態が欠如しているとか、具体的な事物に対する言及に乏しいという批判も存在した。しかし、それ以前の歌詞の世界観を改革した事は間違いないだろう。
 また10年代に入ると、ゼロ年代の〈歌姫〉の歌詞の世界観は重厚すぎるが故に敬遠される傾向にある。テクノポップなどの編曲側の特徴に、みんな目を向けるようになり、歌詞は二の次に目されるようになる。90年代がTKサウンドと呼ばれコンピューターで作ったような歌詞と揶揄された傾向の再来とも言える。
 このループって元を正すと、芸術活動で言えば、印象派からポスト印象派、ピカソからジャクソン・ポロックを20世紀、21世紀の初頭をとおして無限ループしているだけだったりする。
 長くなったので、もう、やめよう。

2012年07月05日

【映像展示室】フューチャー・ビジョン

【イントロダクション】
 博物館の要件というのは展示品と、それを並べて陳列する、いわゆるキュレーションと呼ばれる編集行為だろう。
 デジタルミュージアムでは、結局、展示品をデジタル化して現物ではないものを展示するしかないというジレンマがあるが、
 逆に、現物がデジタルデータのものであれば、液晶絵画としてリアルな展示室に展示することも可能だが、図録のような媒体から考えれば、デジタルミュージアムとしての強みを生かせる展示行為がおこなえるのではないだろうか?
 今回はYouTubeのデーターを利用して、大衆芸術(popカルチャー)としてのミュージック・クリップ(PVはプロモーションビデオの略だがビデオというとフイルム式のモノを想像しやすいしプロモーション(販売促進)以上にアート性を高く評価していい場合もあり「ミュージック・クリップ」で統一。商標とかぢゃないよね?)を取り上げてみたい。

 まあ、好きとか印象に残ったミュージック・クリップのまとめ行為である。


【第1室】イコノグラフとモティーフ
 ミュージック・クリップの中でイコノグラフ(図像性)やモティーフ(象徴事物)を多用するアーティストとして浜崎あゆみ氏が挙げられるだろう。(ちょっと映像監督を調べる能力がないので監督ソートではなくアーティスト・ソートで失礼します。)

 浜崎あゆみ氏「Voyage」2002年『Rainbow』同年。
http://www.youtube.com/watch?v=R6VCCQnMH6o
 長編ドラマ『月に沈む』と対をなす作品で行定勲氏の監督になるのではないだろうか?
 サナトリウムで療養中の女性のもとに前世の因縁のある男が現れるというようなストーリーだったような。前世の姫君の名前がズバリ、モティーフになっていたりする。手に入れるには中古になるのか? 再販とか、なさそうだし。

 浜崎あゆみ氏「No way to say」2003年『Memorial address』同年。
http://www.youtube.com/watch?v=PKw-ESc5GW8
 サンタがティッシュ配りしてて、特別な絵柄のティッシュを特定の女の子にあげたいんだけど、、、といったストーリーだったような。公式にあげられている作品はトレーラー(予告編)というかティーザー(じらしのような心理的効果を意図した広告行為)というか、ショートバージョンなのでオチというか結末が思い出せないのだが、こういう全編を通して1つのストーリーの中で提示していく作品が多いのが浜崎氏の特徴。後で述べる宇多田ヒカル氏のストーリー性の欠如と好対照。

浜崎あゆみ氏「Rule」2009年『NEXT LEVEL』同年。
http://www.youtube.com/watch?v=OMBg1VA6xVE
 関係ないけど、ギターのリフがカッコいいよね。
 ストーリー性はないのだが、いわゆる浜崎氏の「一座」という表現が適当な作品。あっ、カギは浜崎氏の作品を通してのモティーフになっているんだな。
 日本式の演出は日本の作品のリメイクの外国映画の主題歌だから、輸出を考えたのではないだろうか?
 浜崎氏の映像美の頂点をなす作品(まあ、これからこれ以上の作品が出るかもしれないが・・・)だと、個人的には思う。


【第2室】ミュージック・クリップ藝術の完成
 やはりデジタル時代にミュージック・クリップを芸術の域まで高めたのは紀里谷和明氏による尽力の賜物なのではないだろうか?(こんな言い方する学芸員もいないな)
 ということで1室、使って宇多田ヒカル氏の作品群の解説である。
 言わずもがなだが、紀里谷和明氏は宇多田ヒカル氏のもと旦那。紀里谷氏はツイッター上でPerfumeのプロモートに携わりたいなどの発言もおこなっている。

