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2010年02月26日

蛇足

「NOTHING FROM NOTHING」
 これこそアートなのではないか?
http://www.youtube.com/watch?v=K5yD55F91Kc
http://www.amazon.co.jp/dp/B000064EYQ/
http://ja.wikipedia.org/wiki/NOTHING_FROM_NOTHING
 EAST END×YURIがいて、「あれがラップ?」という疑問符が投げかけられていて、彼ら自身、あの体裁からの脱却のようなことを悩んでいたときに出た作品ととなるのか? この作品は、一見、2匹目のドジョウのように見えるが、そうではない。
 タイトルの「虚無から虚無へ」という言葉からも判るようにEAST END×YURIに対するアンチテーゼなのである。それを「EAST END×YURI風にさぁ、、、」みたいな言われ方をする中で、きちんと昇華している。
 また、歌詞にも注目したい。浜崎あゆみ氏の歌詞の源泉を感じるのは、筆者のみではあるまい。
 現在、あの企業が「権利所有者」のようだ(元社長の声明のコピペ、偽文書かな?)。
 あの企業の版権ビジネス(所属タレントの過去の作品について企業で一括に管理するような商法)のはじめに近い事例なんだな。
 権利がちゃんとしているのなら、是非、正規音源で聞きたいものだ。(まあ、YouTubeは準公認か?)

 こんなのも、あるらしい。
http://www.amazon.co.jp/dp/B0002SNEI0/
 あの時代らしい。。。荒れてたよね、2004年。

2010年02月25日

総説:観衆に強要する媒体

 もう「Orion」の手前あたりで飽きちゃってて、あとは、やっつけだな。まあ、最後? になるんで、少しヒートアップしてみるか。
http://www.amazon.co.jp/dp/4314007133/
『マインド・コントロールとは何か』の中で洗脳について、「好意を抱くものに対して、その思いを増幅する場合有効である」旨の言及があったように記憶する。このように考えた場合、音楽媒体にとって〈洗脳〉という行為は有効な手段であると考えられる。(逆に〈洗脳〉してまで伝えたいメッセージ、伝えるべき事があるのかというのはカウンターのテーゼであろうが、、、まあ、売れりゃあいいという話もあるわな)
 サブリミナルな視覚効果、平均より微妙に音を大きくして印象を刺激的にする手口。どうせやるんだったら、ボーカルの顔を1コマ挿入すればいい。(使ってるミュージック・クリップもありそうだな)
 しかし、このような手法は、臨床心理学的には、あまり効果がない、あるいは、全く意味を持たないとする意見もないわけではないだろう。
 だが、たとえ1%でも、0.5%でも反応したとすれば? 1億の1%が百万である事を考えたら、音楽ビジネスで、その数字が持つ意味というのは計り知れないものがある。(30万でもスゴイと言われる昨今)
 まあ、「平板なpopアート」という企画は「ガルネクは時代と〈寝て〉ない」という理由を考え出したことから始まる。「ハマるかも!」の頃にもう一押ししたら、時代と寝れるだろうと考えていたが、あえて、それを回避した観がある。しかし、理由が思いつかない。そう言えば絢香氏にしろJUJU氏にしろ、最近の女性シンガーは時代と寝ることを好まないものが多い気もする。(年食ったから、時代の潮流が見えなくなってるのかな? でも、時代と寝るということは誰からも解るハズで、、、音楽が有線からiPodに変わって的なビジネスモデルの変化から時代と寝ることができなくなったとも考えにくい。逆に音楽のビジネスモデルが時代と寝るという行為を必要としなくなったのかもしれない。それは時代にとって、得なのか? 損なのか?)
 まあいい、ガルネクの場合、外的因子を考えてしまったら、黒木メイサ氏と、忽那汐里氏、あと最近の北乃きい氏を排除してしまえば、その辺では一番になるのではないか? と思ったが、それは誤解である。それはガルネクという媒体に触れれば判る。
 つまり、ガルネクは売れているのである。それは、売り上げが1番とか、そういう意味ではなく「売れないハズのものが売れている」という意味での売れているではあるのだが。。。
 ここで、これまでのおさらいをする必要が出てこよう。例えば、アカデミズムの押しつけ、凡庸な発想の転回、戦略の勝算のなさ、あからさまな洗脳、、、これの何処に売れる要素があるのだ? それが少なくとも商業ベースとして成り立っているのである。
「売れないものを売るのが商売である」言い換えれば「自分のやりたいことをやって売れているのがスゴイ」のである。
「ゴリネク」ガルネクは時に、そのように揶揄される。それは、ガルネクのプロモーションにゴリ押しがつきまとうことによる。しかし、社長は浜崎あゆみ氏の時の方が、もっと、ゴリ押しをしたと言うことを認めている。
 しかし、この「ゴリ押し」はプロモーションのみにつきまとう言葉ではない。「観衆に対するゴリ押し」これが、この企業の特徴だ。
 つまり、カリスマには熱狂的なカルトが必要なのだ! その中で〈洗脳〉という手法が使われているのだ。
 いや、ここで付け加えておかなければならないだろうが、筆者は〈洗脳〉を一方的に否定することはしない。なぜなら、一部の進学塾でも〈洗脳〉に近い方法で知識を詰め込むことを行っているから、それは十年のオーダーで可否が求められてもおかしくない。
 ともかく、ガルネクは興味深い媒体である。そして、プロデューサー陣は「やりたいことをやって」ガルネクを売り出しているのである。
 とりあえず、今日はここまで。。。

2010年02月24日

『白瑠璃の碗』

常設展示準備 特別展
『白瑠璃の碗-東国に散った棕梠(しゅろ)の葉-』
*副題仮題

-東国に散った棕梠(しゅろ)の葉-
 葉は複数形の葉。葉は単数でも複数でも葉である。
 なんかイエとか、氏族とか利益共同体の中では、葉(人)は、あたかも複数でも単数のような振る舞いをするのではないだろうか?
 まあ、その中にはプロトコル的な「相反」の回路も含まれる。父、子があたかも相反な振る舞いをしたとしても、それは、別の価値観から見たときに、同じ数直線の上に乗っているような場合もあるだろう。例えば、時の権力者の背後につく、その権力者が父、子で異なる。権力者の名前を見れば相反だが、「時の権力者の背後」という共通点が見つかれば、それは「相似」といえよう。
 いかん、企画意図の説明がまだだ。

