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2007年06月28日

〈中世日本紀〉の世界

背景
輪郭
分類

2007年06月26日

鎌倉複雑系2

 慈円は親鸞の剃髪の時の師匠であったと伝えられている。
 親鸞といえば法然。慈円は法然を「陰でかばい大きく包括する思想的余裕と理論体系をもっていた」(『王法と仏法』p54)らしい。
 法然の弟子筋で興味を引くのが東大寺の復興をなした重源。快慶もmojikyo_font_101911阿弥陀仏と自称していたとすると専修念仏と深いつながりが感じられる。
 南都と言えば「興福寺奏状」を著して法然を批判した解脱上人貞慶。南都・北嶺をひとまとまりとみれば、この時代の専修念仏に対する法難はなんとも南都・北嶺の内輪もめのように感じてしまうのは、少し考え方が甘いだろうか?

中世一般

私の考えでは、中世は貴族・武士・寺社の各勢力が葛藤しそれぞれの特色を競い合い、次第に武家の勢力が支配的になりながらも最後まで多彩なままに推移した時代である。

『王法と仏法』p110

伊勢神道

中世の伊勢神宮が、仏教全盛時代のただなかにあって古代以来の伝統儀礼−−−それが文字通り日本固有の習俗か、それとも道教的なものであったかなどは、さしずめ問わないとして−−−を伝え、仏教の用語・作法・服装などを忌避する禁忌を守っていたことは、よく知られている。けれども、中世の伊勢神宮が真に全面的に仏教を忌避し排斥していたのではなく、他方で僧侶の参宮が行われたり伊勢の神官たちが仏教にかなりの造詣をもっていたりしたことも、それに劣らず重要な事実である。

「日本宗教史上の「神道」」『王法と仏法』p81

 いわゆる忌み言葉のようなものが伊勢神宮で使われ、それを何故か僧侶が見聞きする。「第六天魔王譚」とともに、、、(『沙石集』)
 伊勢神道と呼ばれるカテゴリーの典籍は、いかにも古代を引き継ぐようなレパートリーに満ちている。
 しかし、その周辺には〈中世日本紀〉も両部神道も存在していた。
 伊勢神宮に存在した智の体系を復元するといかなる事になるだろうか?
(神宮文庫だな、、、)

アンチ国家神道史観

「日本宗教史上の「神道」」『王法と仏法』p65〜

 アンチ国家神道史観とでも呼ぼうか? 国家神道が再びおこなわれないための史観。
 そのように感じるのは、客観性に欠けるだろうか?
 仏法に対応するカタチで日本の神々の体系としての「神道」はどの時代を通じても存在していたのではないだろうか?
 しかし、両部神道、伊勢神道、山王神道、吉田神道のようにさまざまな体系化をなした「神道」が存在する。
 このような、さまざまな「神道」体系を、テキストに即して位置づけをおこなうことが大切なのではないだろうか?

 逆に「神道」という言葉を「神祇信仰」と言い換えただけでは、国家神道を防ぎ得ない。
 神仏分離令 = 廃仏毀釈運動、神社合祀令 = 神社合祀運動のような官民一体となった衝動的なエネルギーを如何に防ぐべきか? あるいは、ここ数年考え続けているテーマなのかもしれない。

2007年06月22日

積読2題

阿満利麿氏 訳・解説 『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう) 法然の教え』 角川ソフィア文庫
 なんか、いいよね。

佐原真氏ウェルナー・シュタインハウス氏 監修 『ドイツ展記念概説 日本の考古学〈普及版〉(上)(下)』 学生社
 いよいよ出た! 普及版。

『愚管抄』

要するに慈円の道理とは、政治的次元からいえば、九条家の政治路線−−客観的にみて最も弾力性をもち賢明(狡猾)であったようにみえる柔軟な路線−−の理論化にほかならなかった。
『王法と仏法』p52

『愚管抄』を思想書として読むとき、その思想は九条家の現実的な政治路線と重なる。
 王法と仏法。公家と武家。そんなタームでくくってゆくと、、、

鎌倉複雑系1

摂関家略系図

 まずは、慈円の血縁者。
 同母兄の九条兼実。摂籙(せつろく)、つまり摂関家の長。慈円の出家も兼実の考えによるという。
 兼実の曾孫に鎌倉将軍、頼経がいる。いわゆる摂家将軍。

 仏法の慈円。王法、公家の兼実。武家の頼経。また、兼実は源頼朝を厚遇したという。王法・仏法を九条家の下に掌握する。こんなイメーヂ。

「摂関家略系図」『王法と仏法』p38

2007年06月19日

慈鎮

慈円か元冦の時代を山田風太郎風にできたら楽しいだろうな〜。

2007年06月17日

王法・仏法

だから、「王法・仏法」というときの王法とは、実際には国王(天皇)や世俗諸権門の権力と秩序、その統治をいい、仏法とは、現実の社会的・政治的勢力としての大寺社ないしその活動のことにほかならなかった。つまり、王法仏法相依とは、単に仏教が政治権力に奉仕することをいうのではなく、仏教が社会的・政治的に独自性を帯びた勢力を形成しながら国家全体の秩序の構成原理のなかに入りこんでいる政治と宗教との独特の癒着のしかたを意味していたのである。

「王法と仏法」『王法と仏法』p27

 仏教(仏法)というと「世間虚仮」のような現実世界と距離を置くようなイメーヂがある。(なんとなく『王法と仏法』の史観に引っ張られながら、、、)
 しかし、中世にそのような世俗をさけるような部分は一セクションでしかなく、古代以来の「鎮護国家」の思想を強く受けながら、「王法と仏法」のように王法と対比される勢力を大寺社は持ち得た。
 いわゆる「僧兵」のように政治権力を力ずくで動かすような事が多くおこなわれていたという。