 宇多田ヒカル氏「Can You Keep A Secret?」2001年『Distance』同年。映像は『UTADA HIKARU SINGLE CLIP COLLECTION Vol.2』同年。
http://www.youtube.com/watch?v=AwQuXbae3N4
 紀里谷氏の関与以前の作品だが、先行作品として紀里谷氏の方向性も意識づけられる作品になったのではないだろうか?
 近未来ものというか人工知能を備えたアンドロイドが〈母性〉的なモノを求めるというようなストーリー。ヒカル氏の作品にしては珍しく、ストーリー仕立てなのが注目されるだろう。後に紹介する「You Make Me Want To Be A Man」と〈構造〉的に双璧になっているのではないかと考えている。その辺は「You Make Me Want To Be A Man」のミュージック・クリップを参照の上。

 宇多田ヒカル氏「traveling」2002年『UTADA HIKARU SINGLE CLIP COLLECTION+ Vol.3』同年。
 楽曲は「traveling」2001年『Deep River』2002年
http://www.youtube.com/watch?v=Tfc8w6A-f9U
 いわずもがななので別の作品を紹介してもいいのだが、〈宇多田ヒカル〉と言えば「travelingコスプレ」という定番を生み出すまでに大衆に認知された作品。
 一部のファンの間では『メトロポリス』へのオマージュの強い作品なのではと指摘されており、以前「traveling」のコマ割にあわせたトレーラーが提示されたのだが、現在見つけられない。
 他の『メトロポリス』のトレーラーを見る限り、現在、感覚的にSFとされる分野のメジアン的作品なのではとも考えられ、現時点で、その影響関係は留保する。

 Utada氏「You Make Me Want To Be A Man」2005年『EXODUS』2004年
 映像は「You Make Me Want To Be A Man」2004年
http://www.youtube.com/watch?v=ZvviETUQsIs
 アルバム『エキソドス』発売後にシングルカットされた感覚になるのか?
 以前はiTunesでミュージック・クリップをダウンロード出来たようだが、現在、日本のサイトではエントリーされていない。
 キリスト教的な教養と宗教に対する寛容さがないと享受できない映像。
 宇多田ヒカル(名義はUtada)氏の近未来的世界観の金字塔になるのではないだろうか? ロボット化、データー化された身体能力と再生産される身体性。「Can You Keep A Secret?」より明確に子供目線での〈母性〉との対峙が描かれているのでは?

2012年07月03日

【EotY】2012年第2四半ベスト3(1)

【ベスト3】

名古屋市博物館
尾張氏(おわりうじ)
☆志段味(しだみ)古墳群をときあかす
 やはり先行研究の提示する遺跡群の抽出ではなく、志段味の古墳群を軸に、それを補強する資料を集めていくことが、以前の展示『古墳とは何か』と差別化できたところで第一。

奈良県立美術館
光と影のファンタジー
藤城清治 影絵展
 来館者数がニュースになるほど盛況だった展示。
 ただ視覚的に美しいだけでなく、ストーリー・物語としての美しさ、ヒリヒリとした感覚。次点。

三重県立美術館
蕭白ショック!!
曾我蕭白と京の画家たち
石水博物館
曾我蕭白と伊勢の近世美術
 曾我蕭白のネームバリュー以上に、蕭白ゆかりの伊勢で行われたことが重要。入選。


【総評:5件】(順番は鑑賞順)

奈良国立博物館
解脱上人貞慶
−鎌倉仏教の本流−
 貞慶は旧仏教の人ということで、世間的には評価も不十分なところもあるが、押さえておくべき人物。

名古屋市蓬左文庫
江戸の粋−尾崎久弥コレクション−
 江戸軟派研究というとナンパのくせに硬くなるがサブカルチャー的な大衆性、軽快性を持った内容。

皇學館大学 佐川記念 神道博物館
神社名宝展ー参り・祈り・奉るー
 大学の附属博物館での企画展。今後の展開にも注目。

名古屋ボストン美術館(金山)
ボストン美術館 日本美術の至宝(前期)
 言わずもがなにスゴい展示。後期展にも注目!

田原市博物館
渥美古窯と現代陶磁
 渥美窯の製品と時代、その背景の人物関係。