寸評

貝塚に牡蠣殻混じる遺跡かな
発掘の牡蠣殻出でし遺跡かな

 いや、逆に遺物の牡蠣殻に季節があるのか? 両句とも、その点に気づかない、あるいは、見ないふりをしている。
 上の句でいけないところは、字数が許せばパーセントまで指摘しかねない、几帳面さが「混じる」の語ににじみ出ている。
 また「貝塚」「遺跡」、「発掘」「遺跡」というのは、説明しすぎではないだろうか?
 結局、遺跡から出た牡蠣殻には季節はない。感じるのは古代人が牡蠣を冬に食べたであろうというという類推のみ。つまり、

遺跡にて いにしえの冬 牡蠣の殻

 のような句の方が自然に感じる。か、もう、遺跡は別にして、

メイチカの 惣菜屋で カキフライ

 このレシートの裏に走り書きで書いたような、さらっとした流れ、なんか好きなんだよね。
 なんか2句目が6音で強調されてるんだよね。
 いや、こういう句が好きなんだよね。なんかドヤかな?

「FRIENDSHIP〈MUSIC LIVE VIDEO〉」

 例えば、トリプル・トリプルで失敗することより、トリプル・ダブルで成功することの方が求められるんであれば、それは、はたしてエンターテイメントなんだろうか? まあ、スポーツとカテゴライズされている訳だし〈つまらない事〉は、エンターテイメントには禁句だけどスポーツでは許容されるものなのだろう。よもや東洋人にメダルとられるのが嫌で、そうしてるんぢゃないよね? 本末転倒。
 しかし、スポーツも事業仕分けされる昨今、エンターテイメント性を求めないスポーツで大丈夫なのだろうか? つまり、逆にオリンピックのチケットでも1席9千円とか(案外、このくらいするのか?)エンターテイメントと対等な対価を求め、収益で選手を育成するようなシステム(今でも、スポンサーからの広告費で運営しているのに収益を上げるのは難しいのか? 逆に刑事事件が目減りするくらいの過熱報道なのだから、放映権はもっと上げてもいい気もするな)というのはあり得ないのだろうか?
 それと、なんでオーストラリアを金髪の白人が引っ張るんだ! 逆に、純血の白人は、もうオーストラリアにしか存在しないという意味だろうか? なんかサブリミナルな作為を感じる。
 とまれ、スポーツなのか、エンターテイメントなのか、アートなのか、そういう大枠のカテゴリーを取っ払っても、厳然と存在する領域なんだよね。まあいいや、、、

「FRIENDSHIP〈MUSIC LIVE VIDEO〉」
 出品は、この作品で最後。
 ようは「For You」でしょ。同じような「タイム・リミット」があるんだけど、これは「For You」と断言できる。テーマは光でしょ。方や、すり切れたフイルムのイメーヂで、方や「光の輪」なんだけど、、、
 この作品にはサブリミナルな意味合いがあって、まあ銘打っているように「ライブ・ビデオ」なのである。そして、注目しなければならないのは、このあとに彼女らの初ライブが控えていることだろう。
 ライブの景観を、観衆に植え付けることによって、観衆のライブ参加に対する障壁を低くする目的がある。
 確かに「For You」「タイム・リミット」の次が『インディアン・サマー』だったのではないか? あるいは、そのような企図があったのか? なかったのか? 順番はその順だ。ガルネク・サイドちゃんと研究してるよね。
 しかし、大きな誤算が1つある。それは前者が、周辺の「やっぱ、ライブさせてやりたいよな」という思いが、あのような映像を作らせたという別解釈を可能にするのに対して、ガルネクの場合は〈サブリミナル〉が全面に出てしまうことだ。それが、いいのか? 悪いのか?

2010年02月22日

キュレーター活動

 他流試合というか、よそへ書き込んだ記事がだいぶたまってたな、、、と思う。別によそはよそのコミュニティーでやってればいいんだろうけど、まあ、こっちでまとめて展示してみるか。

http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50968212.html#comments
http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50970850.html#comments
http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50978336.html#comments
http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50987961.html#comments

 まあ、適切な内容かどうかも読者の判断にお任せして、、、というか、間違ったことを言ってはいないつもりだが、話の流れで激昂されるのは、仕事の性質上、ないわけではない。
 半丈六については、もう少し書き足さないといけないんだけど、まあ、それは別の機会で、、、

http://www.mandaraji.jp/wiki/main/?%A5%B5%A5%DD%A1%BC%A5%C8%B7%C7%BC%A8%C8%C4

 多言語化と梵字に特化したページを自分で作ると自分だけで情報発信して、恥ずかしい思いをしないといけないので、誰かやってくれないかなぁ、、、と、思ってたら、渡りに船。でも、あちらの方がスキルが上なので、ついて行くのだけで精一杯。
 だいたい多言語化の現状は説明できているのかな? ちなみに、「名無し」としているのは、まとめ直すときに著作権でもめません、さしあげますというような意味。

『多賀城』

『白瑠璃の碗』関連で、多賀城、調べなくちゃいけなくて、
http://www.amazon.co.jp/dp/4787710362/
http://www.amazon.co.jp/dp/4886214525/
http://www.amazon.co.jp/dp/4163693009/
 どれが、いいんだ? 県のA氏と市のH氏が同時に本出してる感じだよね。あんま適切な例えじゃないな。シリーズの方針もあるし、ううう、2冊も買っちゃうのか?
 なぜ、多賀城なのかと言えば〈征夷〉という行為が、畿内から軍事力が東国を横断するという、不思議な行為であること。
 そして、多賀城の瓦当。レクイエムである。単弁系の瓦が鎮魂の瓦として、当時、意識されていたとしたら? 蝦夷に対する鎮魂としての多賀城の存在は、考えられないだろうか。
 そして、その〈鎮魂の装置〉を作り上げた人物も気になる。瓦当の文様からすると、近江・湖南地域に、その源泉を求められるのかもしれない。近江といえば、少し時代は前になるが、多治比水守が国司をつとめていることが知られている。そして、征夷大将軍の中にも多治比縣守の名が見える。
 多治比氏の尾張での活躍を考えた場合も、小子部サヒチに対する鎮魂は大きな任務の1つであったのかもしれない。その多治比氏が〈鎮魂〉として単弁を採用し多賀城を建てたとすれば?
 壮大な歴史スペクタクルの中で、尾張や尾張氏の果たした役割、同系氏族、多治比氏の立ち位置。
 なんか、わくわくする!