世相と史学

戦後三十年にして、いまこそそうした〝近代の神話〟が克服され、中世史像が神話的偏向から解放さるべき時期が到来しているのである。

 黒田俊雄氏「顕密体制論の立場」『増補新版 王法と仏法 中世史の構図』 法藏館 p21
 世相というか時代の雰囲気に引っ張られることなく史学をおこなうことが出来るのだろうか?
 国家神道的な史観に対するアンチテーゼとしての意味合いの強い感じのする『王法と仏法』。
 今では常識的なことが、その多くを占めている感じが否めない。

 さて、その史観というイメーヂは世相に引っ張られてはいないのだろうか?
 客観的な史学とは一体、、、

『キュービック・ジルコン』

「appears」 中居正広
「End roll」 爆風スランプ
「Duty」 聖飢魔II
「Moments」 森山愛子
「M(ロゴ表記)」 倖田來未

「First Love」

(敬称略)

2007年06月14日

『風と光と』

「30才」を新劇にしてみる。
タイトルは『風と光と』

なんちって(-。-)y-゜゜゜

2007年06月12日

III類型?

I類型 王権神話
II類型 在地系縁起
III類型 出自を自ら語るような説話

『竹取物語』「第六天魔王譚」「天岩戸」をこの類型にあてはめると。

I
II
III
『竹取物語』『竹取物語』「富士宮縁起」 
「第六天魔王譚」「神爾由来」「伊勢・大神宮事」謡曲「第六天」
「天岩戸」  『日本紀三輪流』
『熱田の深秘』『神祇官(私記)』『熱田の深秘』 

 現在知る所では、キレイにまとまる。III類型が、ちと難しい。
 荒唐無稽さに拍車がかかり神代には存在しない人物画登場する。
 謡曲「第六天」の解脱上人。『日本紀三輪流』の宝誌和尚。。。
 あるいは、これらの人物。これらの説話の伝播者の集合名詞なのでは?
 たとえば、「第六天魔王譚」は『沙石集』(II類型)によって語られる。無住は南都、西大寺とゆかりのある人物。
 西大寺といえば叡尊だが、何故、解脱上人? しかし、南都の重要人物というカテゴライズでは集合名詞としては相叶うのではないだろうか?

 もう少し、原典を読みこなさないとね。

2007年06月11日

予告篇2

好評σ(^_^;)?!にお応えして「予告篇」第2弾。

BGM「キューティーハニー」イントロ。
黒地に白字、年号(ゴチック)そして、代表作。
「そして、200X年」
「ビデオクリップ on MOVIE」
無音。
「めっちゃ期待してや〜」
「これはひとつの賭だ! by」

「同時上映「残酷「活」劇・円月「殺」法」」

2007年06月04日

『日本紀』研究略年表

時代年代歌学書神道書日本紀注
平安1100綺語抄  
1110俊頼髄脳  
1130奥義抄  
1140童蒙抄  
   信西日本紀抄
1180袖中抄  
  古今集序註 日本紀歌註
鎌倉  宝基本紀 
1240色葉和難集  
1270 神祇譜伝図記 
  倭姫命世紀 
  御鎮座伝記 
  御鎮座本紀 
  神皇実録 
  天口事書 
  神名秘書 
  御鎮座次第記 
  大和葛城宝山記 
  麗気記 
1300  釈日本紀
1320 類聚神祇本源 
 三流抄  
1330  旧事本紀玄義
   元々集
南北朝1340  神皇正統記
1360 神代口訣 
室町1400  日本書紀私鈔
1410  日本書紀第一聞書
1420  日本書紀私見聞
   日本書紀取意文

本表は大略を示すに止まる。
従って成立を示す年代も概ねの時期であらわし、年代不明も推定の位置に置いた。
書目は特に必要と認めたもの以外は、本論中引用の一部に限った。

「中世日本紀の輪郭」p1234
『元々集』の位置は微妙? あるいは、神道書でもいいのかも。(不確か、、、)

2007年06月03日

「中世日本紀の輪郭」

一 はじめに
二 「日本紀云」「日本紀に見えたり」
三 『日本紀』・『古今集序注』
四 日本紀の家「三種神器事」
 (1) 天神七代
 (2) 天瓊鉾・第六天魔王
 (3) 大和・あしびき
 (4) 鶺鴒(セキレイ)・和歌のはじめ
 (5) 月読
 (6) 蛭子
 (7) 素盞烏尊の反乱・ちはやぶる
 (8) 天岩戸
 (9) 手摩島(てまじま)・湯津の爪櫛
 (10) 天照太神・素盞烏尊の共為夫婦
五 『日本紀』研究略年表・兼員仮託説
六 まとめ

2007年06月01日

出現

「さあ、行きましょう」という声がする。ビックリして首をあげると、××、××両君が補陀落山寺の中へスタスタ入ってゆく。どうやら私は、ここにこうして腰をおろしたまま、よほど長い間考えこんでいたらしい。とりとめのない思案を切り捨てるように、破れた築地をくぐって、観音堂へ上ってゆく。……ふりかえると、海はたしかに目の高さに拡がっている。……庫裡へあがって寺に伝わる物など見せてもらっていると、うす暗い部屋の、いろいろな仏たちのたちならんでいるなかに、、、

「馬頭観音」p69
 写真を見るかぎり、典型的な馬頭観音ではない。おだやかな顔、唐風?の衣装。あるいは観音菩薩の眷属、二十八部衆などに由来するモノではないだろうか?
 論は広く、半人半獣の神々へと広がってゆく。「馬頭観音」も半人半獣の神の日本的展開というような意味なのだろう。
 乾闥婆 = カンダルヴァ(Gandharva)への言及もある。