2010年02月21日

「Orion」

「ぢゃあ! お前はどうするんだよ!」
 と、聞こえてきそうなので、1例をあげておこう。
 たとえば「巴文を染め抜いたリンゴのオブジェ、黒光りする触手、最後に触手がからみつき楠になる」というのはどうだろう? まあ「クサマ、SOD、『I am...』」な訳だが、新しく見えないだろうか?

「Orion」
 どうしてもツンドラを見るとシベリアを思い出してしまう。そこで想起してしまうことは「シベリアでオリオン座は見えるのか?」。こういうことを思わせてしまうのは作品として不利である。(まあ、作品を詳しく見てゆくと、どうも南米の山間部を意識しているようである)
 不利を承知で南米を舞台にした勝算が判然としない。そもそも、オリオン座を主題として、日本や、少なくともギリシャ(星座発祥の地)を舞台に採用しないのは、相当リスキーである。
 しかし、星座を扱うのはCGとして限界があるのか? MITAKAやステラシアターの敗因っていったい何だったんだろう? プレゼン能力の低さなのだろうか? コスト面の問題だったのだろうか?
 数年前に、名古屋・笹島でプラネタリウムがあったな。ああゆうものでもいいわけだし、、、
 こうなったら、学術主動のビデオ・クリップ。あっても悪くない、と思えてくる。。。

2010年02月20日

3題

鈴鹿考古博物館
国の華~伊勢国分寺の軒瓦~
 ああ、そうだよね。リアル博物館の限界だよね。展示資料人質に取られているようなモノだから、所蔵者に反対するようなキャプションはつけられないよね。「創建国分寺の廃絶」って、以前にも書いたけど、おかしな表現だもの。瓦の年代は、あんまり詳しくないけど、最末期の瓦って、火災の後の復興期の瓦が混ざってないか? 金堂の基壇なり、印象が薄れないうちに「国分寺堂」と呼ばれる仮施設が作られたのは、農道が金堂を避けるところからすると比較的容易に想像できることだし、「剃髪所」とするところから最末期の瓦が出ていることから、剃髪所の再整備も「廃絶」以後に考えたい。空也が尾張国分寺で剃髪するのは、それ以前にも僧として活動していたことから考えて、尾張国分寺において何らかの〈僧〉としての正当性を担保する儀式があったと考えるべきだろう。一説には、尾張願興寺に、その理由があったとする説もある。一旦、その当否は置くとして。まあ、尾張国分寺での儀式が「下野薬師寺の戒壇」と等質のモノであるかはよくわからないが、、、と、尾張のモノが出てると、尾張の話が長くなるので、逆に大鹿廃寺(南浦遺跡)とか、市内の他の瓦当もみたかったな。
 どうも、伊勢国分寺の瓦って伊勢国府の編みなおしというか、後期難波宮系の重圏文を蓮華文に直しているような感じの瓦だよね。大鹿廃寺を細弁化した伊勢国分尼寺と、在地勢力と国司の権限というのが、微妙にそれぞれ違うんだよね。

桑名市博物館
王朝のみやび 伊勢斎宮
 たまたま、朝、ネットしてたらやってるって聞いて行ってみる。そうか、、、「段付きのお姫様」って百人一首だよね。あれ、百人一首の図像というのも、案外、見るべきモノがあって、それが最近、くちゃくちゃになっちゃってるよね。京都の協会推薦って言うのが、ちゃんとしてるんだっけな?

四日市市立博物館
内藤ルネ ロマンティックよ永遠に
 ああ男の人だったんだ。そういえば中性的な名前だよね。『ジュニアそれいゆ』から、陶製のキャラクター、あのガラスに張る、いちごとか、テントウムシも内藤ルネだったんだね。
 でも、女の人ばっかだった。「あれ? こういうのカワイイと思うのってジェンダーだよね。性同一性障害とかぢゃないよね」と、考え込んでしまった。でも、まてよ、ホラー小説とか全然ダメだけど小酒井不木とか見に行ったもんな、、、いや、てか女の子のこと普通にカワイイと思うけど、「性同一性障害でレズビアン」とかあるのかな? いやいや、流されるな! こういう趣味・趣向はジェンダーだから。。。たぶん。

鈴鹿考古博物館
企画展
国の華~伊勢国分寺の軒瓦~
100116~0228

桑名市博物館
王朝のみやび 伊勢斎宮
100211~0307

四日市市立博物館
特別展IV
内藤ルネ ロマンティックよ永遠に
100213〜0322

2010年02月17日

「Be your wings」

 たまたま、ファンモンがテレビで歌ってるのを見て、ああ、あれ、口パクだとしたら、真ん中の後ろがふざけてるだけぢゃなくて、エヤーあやや的な一種の見せ物なんだなと思った。
 逆に言ってしまえば、ボーカロイドの声に人間の口パクをあわせることもできるわけで、それはそれで、アートだよね。
 愛知県美でトリエンナーレ関係で、映像の展示があって、真っ白な女の子が、なんか、ただ、しゃべってるのが無機質というような内容で「ああ、初音ミク以前だから、こうゆう表現はパンチがあったんだろうな」という結論にいたる。
 つまり、デジタル時計ができて、みんなが時間に縛られ初めて、みたいなところでデジタルの点滅というのはアートなんであって、今、それをやると『Mステ』の「能動的三分間」ぢゃん。「そうそう、アレやってみたかったんだよね、、、」って、職業作家的な発想だよね。(と、いいつつ、テレビのショーアップて、あなどれんよね。あのオルゴールの中で歌うのカワイかったもん)
「Be your wings」
『キャッツアイ』
『マトリックス』
 こういうの見て「デッサンっていうか、3Dでの位置関係がおかしいんぢゃない? あんだけ車で走った感じとか、刑務所の位置とか矛盾があるような気がする」というのは、ただの嫌みにしか聞こえない。だから、そういうことは言わない。
 アートと言うよりは映画の要素が多いよね。異時同図か、ワンカットで永ドリという体をとって、その要所、要所にモティーフを配置してゆく。練られているよね。エンドロールにドヤ感があるよね。

2010年02月16日

余談

 佐藤みきさんを見てたら「アレ? 誰かに似てるな?」と思ったの。
 いったい誰だっけなぁ? お前ぢゃないし、誰だったんだろ?
 と、思ってたら、あ! 思い出した!
 メリッサちゃんぢゃん! と思ったという話。
 どう? 似てると思う。

「Infinity」

「とうとう、アイツ、こっちに反旗ひるがえしてきやがった!」
 いやいや、そうではなくて、ここで、あの企業がなくなるのは、こっちとしても不都合なわけで、そこでこっちとしても策を巡らす必要があるわけで、、、
 でも、CDショップなんか見てると、状況は悲惨だね。新譜の棚、あの企業の作品ばっかだもんな。なんか、ピリピリとした金策のあとが、なにも判らなくても感じられるもんな。
 3月末までに、浜崎あゆみ氏の電撃移籍もあるのかもしれない。と、いいつつ、取引として数十億が動くわけで、そんな金が右から左になる企業が、このご時世あるのか? もう一方は、言うのをよそう。

「Infinity」
 一言で言ってしまえば、『標準土色帳』? と思ってしまう。マンセルの色立体でもいいんだけど、、、
〈色〉は、色相と明度と彩度でできてて、、、みたいな、Photoshopの使い方の説明のデモンストレーションみたい。
 ようは『アキレスと亀』のあの手法でしょ。あの手法に〈美〉は感じられないのだが、北野氏は苦肉の策としてある方法をとって、ある程度みれるモノにしているんだけどネタバレになるから止めておこう。流体のCGはスゴイのかもしれないが、、、
 やっぱ、ダンサーは外国人だな。真ん中の東洋人を目立たせるためなのか? ダンサーズの胸は贋物だよね。真ん中も入れてるのかな? 小さめだな。いやセクハラではなくて、こう言うのは視覚効果の一部だから、ダンサーズとボーカルで大きさが異なれば、それは比較するでしょ。しかし、東洋人にすると大きすぎるということになったのかな? と思う。
 やっぱMacBookの背面のリンゴマークが光るのはデザインとして秀逸だよね。やっぱ、キレイだ。

2010年02月15日

転ぶ

 別にどっちでもいいんだけど、
 両親から「転べ」っていわれてて、
 転ぶって媒体にとって「死」ぢゃん。
 えっ、それって親から言われるべきことなの?
 って、人間不信っていうか、なんか、ベタベタするの気持ち悪くなっちゃったのは、背景、こんな所だなと思ったら、
 ああ、それがそれで、こうなら、別にどっちでもいいや!
 と、思ってしまった。

 所詮、傀儡媒体だから、、、

「Seeds of dream」

 A氏のF氏への拒絶って、どっかで、僕に対する拒絶に直結していて、「ああやっぱり、オレが行っても「違う」って言うんだ」って、前提的に当たり前でありつつ、がく然とさせる答えを突きつけるわけで、「ああ、彼女は誰も愛せないんだ」という、まあ、それも至極当然でありながら、驚異的な答えを立ちあらわせる。それでいて1人で生きられないようなこと言うんだから、なんか凶悪な犯罪者だよね。結論から言って、、、
「Seeds of dream」
クツ
万華鏡
ボディーペイント
end roll
 最初に、風水的なことを言ってしまえば、「勝手に動くクツ」は「作られた虚像」の象徴だから、それを全面に押し出すのは、正しいのか、どうなのか?
 スニーカーにヒールがついて行くわけだから、どこかで不調和が生まれるのは必然だろう。しかし、それにしても歩き方に品がない。大股で一歩より、小刻みに刻んだ方が自然というか、僕の感覚はそっちを指示する。
 そして万華鏡。「万華鏡」が一部にとって、特殊な呪具であることを知ってて使ったのか? でもまあ、鏡像というのは、クサマを例に挙げなくても、ポップの常套手段であることは、指摘しておくべきだろう。
 ボディーペイントもそうだよね、ああゆうことは、日本人ではなかなかできないから、外国人だったんだろうか? 外国人の方が何かカッコよかったのだろうか? 逆に、脈絡のなさが見え隠れする。
 今回対象にする全作品共通だがend rollが付されている。一度見は斬新だが、全作品となるとなんか単調さが目立つ。
 クツが、どっかのブティックとコラボというわけではないのか?
 だから、逆に言って、アートとしてみたときに「Seeds of dream」の新鮮みって何なんだ? って思うわけ、ミュージック・クリップとして、ガルネクというパッケージで、共通化しているだけで、、、
 ああ、ロゴはドンツタタより、こっちのシャキンの方がかっこいい。これも差別化か? 別会社なのか?

2010年02月14日

マプサウルス

名古屋市科学館
肉食恐竜マプサウルス 生物の絶滅と多様化

 恐竜の復元の展示。親子が並んで展示されていて、あれ? 大きい肉食獣って子育てするのか? と思ったら、そこがミソらしい。
 群れをなして生活していたらしく、その群れの中の親子といった感じ。
 三葉虫、アンモナイト、サメ、大陸移動の説明、遺伝子と形態の変化についての仮説。。。
 いつも思うんだけど、科学関係の図録に対する不認識はいったい何なんだ? モンキーセンターは図録できないの判ってるから、チラシに書けるだけ情報を書いてた。でも、それだけでもあるだけでマシ。
 だから、遺伝子と形態の話なんて、他では聞けないし、リファレンスも必要な話でしょ。B4両面白黒の目録兼パンフだけでもいいから、あるとうれしい。といいつつ、イベント情報誌になんか詳しく書いてあったな。
「電気をつくろう」の方は、ほんとに子供向け。あれを一式で貸し出すところがあるのかな? まあ、いいや。

 ミュージアムショップで見つけた逸品。
 藤井旭氏編『ポケット宇宙図鑑』星の手帖社
http://store.shopping.yahoo.co.jp/starbook/pocheutyu1.html
 太陽系の惑星から、恒星の一生まで、カラーの図入りで、細やかに解説。児童・生徒から入門者向けかな?

 そうそう、業務連絡。いま、あんまりベタベタされたくないから、ベタベタするとフルよ。

名古屋市科学館
プレCOP10企画展
肉食恐竜マプサウルス 生物の絶滅と多様化
091205~100314

2010年02月13日

脅迫事件

 どっかで、ストーカー被害で一家、惨殺されているのに、自宅をピンポンされただけで警察が動くなんて、、、
 官憲が完全平等なものではないのは判っていても、この治安格差には愕然とする。もっとも、あの人も殺されちゃえばよかったのに、、、ではなくて、惨殺は食い止められなかったのか? の方だけど、、、
 たとえば、MDMAの事件の顛末や官憲発表を見ていたら、あの企業と官憲の密接な関係は推して知るべしだよね。そうなってくると、やっぱ、あの治安格差というのは、コネクションの太さなのか? という推論はぬぐいきれないわけで、別に、自分自身に不利益を被っている訳ではないから、どっちでもいい話なんだけど、、、
「脅迫」なんて犯罪は普通に「○○ちょうだい」と言っただけでも相手の取り方で成り立つ犯罪だから、別に後付けでもいい訳で、そうなってくると、容疑者の「思想信条の変化」というのは、学術的な興味がわいてくる。やっぱ「病理的よね」って言われて終わりなんだろうか?
 あの人はさ「HOPE or PAIN」の中で、こういう事って、頻繁にはないけど、時々あるんだよねって公表してるなんだよね。その中で、犯罪者扱いされた彼の気持ちって? ある意味、オレの分身なんだな。
 まあ、犯罪者に共感してしまうのは、ある種の病理なのかもしれないけど、あの人の作品を通じて感じる直感は、あの人が加害者で、容疑者の方が被害者だよね。もう、ここまで来たときに官憲というのが、正義のナタをふるえるのか? といったらノーだろう。まあ、官憲の正義なんてこんなものよ。
 いや、別に直接的に関係ないから、どっちでもいいんだけど、、、

2010年02月12日

ガルネク回折格子

 予想に反して、ここで副題発表。
 しかし、エンターテイメントってなんなんだ? 雑談や万歳に、その源泉を求めるべきなのは当然か、、、
 たとえば、メンバーの増員とか、厳しいオーディション。『アサヤン』的な、観衆の心を握りしめるような、戦略がはたしてエンターテイメントなんだろうか? と普通に思ってしまうのだが、例えば、ファンが1%から0.5%になっても、パフォーマンスが3倍になれば、1.5倍の充実度があるというような考えは、それはエンターテイメントではないだろう。1%を5%なり1割なりに、拡大してゆくことの方がポップだろう?
 まあ、「斎王群行」でも高浜の瓦の解説のブイでも『沙石集』でもエンターテイメント性があると思う人が言うんだからどうだか。
 さて、ガルネク!
「このアカデミズムが!!!」と灰皿を投げたくなる。
 いや、媒体としてあんなに純粋無垢な存在もないのは確かだ。それはプロデュースの段階で全く彩色されていないと言ってもいい。この2つの感情が交差する媒体---それがガルネクである。
 ガルネクは売れない。
「売れないものを売るのが商売」
 というようなことを社長が言っているが、それが、やっぱすごい。
 なぜ、売れないかと言えば「カッコよすぎる」逆に言えば「享受者のミスリードを許さない媒体」なのである。
 例えば、一姫二太郎はカッコいい。別にあの音楽で、あの男2人は必要ないのだ。別にMacが1人入ってもいいくらいだ。そして、あのオーバーアクション。見るものをゲンナリさせる。本当に売りたければ、あの2人はフェードアウトさせるだろうと思わせることを「一姫二太郎はカッコいい」はかき消してしまう。
 例えば、ビデオクリップ。地下鉄の駅に大量のネズミが走ってゆく、観衆はギョッとする。しかし、そのネズミが地下鉄の車両に入り、女のスカートに飛びつく。その途端、ネズミは「あのキャラクター」へと変身する。これは、カッコよく、見るものに別な感情を抱かせることを萎えさせている。
 非常に興味深い媒体としてガルネクは立ち現れてくるのだ!

2010年02月11日

サルビアの失敗

 ここまでで、だいたい話の前半は終わったのか? いったん内容を総括するような作業が必要だろう。と、思いつつ、うまくまとまらない。映像コンテンツの鉄則っていったいなんなんだ? だんだん、わからなくなる、、、
 サルビアビジョンというハイビジョン上映室があったんだけど、あれなんでなくなっちゃったんだろうと考えてみる。別に、こんな事、外野が詮索しなくてもいいのだが、、、
 最大の難点は、それがハイビジョンであったこと。国立博物館のコンテンツをかりてきて、30分おきくらいに、いろいろやっていたのだが、いかんせん自社製のコンテンツを上映できない。フロントにビデオデッキが置いてあって、それで「何番が見たい」とガードマンさんにいうとビデオを上映してくれる。あれがサルビアで見れたらな、、、
 結局DVDが普及してて、番号を選択したら、そのコンテンツが上映されるようなシステムが存在したら、待ち時間は前の人が見ている時間だし、好きなコンテンツが見られる。(これ名市博の地下だな)
 そうそう、自社製の常設展向けのコンテンツもあったんだけど、子供向けだった。未来人が飛行船形のタイムマシーンに乗って過去を振り返るような内容だったような。。。率直に言って、あれより空襲の被害状況の展示の方が見栄えがする。まあ、遠足などで博物館を利用したときのガイダンス用のコンテンツだったんだろうな。
 そういう意味で、感動したというか心うたれる博物館の映像コンテンツと言えば高浜の「達磨窯物語」だろうか? あと斎宮の初期のやつ。
 ああ斎宮の「その時・・・」を見たんだけど、ウチがちゃんと「博物館」として、存在理由を保てるのか不安になるよね。ああゆうのを見せられてしまうと、、、
 これで、ここまでを別視点で見られたかな?

2010年02月10日

最近、注目の媒体

 斎宮で言えば初期のスライドがガチャガチャの方が差別化できていたのかもしれない。今ではハイビジョンだけなら家のテレビでも見られるわけだし、、、
 あの土師器が割れて発掘のシーンになる所が好き。鈴鹿の関を閉じるか開けるかも、そうだけど、科学的な実証の下に衝撃をあたえる手法というのは見習うべき所があるよね。
 ああ、本題。もうネタバレになってるなら、副題も発表すればいいんだけど、もう少し話を進めてからにしよう。
 最近、媒体として注目される人物を2組あげよう。ガルネク(GIRL NEXT DOOR以下同じ)と福田天人氏である。
 福田氏は一般の方でここで名前を公表すべきではないか?(下手な研究者より知名度はあるし、自分をプロモーションする必要もあるんだからいいや)最近の発言でも「表現者ではない」ようなことを示唆しているが、なぜ表現者であることを否定する必要があるんだ?
 まあ、以前の教訓もあり、表現同士を融合させてゆくことはトラウマなんだろうか? しかし、どこかで表現者であることを表明しておくことは、彼の、その先を考えた場合、マイナスにはならないと思う。
 変な言い方をすれば、ビジネスモデルはこっちで考えるんだから、そのモデルの中で自己表現を、どう行うか? の方をマジメに考えて欲しい。それほど、一方的に不利な提案ではない気がする。
 いま一方、ガルネクについては回を改めよう!

2010年02月09日

ひ・か・る

チョコ2
 はい、逆チョコ。
 ああ、多情多恨だよね。私の心、返して~~~♪

 あっ、くまちゃん!
 いや、これは違うの、ほら、ブラックチョコでしょ。
 ほら、
 あっ。うっぐっっっ。っい、いきなり!
 いいえ、そんなことありません。すごくうれしいです。
 ああ、くまちゃん♡
(病気だな、、、)

過去の話

 たまたま、斎宮のハイビジョンのメインキングのあたりを見てて、ああ、歴史系でも十分、コンセプトがあえば上映可能なんだろうなと思う。時代考証とか云々ではなくて、もっと「斎王みたいな内親王的な高貴な女性が、往生をして天上からクモの糸を垂らしている」くらいのニアミスでも、初期であれば話題性でいけるのではないだろうか? 「現代において〈太閤神話〉はこのように再生産されている」でもいい訳だし。
 まあ、そんなこと言ってても、美術館の映像資料とビデオクリップでは、『クインテット』と『ハッチポッチ』くらいの質の違いがあると、言われても仕方がないわけだし、でも、その質の違いという認識の側に、これからの美術の潮流を牽引する何かがひそんでいるわけで、映画や美術品から、音楽映像がインスパイアされたように、逆輸入もこれからは可能なのかもしれない。逆に、逆輸入を可能にするぐらいのモチベーションがなければ、音楽映像に未来はないわけで、そのアポトーシスを見るのはたまらなく恍惚を僕に与えてくれるであろう。
 結局、僕が何をやろうとしているのか、わかるだろうか?(もう8割方、ネタバレという話もある)
 それをやる前に過去を概観すべきか?
「Can You Keep A Secret?」~「You Make Me Want To Be A Man」までの作品群と『月に沈む』を挙げておけばよいのか?
 00年代の歌謡界で〈時代と寝た女〉は2人しかいない。(たぶん、僕が、そうだといいきれば、そういうことなのだ!)その作品群をおいて、他に何を挙げるべきか? まあ、前者が「母性」とか「自己複製」のようなテーマを扱っているのに対して、後者ではイコノロジーによるモティーフの解釈学に明け暮れているのが、それぞれの特徴だ。
 まあ、美術館に飾るとすれば「Free & Easy」のような詞というより散文的な歌詞をオーケストラミックスしたような編曲の曲に、「SAKURA ドロップス」のような映像をつけるのか?
 光琳の「紅白梅図屏風」がいいよね。ものすごく手前にある若い紅梅と、ずーっと奥にある白梅の老木。正面のある位置から見ると、それは整然とした「紅白梅図屏風」なんだけど、一歩視点を変えると、空中を浮遊するそれぞれのモティーフにしかすぎない。背景と思われていた金箔も、遠近法によって様々な大きさの金箔が浮遊しているにすぎない。その真ん中・中央に、こうこうと流れる川がある。こんなイメーヂ。
「彼の作品と、僕の作品だったら、若沖と光琳くらい違う。ああ、自分を光琳というのはおかしいか? 琳派。琳派の末席くらい違う。それは、彼が若沖的な作風だと言うのではなくて、作品の距離感。ある人が見れば、それは「日本画」というくくりで、同じなのかもしれない。でも、そこには、確実に作風の差異があるわけで、でも、それは横柄だけど、解る人にだけ判ってもらいたい」
 いってみて~~え! こんなこと素面では、たぶん言えませんが、、、

2010年02月08日

新規事業開拓

 いや、べつによりを戻せとか言ってるわけぢゃないから、、、
 自分の事、書かれるより自分に近しい人のことを書かれるときの方が感情は複雑だよね。オレも史雅が、何考えてるかわからんとか、低能だとか言われたら、ヤだもん。

 なんで、いきなり映像コンテンツかと言えば、美術の潮流の中で『液晶絵画』は1つの方向性を持ち始めているだろう。たまたま、展覧会自体はいけなくて、図録も持っていない。でも、動画コンテンツで紙印刷の図録が、そのすべてを表現できるのだろうか? という疑問も起こるわけで、、、
 また、世界のナベアツ氏が液晶画面を用いたネタや、いわゆるフリップ漫談の類。あるいは、美術館でパフォーマンス・液晶美術として見たときに、そこに違和感が存在するかは疑問だ。
 逆に考えれば、ミュージッククリップを美術館に寄贈することによって、プロモーションを行うようなビジネスモデルは作り得ないのだろうか?
 プロモーションの期間は講堂や展示室でミュージッククリップが流される。アーチストのファンや、新しもの好きが多く訪れるだろう。その中で、企画展や常設展のコーナーでミュージッククリップの思想的背景になったであろう美術品、美術界の潮流のデモンストレーション。けっこう、ウインウインの関係が築けると思うのだが。。。
 ただ、その後の権利関係がややこしい。美術館には静寂がつきものだ。映像だけの展示は可能なのだろうか? また、再生の回数に応じた著作権使用料が発生するのか? そもそも、権利関係が、そんなに、ごちゃごちゃしているものの寄贈が可能なのだろうか?

 もっとなんか、ひっくり返したような発想ができると思うんだよね。alan氏のミュージッククリップの予告編としての映画とか、、、「いや、映画は付帯物でミュージッククリップが本編だから、、、」まあ、この辺は以前指摘したことがある。

2010年02月07日

映像コンテンツ

 まあ「平板さ」はさておき、いったん、映像コンテンツについて考えてみたい。
 映像共有サイトを見るかぎり、映像は短編、小画面へ移行していないだろうか?
 映画は本編から予告編へ、適度な長さが違和感なく見れる方法としてミュージック・クリップのような媒体が優れた媒体と言わざるをえない。
 音楽映像、その拡大発展的な映画、予告編、そして、再び音楽映像に帰るような。。。
 まあ、小画面の問題は、ネットブックは、さておき、デスクトップ、ノートともに大画面化しつつあるのが、現在の状況だろう。こっちの問題は、画面の大きさ云々で萎縮する必要はない。(まあ、漠然とした絵の構図はあるわけで、、、)

余談

 美人通訳と行くボストン美術館って、どんな感じなんだろ?
 一緒に行く人が美人なのはツミだよね。作品に集中できないから、、、

 今日、たぶん益川先生に会ったよ。名駅の本屋で講談社学術文庫とちくま学芸文庫の棚を眺めてた。
 それが誰も気付かないの。本屋だからなのか、当たり前の存在なのか?
 いや、別に声はかけないよ。ミーハーぢゃないから。
 だから、百万人の知名度理論でいうと、僕が1人わかった時点で、あと二百人いないと、もう一人気付かないことになる。あの空間に二百人はいないわな。。。

 なにげに普通のブログになってもた。

2題

安城市歴史博物館
発掘された日本列島2009
 そうか、弥生時代なら「河内潟」か、、、古墳時代の後期になって、あの辺が「クサカ」になるのか?
 なんていうか、トラディショナルというか絶大な権力に、すでに、ほころびが現れ始めていて、その場へ彼らは降り立つ。すでに知っていたのか? 河内での画策の中でか? オオヤマトに、もっと諸元的な権力の源泉があることに気付く。河内で安閑が生まれ河内の豪族の中で養育され、宣化は彼らがオオヤマトにたどり着いた時に生まれ、畝傍山麓の豪族に養育される。欽明もオオヤマトの生まれなんだろう。
 全然話がそれた。時代順の展示とは別にテーマ展があって、今回は「平城京大極殿」。復元大極殿の小屋組の図面がない。別に後ろめたいことがないんだから出せばいいのに、、、
 年次を重ねて、そのすごさがわかる遺跡の展示がこれからのポイントだね。大型開発に伴う遺跡は減る一方だから、計画的・学術的に年次をまたいで調査される遺跡の情報発信や再発見などは、今後『発掘された日本列島』の柱になるテーマだろう。尾張国分寺も史跡指定の過程で『発掘された日本列島』で取り上げられるのだろう。だから学術論文で注目された遺跡なんかでもいいんだよね。
 よく「当たり年と、そうぢゃない年があるからね、、、」と言われる展示だが、興行的に安定するような展示上の工夫が、、、って、もうなされてるのか?

JR名古屋高島屋
小杉小二郎・森田りえ子 二人展
『日曜美術館』で森田りえ子氏の作品を知って見に行く。何号ぐらいだ? 比較的、小さめの絵が飾られていて、その下に作者のエッセイが一編づつ。時間の都合で読まなかったんだけど、ちょっと長い。でも、ああゆう画廊の作品をつぶさに見てゆくことが、作家をディスカバーしたり、新たな潮流をつかむには必要なのかもしれない。

安城市歴史博物館
特別展
発掘された日本列島2009
100116~0228

JR名古屋高島屋
小杉小二郎・森田りえ子 二人展
100203~0209

2010年02月06日

僕は、、、

 下のと、どっちが副生成物になるんだ? まあいいや。
 こういう言い方ってしたんだっけ? なんか、こんな言い方しても意味不明かな? と思わなくて言わなかったんだけど、

 オレってブログだから

 ブログに蓄積された情報が本体で、それを増補・改変できるシステムが付随しているだけで、、、
 文字列に恋するなんて、変だと思わない?
 オレ、タダの文字列で記号の蓄積だよ。

 ちゃんと伝わるかな?

病理について

 まあ、医療法人でも、宗教法人でもないし、医学者でもないんだから、別に何書いてもいいんだろうけど、一応「病理」としておこう。
『攻殻機動隊』の人形使いをしらべてて、ああ病理って、こういうことなんだ、なんとなく腑に落ちた。
 一般に病理については「現実と頭の中でおこったことの区別が付かなくなる」と説明される。しかし、この説明は納得がいかない。極端な言い方をすれば「相手の気持ちをおもんばかる」ことは頭の中で行われることだ。その頭の中でおきたことを前提に人間は行動しないのか?
 つまり、「現実」と「頭の中のこと」の区別の問題ではなくて、頭の中でおこったことと、現実に乖離が生じていて、その乖離が一般の生活に支障を来す状態というのが「病理」なのではないだろうか?
 だから、一種のかんしゃくに近いものだよね。病理のことを分裂と呼ぶのは、この「現実」と「頭の中のこと」の乖離に、その根があるのではないだろうか?

 つまり「好き」と思うことは別にかまわないけど、「苦しい」と感じるようであれば病理的ということだろうか? だから「苦しい」を受け入れなくちゃならないんだよね。

2010年02月04日

「平板なpopアート」

『稲澤文化博物館(仮称)』
開館準備企画展
平板なpopアート~ガルネク回折格子~

 popアートは便器をひっくり返して、サインをしたことから始まり、、、なんて、堅苦しいことは抜きにして、もっと、テレビCMのような、「モナリザ」や「ゴッホ」がしゃべり出すよう、あれって「モリムラぢゃねぇ?」的な。
 だから、あれと、モリムラを弁別する回路とは一体何なのか? それは「pop」という大衆迎合的な軽はずみの部分と大きく状況を異にする。あのテレビCMこそpopアートなのかもしれない。逆にモリムラに権威を感じてはいないだろうか?
 しかし、あのテレビCMに〈美〉はあるのか?
 まあいいや、前置きはそれくらいにして、「平板なpopアート」の、その「平板さ」を説明してゆきたい。

「HOPE or PAIN」

 あなたは自分が本物だと思ってるかもしれないけど、
 本物かどうかなんて、私にしか決定権がないんだから、、、

 たぶん、こんな考え方してたら、全部、偽物に見えちゃうんだろうな。
 だから、そこにあるものが偽物に見えるのは、それが僕ぢゃないからぢゃなくて、君が、それを本物と認知しないだけの話なんだよ。
 こんな歌詞書かれても、〈好き〉になっちゃう、オレの精神って何? もう洗脳としか、言いようがないぢゃん!
 これからは、折に触れ、こんなことについても、力強くふれてゆくから。。。

2010年02月03日

寸評

初乗りの 熱田の宮に 夫婦かな
初乗りの 熱田の宮に 人の列

 一般に考えた場合、2句目までが同じと言うことになれば、つきすぎの感が否めない。
 2句とも良句ではないと考えるか、とるにしても、どちらか1句にするのが妥当であろう。
 両句の難点を挙げれば、初乗りの電車なり自動車が着眼点なのか、熱田の宮での作句なのかがはっきりしないというのが、両句に共通の難点。例えば初句を「初乗りで」と代えるだけで大きく違うことに気づくだろう。
 前の句は夫婦で行ったのか、夫婦を見たのかがはっきりしない。前者なら初句を「夫婦して」のように作句すれば、斬新な句になろう。後者であれば、初詣の人混みの中で、どう夫婦と弁別したか? あるいは、人混みのない時期に初詣に行った理由を句の中に盛り込むと良句となろう。
 後の句は、初詣のあの人混みを「列」とは、考えられない。列は一定の規則性のもとに整然とした人々の並びをいう。初詣の、あの人々に規則性があるとは考えない。民草、人波、人混みのような語を用いるのが適当ではないだろうか?
 つまり、この2句を添削するとすれば、

夫婦して 初乗りをして 熱田まで
初乗りで 夫婦のおそき 宮詣
初乗りで 熱田へ向かう 人の波

 まあ、「熱田」を「「生丸火」田」など異体字を用いたり、「伊勢」と場所を変えてしまうだけで、句の雰囲気は大きく変わる。
 また、「熱田」は「熱田社」が古い表現。

黒光りするチョコ

黒光りするもの

 く、くまちゃん。少し早いけど、はい。バレンタインのチョコレート。

 えっ? 逆チョコでもないし、僕がガトーショコラとか作ったら、くまちゃん引くかな? と、思って、手作りとか、重いでしょ。

 えっ? そんなつもりぢゃないよ。そんなの違う。

(カーーーッ!)そ、そんなこと、恥ずかしくて言えないよ。

 えっ!? いや、くまちゃん! 僕を捨てないで!

 ダっ、、、はい、わかりました言います。

 えっ! でも、、、っち、違うの! 言います。僕が言いたいから言うんです。

 いっ言います。でも、くまちゃん聞かないで!

 もう! いぢわる。くまちゃんに聞かせたいから言います。ちゃんと聞いてください。
(、、、ぎゃーーーっ。こんなこと言ったら後戻りできない)
 くまちゃんの、大っきくて、黒光りするアレのことを考えていたら、黒光りするコレを選んでしまいました。
 くまちゃんに、コレを差し上げますから、僕にくまちゃんの黒光りするアレを食べさせてください。、、、えっ? はい。お願いします。食べさせてください。
 うえ~~ん。大きすぎて全部入らないよ、、、(写真のこと)


 どんどん、くまちゃんに溺れてっちゃうよ。
 でも、「ただ不器用だけれど好きなものを好きなだけで十分」って思えないんだろうね。

2010年02月02日

ジェンダー

げ、くまちゃんに乗り換えてから、なんか心穏やかなのに気付く。
ここ2年くらいの、心の澱は何だったんだろう?
たぶん〈男〉というジェンダーを演じるのが苦手なんだろうな。かといって、それが直接的に〈女〉というジェンダーを選択することに、つながらなかったんだわな。容姿とか〈演じること〉に対する劣等感から。。。

フランケンシュタイン・コンプレックス。こんな言葉があるそうな。

まあ、ガンバれよ。くまちゃんの保護者殿。

2010年02月01日

大阪歴史博物館図録

「展示の見所」

 形態に対するセンスがいいのかググッときてしまった。
 常設展の図録があって、その細説が「展示の見所」という小冊子になっている。赤が~律令、青が中世~近世、近代が緑だったかな?
「とりあえず、赤いのだけちょうだい!」
 という買い方をしてしまった。みんな買った方がよかったのかな?
 あと『なにわ考古研究所』の野帳。付録に展示内容の冊子がついてて、それが僕のツボなの。ああでも、もう、こういう内容は、自分でプレゼンできないといけないよね。『新てびき』が入手できるものなら、それ準拠でQSにするか? もっと現説QSみたいなものの方が利用価値があるか?
 ああ、児童・生徒で野帳買った人は、展示内容を自分でまとめ直すような作業を野帳に書き込むといいよ。何回も大阪歴史博物館に行けるようなら、その次は、時代ごとの土器の様子を実物を見て、まとめてみよう。あとは遺跡地図をもって表採かな?(大阪市内は無理なのかな?)と書きつつ、こんなのボランティアのマニュアルの領域だよね。
 鈴鹿でも、こういうバックヤード的な施設はそろえているけど、どのくらい活用されているんだろう?

遺跡命名のカタルシス

 まあ、こういうことを書くと良識を疑われるのかもしれないが、命名にはカタルシスがあるわけで、それは人間の子供でも、遺跡でも同じこと。
 まあ、遺跡の場合、遺跡名は様式を規定し時代を画する可能性を含んでいる。(まあ、人間でもネームリアクションみたいなものはあるわな)
 須ヶ谷の地域名は「すかたに」が適当ではないかという旨は以前指摘した。しかし、遺跡名は「すがたに」遺跡である。こういうのみると、やっぱ命名者のカタルシスを思わざるにはいられない。
 まあ、地域名「はさま」の所に「はざま」遺跡があっても別にかまわないわな。紛らわしいと言うだけで。名前というのは、あくまで記号だから、その記号の下で集積された情報の方に実は重要な意味がある。だから、ネットでハンドルネームで会話していても、情報が積み重なっていけば、ハンドルネームの下に人格が宿る。逆になりすましは犯罪扱いされるというのも、そういう理由からだ。
 結局、遺跡の命名も記号を割り振るだけの話だから、別に命名者のセンスが反映されるものだと思う。まあセンスというか本人にとっての口なじみの良さも大きく関わるんだろうな。それが妥当であるかどうかは、その記号が継承されるかどうか? なのだろう。
 まあ、地域住民とか、学史的な観点から言ったら、みっともないのかもしれないが、、、それは当事者ではないから知らない。